第17話


 アゲハ蝶が海に向かって飛んでいく。その先には羽を休める陸が無い。渡り蝶でもない。ただのアゲハ蝶。でも海原を目指して飛んでいく。きっと羽を休めた時その蝶は死ぬだろう。それでも蝶は沖へ沖へと向かって見えなくなった。まだ見ぬ世界を求めて羽ばたいていった



 以前僕は、文芸部で鳥が餌を求めて地面に急降下するのを見ていると、地面にそのまま体当たりをして死んだという話を書いた。その鳥は自らそれを選んだという内容。あの時、図書室から追いかけてきた真田は、何かを見たのかと聞いてきた事を思い出す。その後に詩が野元の遺書と見なされたと、多分、この文章の事だろうと僕は思った。


 確かに死の香りが漂う文章に思える。でもそれは野元海人が死んだ事によって完成された文章のような気がした。どちらにせよ本意は誰にもわからない。分からなくていいと思う。ただ僕は、彼が死んだという情報を持って読んだこの文章を、綺麗だと感じた。


 席の側まで戻って来ると岳が、本棚の向こうにある窓を見ている。ポツリと「外が騒がしいな」とこぼした。そのまま窓際に移動すると、救急車、パトカーが校庭に押し寄せている。サイレンの音が最後の雄叫びをあげては消え、赤い回転灯は、死を連想させるように回り続けている。その様子は、佐伯が落ちた時とよく似ていた。


「自業自得だよな。あいつら」


 移動してきた岳が窓を覗きこんでいた。

 それから僕らは図書室も飽き、職員室へと向かった。電話番と思われる先生のほかに担任、副担任が受話器をずっと握っている。担任の中津川はこちら側に背を向け、副担任である前田の頭が、担任と向かい合わせになった机の上に並べられた本の上から、見え隠れしていた。


 中津川の席に並べられた本のほとんどは学校関連の物で、数冊だけ個人的な本だろうか。英字のタイトルから見て、翻訳されていない英文の書籍が混じっていた。


「忙しそうだな」

「だって皆が馬鹿になったんだから、仕方が無いんじゃないかな」


 頭を前後に動かしながら揺れている中津川の電話が、終わりそうな雰囲気だった。近づく僕らに気が付いて、目線だけで待つように指示をしてくる。


「はい、はい。いえ、今は調査中でして明日にでも緊急に招集を……申し訳ありません。はい、失礼します」


 受話器を置いた中津川の顔は憔悴し、いつもよりまして老けて見えた。


「大野くん、諏訪部くん。あなた達は大丈夫のようね」

「はい。先生も大丈夫ですか? かなり疲れているみたいですけど」


 岳が優しく、いたわる様に話し掛けている。クラスメイトと話をしている時も丁寧に優しく対応しているのを見てきたが、それとは種類が違うように見える。


「私は大丈夫よ。生徒達の苦痛に比べたら。それに仕事でもあるし。それでどうしたの?」


 岳が進行役をかって出てくれたので、僕は二人のやり取りを聞きながら、矢継ぎ早に電話をしていた前田に目を向けた。電話を切ってはまた掛けると言う作業を延々と繰り返している。その対応がマニュアル化された通販の電話対応と似ていた。


「大野、行こうか」

「ああ」


 話がついて職員室を出た。もう今日は授業にならないので下校してもいいと許可が下りた。


「どうする?」


 特に家に帰ってもする事がない。でも幕が引かれた学校にいる理由も無い。


「家に帰って、昼寝でもしようかな。岳は?」

「俺は部活があるしな」

「でも放課後まで時間があるじゃないか」

「まあ、何処かで時間でも潰す事にするわ」

「岳、ちょっと待ってて」


 僕は良い事を思いつき、職員室へ駆けだした。


「え?」


 職員室の壁に、教室以外の鍵が掛けられている前に立った。目的の物を見つけ、岳の元へ急いだ。人がいない職員室から鍵を拝借するのは簡単だった。


「大野?」

「ちょっと付き合ってよ」


 いつも見上げてみている場所へ、行ってみたいと常々考えていた。だが事故以来、鍵がかけられ自由に出入りが出来なくなっていた。


「おい大野、どこへ行くんだよ」

「屋上」


 野元海人と佐伯が生きている時にいた最後の場所。彼らが最後に立っていた場所に自分も立ってみたいと思っていた。

 四階を過ぎると壁だけになり、光が届かない踊り場は、コンクリートの冷たい息で冷やされている。その薄気味悪さが、今から死のうとする人間に対して、情緒を与えていたような感じだ。


「おい大野、なんで鍵なんて」

「借りてきたんだ」


 彼はさっき職員室に戻った理由を理解したのか、溜息だけが聞こえてきた。

 屋上に出るための扉にはすりガラスがはめ込まれており、外からの明かりで手元を見る事ができる。小さく鍵が外れた音が響いた。扉を開けると、冷たい風が狭い入口に凝縮され、一気に僕達に向かってくる。開けた視界の向こうには屋上のタイルと、低い塀があるだけで金網などない。その続きには青い道が続いているように見えた。


「案外、冷えるな」


 岳は自分で腕を抱え込む仕草で、僕を追い越していく。彼はゆっくりと塀に近づいていった。

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