電子男
@natama
一章
メロスは激怒した。冴えなかった同級生のSNSでの結婚報告に。
メロスは激怒した。今朝も、成功し続けているあいつと比較されたことに。
「いつからこうなっちゃったんだろ…」
長く雑に交わった黒髪の奥の薄暗い天井を見つめる。
学生時代から何もなかった。
メロスは今、電子世界に生きている。
何も特別なことがなかった。
そんな彼が見つけた特別。
それがネットだった。
今日も自室のパソコンを開く。光が眩しい。
目を細めて、アプリを起動する。ネットの友人であるフィロストラトスという男と通話し、ゲームを夜通しする。
少し時間が経つ。
雨音がうるさいと窓に顔を向けたら、空が暗くなっていることに気付く。
月を見るたびに、メロスは自分の日常に不信感を抱いていた。
パソコンに照らされた肌は、世紀末だった。
そんな日常を気が狂うほど繰り返していた。
しかし、6月某日。フィロストラトスから一通の誘いが届く。
ーーコミックマーケット、一緒に行かない?
毎年彼からはコミケにいったという無駄な報告を聞く。
意味のわからない横文字を並べ果てのない自慢話を聞かされる。
そのうち鴉が鳴きはじめて、ちょっとしたら夜が更けていく。
もはやそれは恒例行事だった。
しかし、誘われたことは一度もない。
そして、メロスはアニメなどというものを見たことが一切ない。
価値を見出していない。
オタクという人種に、軽蔑すら覚えた。
「俺は別に…興味とかないかな…」
メロスの低い声が部屋中に溶ける。
「お願い。たぶん最後のチャンスだと思うんだ」
フィロストラトスの鼻息混じりの高い声がイヤホン越しに籠って響く。
熱気と興奮で空気が湿っている。耳の中に水が入ったみたいで気持ち悪かった。
結局メロスは、フィロストラトスに押し切られ、東京行きを決めた。
前日午前10時。
「母さん、俺東京行ってくる…」
「……ずいぶん、変わったのね。なんか、もう別の人みたい」
母は目を丸くし、しばらく言葉を失った。
長く伸びていた髪は断ち切られ、白いシャツにジーンズ姿の息子がそこにいた。
不器用にそられた髭や、整えられた後の眉毛。見た目はそこらの好青年であった。
「…うん」
メロスは静かに頷いた。背中を向けたメロスの後ろ姿はまさに勇者と言えた。
「父さん…俺今から東京行ってくる」
父は何秒か言葉を失った。
「…お、おう…」
明らかに困惑した顔をしていた。何か言いたそうな顔をしていたが、それ以上は何も言ってこなかった。
「…行ってくる」
一寸小さく背を伸ばし、つばを飲み込む。
ドアノブに手を伸ばし、扉を開けた途端、恐ろしいほどの光が入り込んだ。
「眩し」
メロスは眉の辺りに手を置く。段々と視界を取り戻す。
周りを見渡せば、地球が広がっていた。
生き生きとした木々がそびえ立つ。空は水色に晴れ渡っている。
見上げれば、太陽がいっぱいであった。
ここはまるで、夢の中だ。
日光に眼を焼かれ、もう何も見えない。
ふらついて、よろめいた。
メロスは歩き出し、広島駅へ向かった。
あの夏の夢の中から、抜け出して、今メロスは足をしっかりと出していた。
なんとか限界寸前で広島駅に着く。
切符を買い、ホームへと登っていく。
ベンチに腰を下ろす。
初めての公共交通機関。
彼の久方ぶりの探究心が胸の内で顔を出し、踊っていた。
新幹線とはどんなものだろう。新幹線はどれだけ速いのか。
しばらくすると、後方からタイフーンのように風が吹き込む。
メロスが振り返ると、彼のもとへ轟絶なノイズが走ってきた。
振り返ると、目前に巨大な白い筐体があった。ファンタジーみたいに見える。
これが新幹線か。これが新幹線なのか。
人類の進化に感動しながら、メロスは筐体の中に乗り込んだ。
とても広かった。
暖色のライトがメロスを迎え入れる。
席に腰掛ける。不思議と落ち着いた。
しばらくすると、始まりのチャイムのようなアナウンスが流れた。旅の始まり。
片道4時間以上の旅は職の無いメロスにとって長く思えるであろう。
しかし、どこかの心が前を向いている。
「日本ってこんなにも広かったのか…」
窓に目を向けると、未来のような都市が広がっていた。
