『かすかな目覚め。』

荒川レンあらかわレン

ゆき

依姫栞よりひめしおり



広島県・呉市。

風が、廃墟の隙間を静かに吹き抜けていた。

温かい飲み物の熱だけが、まだ腹の奥に残っていた。

けれど、その苦味はもう、舌から消えていた。

再び、沈黙が戻る。

どこかで崩れかけた柱が軋む音が、遠くからかすかに聞こえるだけだった。

――知らない世界で目覚めるのは、これが初めてじゃない。

けれど、そのたびに胸を刺す痛みは、変わらない。

ようやく理解したのだ。

これは夢じゃない。幻覚でもない。

現実だ。

繰り返し、死に戻るこの循環は、本物なのだ。

僕は――また死んだのだ。

しかし、この場所は今までと明らかに違っていた。

音はすべて鈍く、空気は重く、空はまるで希望さえも凍らせたように動かない。

世界が、壊れていた。

窓の外には、戦火に焼かれた建物の骨組みだけが残っていた。

まるで時間が、破滅の直後で止まったかのように。

頭の中はまだ霧に包まれていたが、少しずつ、繰り返すものの輪郭が見えはじめていた。

――あの姿。

鈴の音。風には不釣り合いなその響き。

そしてもうひとつ……

夢の中に現れる、手を繋いで歩く誰かの姿。

顔は見えない。

その輪郭は、光に包まれ、どこか不完全だった。

だが、感情だけは――確かだった。

知っている。

この胸の奥に刻まれている。

彼女を――僕は知っている。

たとえ理由を忘れてしまっていても。

「もう熱は引いたみたいね。よかった。あと数日で体力も戻るでしょうけど……」

そう言って、栞さんが濡れたタオルを手に部屋へ戻ってきた。

でも、彼女はその先を言葉にしなかった。

……言う必要もなかった。

その視線の逸らし方。

僕が知っている栞さんとは、どこかが違っていた。

言葉を選ぶような口調。

何を見せて、何を隠すべきかを、まるで計っているようだった。

「助けてくれて……ありがとう」

そう言うと、栞さんは静かにうなずいた。返事はなかった。

彼女が額に濡れたタオルを当てようと近づいてきたとき、ふと、視線が重なった。

ほんの一瞬。

けれど、その一瞬の中に、胸の奥が震えるような感覚が走った。

古い感情。遠くで響くような記憶の残響。

まるで、以前もこの瞬間を共にしたような――そして、すでに失ったような気がした。

「……初めて会った気がしない、そんな人に出会ったことはある?」

気づけば、口をついて出ていた。

栞さんはタオルを外し、立ち上がると、淡々とした声で答えた。

「人は、ときに自分の願いを他人に重ねるものよ。無理に思い出そうとしないで。もし本物の記憶なら、いずれ自然に戻ってくるはずだから」

その言葉にはどこか突き放すような冷静さがあった。けれど、瞳の奥には、それ以上のものが確かにあった。

彼女は部屋を出ていった。残されたのは、風にあおられる粗末なビニールシートの音だけ。

僕はゆっくりと体を起こした。

痛みはまだあったが、もう動けた。

外は夕暮れが始まり、赤橙の光が崩れた街を照らしていた。

この場所、この街には、深い傷跡が刻まれている――

それは、まるで自分自身のように思えた。

窓辺に立ち、遠くの地平線を見つめた。

高く立ち昇る黒い煙が、空を責めるように指していた。

そしてその向こうには、海があった。

音もなく、ただそこに存在していた。

あとどれくらいこの世界にいるのか、わからない。

この先、いくつの世界が待っているのかも、わからない。

だけど、今ならはっきりと感じる。

ここに来たのは、偶然じゃない。

何かが僕を呼んでいる。

そして今度こそ、前と同じにはしない。

わずかでも『やるべきこと』が見えはじめたから。

――もっとも、人生が何を仕掛けてくるかなんて、誰にもわからないけど。

* * *

翌朝――

壁の隙間から冷たい風が忍び込み、この避難所さえも寒さから逃れられないようだった。

僕は、簡易ベッド代わりに使われていた机の端に腰を下ろした。

筋肉はまだ痛んでいたが、少なくとも体を動かすことはできた。

部屋には、栞さんの姿はなかった。

そこにあったのは、静寂と、遠くで軋む床板の音、そして誰かのかすかな話し声だけ。