自室が世界である彼からみて、新幹線の窓から映る景色はさながらエリア51やマリアナ海溝の海底のような未知の領域である。
メロスの眼は一寸輝いていた。その眼の奥は真実だ。
午後3時45分
東京。
眼に入り込む東京の風景は、ここが本当に日本なのかと疑うほどであった。
うねり合う人々。そびえ立つ摩天楼。
幾度となく田園風景を見てきたメロスの脳裏に、東京の風景が焦げ付いた。
人々をかき分け、メロスはホテルへたどり着く。
午後五時過ぎ。
ベッドに体を沈めると、いつもの布団とは違う。
冷たいシーツの感触が肌を撫でた。
天井には妙に静かな空気が漂っている。
山の麓のにある竹藪の奥に佇む、霧みたいだ。
30分ぐらい経っただろうか。
メロスは考え込んだ。
学生時代、誰とも馴染めなかった。
修学旅行や職場体験などの人間が一斉に集うみたいなイベントを休みたいと思っていた。コミックマーケットもその部類であった。
実際、今までの道中メロスの内に後ろめたさは多少なりともあった。
しかし、今はどうだろうか?
どこかしらの彼が、変に期待を抱いている。
これがただの吹っ切れなのか。
それとも、メロスが人間を受け入れたというのか。
それは、メロス自身にもわかっていない。
だが今メロスは東京にいる。
鼓動が静寂の空間の中、存在を証明しているということだ。
生きているということをメロス本人が表しているのだ。
今この瞬間も心臓の鼓動が、力強くビートを刻み続けている!!
これが修学旅行前日の眠れない気持ちなのかとメロスは思った。
「…とりあえず飯でも食うか」
呟いて、立ち上がる。コンビニへ向かった。
ポップな入店メロディが妙に煩い。
店員の愛想のない声とのコントラストが、気持ちの悪い色彩を作り出している。
コンビニなんてきたのは何年ぶりだろうか。
人と直接会話を交わすのは何年ぶりだろうか。
ただのレジ袋がいるか。
ポイントカードを持っているか。
有象無象の業務的な会話。
ただそれだけにメロスは、心臓が押しつぶされそうになった。
最後に現実で会話したのはいつだろうか?
いつの間にか、インターネットという壁を通すことでしか、言葉を交わせない。
そうやってメロスは空虚な自分の人生を振り返る。彼の悪い癖だ。
こうやってまた、自分から自己嫌悪の殻にこもるのだ。
会計が終わった。
スマホを見ると午後6時。
眩しかった太陽がいつの間にか沈んでいることに気付く。
太陽を見ているうちに、メロスは東京の夕方の横顔に見惚れていた。
宙ぶらりんのセンチメンタルな気分が彼を包み込む。
そうやって、メロスは学生時代を回想した。
あの頃はまだ、帰路の夕日をただ眩しいとしか思っていなかった。
しかし、今のメロスにとってこの夕日は白昼夢色だった。
いつしかメロスの額に、かすかな清水が垂れていた。
「俺って今までなんのために生きてきたんだろ…」
誰の耳にも届かないはずの小さな独り言を呟いた。
メロスはまた自分の世界に引きこまれる。
なにもない人生。
中学も、高校も、大学も熱狂した趣味などはない。
誰とも反りが合わず、ずっと孤独であった。
そんなメロスにとって、初めて友といえる人と出会ったのが、ネットだった。
その友こそが、フィロストラトスだ。
彼とは、fpsゲームを介して出会った。
メロスはそれから自室に引きこもり、ネットの世界へめり込んでいった。
そんな彼はまさに「電子男」であろう。
そんな彼にも実は、妹がいる。
本名は高村結衣。現在27歳だ。メロスの5年後に生まれた。
彼女は、学生時代から成績優秀である。
黒縁メガネにキリッとした眼。
如何にも賢そうな風貌をしており、今も東京の大企業に務めている。
親からは何度も
「あんたも結衣みたいにしっかりしなさい!」
という。
声にならない声が出た。
彼だって、羨んでいる。
だがしようもないコンプレックスやプライドが邪魔する。
そんな孤独な男をこの夕日は照らし続ける。
夕暮れはもう到来中…
くだらないことをし続ける男はメロスだった。
「どうせなら……もうちょっとマシな、何かに……」
感傷に浸っているその刹那。何かが切れたのか、走り出した。
何がなんだかわからんであろう。
しかし、今こそが彼の空虚な人生を叩き壊す歴史的瞬間であった!
まさに初期衝動。
とにかく!メロスは!加速し続けた!
不登校。不摂生。それはそれは不格好だったろう。
足はもうとっくに限界。顔は青白く染まった。
それでも、腕を天へと伸ばし、東京の町を疾走している。
摩天楼が光を遮る。影が生まれる。鉄風が頬を斬る。
肺が軋む。心臓の鼓動が激化する。もう何も見えない。
それでも、走り続けた!
足音と鼓動がとてつもなく強いビートを刻み込んでいる。
まるでイカロスだ!
メロスは、太陽に向かって東京の風を集め続けていった。
そして彼がホテルへ戻ったとき、太陽はとっくに沈んでいた。
午後0時30分頃。フィロストラトスは地元茨城県から東京についた。
8月ということもあり、街にはもう夏将軍が到来していた。
少々ぽってりとした体型の彼は、やや多量の汗をかいていた。
背中にシャツが張り付いて一寸気持ち悪い。
フィロストラトスは昼食を買いにコンビニへと向かった。
ポカリとカップラーメンという気持ち悪い組み合わせをレジに持っていく。
彼にとって、味覚という概念は影が薄いのだ。
外に出る。湿ったメガネの奥を見据えながら、ホテルへとフィロストラトスは歩き出していく。
午後1時15分。ホテルについた。部屋は簡素で味気ない。
とりあえずシャワーを浴びる。
コミックマーケットという一大イベントの前において、普段は風呂に入らないフィロストラトスにとっても衛生管理は必須事項なのだ。
濡れて後ろに髪が仰け反った。
生え際の寂しさに気付く。
学生時代から、そのことでフィロストラトスはいじめられていた。
彼は中学校から、デブやらハゲやら罵倒され続けていた。
一時期は鬱病になり、自殺志願者であった。
しかしそんな、フィロストラトスを救ってくれたのがあるアニメだ。
それは鬱病患者の主人公が、ネットを通して自分の人生を豊かにしていくというアニメである。
そのアニメは設定や構成こそ単純であったが、鬱病や社会との軋轢という視点においての解像度が非常に優れていた。
まさにフィロストラトス自身が主人公のようだった。
それからも、さらにフィロストラトスへのいじめは加速した。
オタクなどと罵られ、暴力を受けることもあった。
当時好きだった娘からもまっすぐにキモいやら言われた。
フィロストラトスは深く傷ついた。しかし、彼はアニメを信じ続けた。
そして今がある。
「これで…いいってことにしても、いいよね?」
呟いた。
静かなホテルの一室に、言葉だけが宙に浮いている。
自分を肯定しているはずだが、微かに疑念の心があった。
もし、あの時こうしていれば…。
もし、あの時ああだったら…。
抽象的な妄想がフィロストラトスの脳内をただひたすら漂い続けている。
そのまま彼は眠ってしまった。
午前5時25分、フィロストラトスは薄く目を開ける。
およそ何時間寝ただろうか。朝日が白く眩しい。
彼は朦朧とした意識の中、自分自身を取り戻すのをじっと待っていた。
そうしているうちに現実と残像は繰り返す。
また眼を閉じる。思い出す…
17歳。7月。
チャイムがうっすらと聞こえる。
帰路を歩いている。
眼前には楽しげな二人の少女。片方には好きだったあの娘。
「い…いつの間に俺は…こ、ここに?」
ズレた眼鏡をかけ直すが、状況が何も飲み込めない。
ただそこに浮遊した情景が浮かんでいる。
空はまるで、絵画のようにぼやけ、日光の乱反射でほとんど前が見えない。
しかし、はっきりと真ん前にはかつての好きだったあの娘がいた。
体が焼かれるほど暑い。
夏だろうか。これは夢なのだろうか。それとも走馬灯なのだろうか。