僕はゆっくりと身を起こし、足元に巻いた粗い毛布をずらしながら、廊下へと出た。

裸足のまま、慎重に歩を進める。

思った以上に多くの人がそこにいた。

床に座っている者、布団に横たわる者、古いストーブのそばで身を寄せ合う者たち――

そのすべてが、戦争の傷跡を物語っていた。

片隅では、年老いた女性が湿った薪を使って、小さなストーブに火をつけようとしていた。

さらにその隣では――

顔に泥をつけ、ボロボロの服を着た少年が、無言でこちらを見ていた。

その瞳は、ただ静かで、深く――そして、何かを諦めているようだった。

少年のそばで足を止める。

「一人なのか?」

そう尋ねると、彼は首を横に振り、そしてゆっくりと空を指差した。

……まるで、家族があの空の向こうにいるかのように。

僕は何も言えなかった。

胸のどこかが、静かに軋むように痛んだ。

その先では、険しい顔をした男が、包丁を汚れた布で拭いていた。

彼の目には疲労と喪失が滲んでいたが、それでも気丈に振る舞おうとしているようだった。

僕の視線に気づくと、彼はぽつりとつぶやいた。

「呉の空襲で、家族を全部やられたよ……お前は……その顔、地元の人間じゃないな。どこから来た?」

……答えられなかった。

『東京の2024年から』なんて、言えるわけがない。

「……よく、覚えてないんです」

その言葉に、男はゆっくりとうなずいた。

まるで、それがよくある話だと知っているかのように。

「そうか……記憶がないのは辛いだろうな。けど、正直言えば……忘れられるもんなら、俺も忘れちまいたいさ……」

彼の声が、最後の一音だけ震えていた。

それを聞いて、僕は何も返せなかった。

何と答えていいのか分からなかった。

下手に言葉を発すれば、相手の古傷に触れてしまいそうで怖かった。

だから、僕は沈黙を選び、そのまま歩き続けた。

避難所での生活は、まるで時が止まっているかのようだった。

……あるいは、時間だけが僕たちを置いて先に進んでいるのかもしれない。

すべてが即席だった。

布団の代わりに米袋。

焼け焦げた板で補強された壁。

割れた窓には新聞紙が貼られていた。

それでも、人々は前に進もうとしていた。

まるで、世界がまだ終わっていないかのように。

……いや、まだ終わらせていないのだ。

人の強さは、本当に驚くべきものだと思った。

「そんなに歩き回らないほうがいいよ」

背後から、やさしい声が聞こえた。

振り返ると、栞さんが紙の封筒と包帯の入った箱を抱えて立っていた。

「……外の様子が、どうしても気になって」

そう答えると、彼女は僕の前を無言で歩きながら、視線を合わせようとはしなかった。

「……ひどい景色でしょう?」

「……そう言いたくはないけど、たしかに……その通りかもね」

すると、栞さんは無表情のまま僕を見つめた。

「現実をそのまま口にするのは、悪いことじゃないよ。確かに状況は最悪だけど、それでも残るものはある。すべてが失われるわけじゃない……

そして、私が言ってるのは『物』のことだけじゃない」

「……ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」

僕は、言葉を選びながらそう言った。

「気にしないで。戦争中には、よくあることだから」

栞さんは、少しだけ遠くを見るような目で言った。

「父は商人だったの。地元ではそこそこ知られていて、尊敬されていた。でも……戦争が始まってすぐ、薬が足りなくて……コレラで亡くなったの」

僕は何も言えなかった。

言葉が見つからなかった。

「……さっき話したでしょう? 悪い状況の中でも、良いことを見つけようって。全部が失われたわけじゃないから」

彼女の声は穏やかだったけれど、その奥にある芯の強さが感じられた。

「戦争が始まってから、輸入がどんどん制限されて、好きだったコーヒーも手に入らなくなって……ある日、私は諦めたの。もう飲めないんだって」

「……辛くなかったの?」

「最初はね。特に父が亡くなった後は、本当に何もかもが壊れてしまった気がしたわ。だけど、ある日、思ったの。誰かのために、自分の時間や力を使いたいって。そうして、私はここでの奉仕活動を始めたの」

「……すごいことだと思う」

「そんなに立派なことじゃないよ。ただ……子供の頃、たくさんの幸せをもらった分、今度は私が誰かに渡す番だと思っただけ」

栞さんはそう言いながら、遠い記憶を探るような眼差しをした。

「去年の冬ね、この避難所であるおばあさんと出会ったの。彼女は、湯気の立つカップを両手で抱えていたの。あまりにも美味しそうで、思わず見つめてしまった」

「それで……?」

「それが、今朝あなたに飲ませたあの苦い飲み物だったの。おばあさんは『体を温めるための薬草茶だよ』って、笑いながら少し分けてくれたの」

なぜだろう。

目の前にいるこの栞さんは、僕の知っている彼女よりも、誰かに近づいている気がした。

「正直、最初の一口は『苦い!』って思った。でも……すぐに、心の奥から懐かしさが込み上げてきてね。父が海外から帰るたびに淹れてくれたあのコーヒーのことを思い出したの」

「……そのおばあさん、今は?」

「もうこの世にはいないわ。去年の冬は本当に寒くてね……肺炎になって、春を迎える前に亡くなったの」

栞さんは少しだけ目を伏せた。

「でもね、彼女が教えてくれたの。希望は、思わぬところにあるって。それ以来、私はこのお茶を『希望の味』だと信じてるの。ここにいるみんなが、いつかそれぞれの夢に辿り着けるようにって。