長い時間が過ぎていく。脈拍が加速する。
こうしているうちにも、少女たちは遠のいていく。
考えたところで現在は変わらない。
フィロストラトスは、何かを決意した。
「今しか…」
フィロストラトスは歩き出した。
フィロストラトスは走り出した。
瞬間。気付いたら額に伝わる汗や、道を遮るような風は去っていった。
あれだけ暑かったはずなのに、なぜか今は涼しい。
何気ない日常の一節。
だが、ノスタルジック。
気づいたら彼は夏であった。
いつもの街角がアツレキで狂っている。毎日の帰路。
だが、赤い。赤い。
終わりの季節が彼を帯びていた。
空には故郷の香りがしている。
あの香りはいまだ変わらないだろうか。
フィロストラトスは眼が覚めた。
何年も前の朧げな記憶。どこかのさりげない風景。
それが本当に存在していたかも怪しい。
だがそれは、不確かな靄の中で確かに見えた。
摩訶不思議なものを見ていたフィロストラトスであったが、その時の彼はなぜか冷静だった。
立ち上がる。
足がよろめきながらも、洗面室へ向かってゆく。
顔を洗い、眼鏡をかける。今日は心做しか顔色が良好。
外に出ると、とても暑かった。
8月の情熱的な風が吹いている。
メロスは本当にくるのか。
自分のことを嫌いにならないだろうか。
フィロストラトスはメロスのように、勝手に自己嫌悪に陥ることが多々ある。
しかし今の彼には、出どころもわからい自信が湧き上がっていた。
集合場所についたフィロストラトス。
時刻は7時9分。
まだ、メロスは来ていないようだ。
遅刻かと思った時、細身の白い男が一人。息を切らしながら走っていった。
フィロストラトスは訪ねた。
「すいません…メロスさんですか?」
男は静かに頷いた。
二人の間に、確かなものは何一つなかった。趣味の一致も、思想の一致も、人生観の一致も。唯一、共有していたのは、どうしようもない孤独と、取り返しのつかない過去だった。
「…行こうか」
パソコンの向こうで聞いたメロスの声だった。
聞き慣れた声だ。
メロスは、黙ってその後ろを歩き始めた。
会場は、すでに人々の熱気で満ちていた。
早朝にもかかわらず、構内はとても蒸し暑い。
天井には雲がモクモクと上がっていた。狼煙みたいだ。
「すげぇ…」
メロスが漏らす。どれだけバカにしていた世界か。だが今、彼の目に映るそれは、まぎれもなく一つの文化だった。人間がいる。熱狂がある。
大きな荷物を抱えた男女が走っていく。Tシャツには奇妙なプリント。首から提げたリストバンド。何百、何千もの人々がいる。
それが、ひどく羨ましかった。
フィロストラトスは、何も言わず彼を列の方へ導いた。
「…ありがとうな」
ぽつりと、メロスが言った。フィロストラトスは驚いたように振り返る。
「え?」
「いや、こんなとこ連れてきてくれて」
「……や、いや…。こちらこそ…。」
不格好な会話。
メロスはふと、空を見上げる。眩しかった。東京の光が。感電したみたいに。
どれだけ時が経ったろう。
午後の土曜日は、いつもメロスを不思議な気持ちにさせる。
過去と重ね合わせる。
メロスは群衆に馴染めることができなかった。
そうやって馴染めない内に、集団の中にいることを恥ずかしく感じた。
価値がないと考えた。
周りを見渡すと人々がいる。
誰かが誰かを呼んでいる。
それが、自分でなくてもよかった。
ただ今は、この中にいても良かった。
それだけに、価値を見いだせた。
上を見上げると、そこには確かに太陽がいっぱいであった。
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