……コーヒーがなくても、希望だけは、なくしちゃいけないって思ってる」

栞さんの言葉を聞いて、思わず拍手を送りたくなるような気持ちになった。

彼女の人生に対する見方は、成熟していて優しくて、たとえ僕の知っている栞さんとは違っていても……その『本質』は、間違いなく同じだった。

まるで、無限の知恵を宿している人のように感じられた。

「コーヒーって、あったかい別れの匂いがするって……誰かが言ってたのを聞いたことがある。意味はよく分からなかったけど、きっと綺麗なことなんだろうなって……

……僕は、誰ともちゃんと別れられなかったけどね」

僕の言葉に、ふたりの間に静けさが落ちた。

しばらくして、栞さんがぽつりと尋ねた。

「それで……君は? どうしてここに来たのか、思い出せた?」

「……いいえ。でも……これは、初めてじゃない気がするんです。こうやって、『別の時代』で目を覚ますのは……」

僕自身に語るようにそう言うと、彼女は穏やかに微笑んで言った。

「それは……熱のせいか、あるいは心が騒ぎすぎているのかもね」

……やっぱり、そうだ。

その言葉の選び方、その余韻、まるで時代も場所も超えて、彼女は『あの栞さん』と同じ心で話している。

「ねえ、栞さん……デジャヴって、信じますか?」

「信じてるわ。……時間がどんなに離しても、戻ってくるものはあると思うから」

「もし僕が……何か、分からないものに囚われてるとしたら。どうすればいいんでしょう?」

「まずは、ちゃんと『今』を見つめることね。答えは、案外すぐ近くにあるものよ」

それ以上、言葉はいらなかった。

それは沈黙というより、『必要な静けさ』だった。

確かに聞いたことのある言葉だった。

――別の時間で、彼女の口から……あの時も、そう言ってくれたような気がする。

栞さんはそっと視線を落とし、少し考えるような間をおいてから言った。

「記憶って、失われるものじゃないと思うの。ただ……どこか、探し方が分からない場所に隠れているだけ」

そう言い残して、彼女はそっと歩き出した。

廊下の古い板が、彼女の足元でかすかに鳴った。

その背中を僕は、しばらく見つめていた。

そうだ。

これは夢じゃない。現実なんだ。

そう思えたのは、今回が初めてだった。

でも同時に、僕は確信した。

これは偶然じゃない。

この世界は、また僕を『どこか』へ導こうとしている。

――まだ見えない、けれど確かに存在する『何かの目的』へと。

胸に手を当てた。

感じたのは、どこか懐かしくて温かい感覚だった。

まだこの世界に存在しないはずの、一杯の最後のひと口のような…そんな温もり。

……もしかしたら、記憶は消えたんじゃなくて、ただ『その時』を待っていたのかもしれない。

* * *

夜はすっかり更けていた。

もう、鈴虫の音も、セミの鳴き声も、電車の遠い走行音さえも聞こえなかった。

かつての僕の世界で、眠りにつく時に聞こえていたものが、すべて消えていた。

聞こえるのは、風が隙間から埃を運ぶ音と、燃え落ちた梁が軋む音だけ。

僕は藁の敷かれた簡易の寝床に横になり、古びた煙と薬草の匂いが染みついた毛布に包まれていた。

半分溶けかけた蝋燭が、ひび割れた天井に長い影を揺らしていた。

目を閉じようとしても、眠れなかった。

寒さだけが理由じゃなかった。

胸の奥に、何かが引っかかっていた。

息苦しさのような、不安のような……名前のない『呼び声』のようなもの。

そのまま天井を見つめながら、ようやく眠りが訪れた。

最初は何も見えなかった。

ただ、灰色の世界。

重くて、息が詰まるような、沈黙の風景。

やがて、雨が降り始めた。けれどそれは水じゃなかった。

――灰だった。

空が、何かを失ったことを悼むように、ゆっくりと降り注いでいた。

足元には泥、砕けたガラス、焼け落ちた瓦、そして蝶のように舞う焦げた紙くず。

まるで、戦争で焼けた街を模したような景色だった。

そして、何もないその中心に――

ひとりの少女がいた。

裸足だった。

濡れた黒髪が顔に張りついていて、大きすぎるボロボロの服は泥と煤で汚れていた。

彼女は小さく震えていた。

それが寒さなのか、恐怖なのか、それともその両方なのかは分からなかった。

だが、泣いてはいなかった。

ただ、黙って空を見上げていた。

――その顔を、僕はすぐに分かった。

「……雪さん……」

そう呟いたつもりだった。

けれど、夢の中の僕には声がなかった。

その時だった。

霧と灰の中から、もうひとつの影が現れた。

――女の人だった。

ゆっくりと歩いてくる。

長い白いリネンの服をまとい、その布は繊細で柔らかそうだったが、全体がすすけて黒ずんでいた。

その歩みには音がなかった。まるで、地に足をつけていないようだった。

彼女は雪さんのそばまで来ると、黙って膝をついた。

僕から見えるのは、背中だけ。

長い髪は、部分的に三つ編みにされていた。

けれど、その髪もまた乱れていて、まるで長い間、瓦礫の中を歩き続けていたように見えた。

ひと筋の髪が肩から垂れていて、夢の中の風にそっと揺れていた。

僕は近づこうとした。叫ぼうとした。

その顔を見ようと、回り込もうとした。

――だが、夢はそれを許さなかった。

動こうとするたびに、世界が僕を遠ざける。

まるで、僕のものではない記憶の中に迷い込んだような感覚だった。

その時、雪さんが顔を上げた。

彼女の唇が動いた。

何かを言った。

それに対して、女の人も言葉を返した。

けれど、その声は風にさらわれて、届かなかった。

次の瞬間、雪さんは僕の方を振り向くように顔を上げた。

見えたのは、形の曖昧な横顔だけ。

「来てくれたのね……嬉しいわ。これで、もう一歩近づいた――」

そう、確かにそう言った。

でも、そのあとにも何か言っていた気がする。

けれど、それはもう聞き取れなかった。

その瞬間、二人の姿は灰色の霧に溶けるようにして消えていった。

――そのとき、聞こえた。

チリン……チリン……チリン……

かすかな音。金属のような、世界の呼吸に合わせて揺れる小さな鈴の音。

そして、風景が崩れ始めた。

地面に亀裂が走り、空は真っ白になって、何もかもが光の中へと溶けていった。

「――!」

僕は飛び起きた。

避難所の中は、深い闇に包まれていた。

冷たい空気が肌を刺し、部屋の片隅にあった蝋燭は、すでに燃え尽きていた。

満月の光だけが、割れた窓から差し込んでいた。

青白く、そしてどこか哀しげに、部屋全体を染めていた。

胸の鼓動がまだ激しく鳴っている。

まるで、あの夢の中に、心だけが取り残されたかのように。

「また……隠されたメッセージかよ……」

そう呟いて、僕はゆっくりと身体を起こした。

深く息を吸い込む。

けれど、耳の奥では、あの鈴の音がまだ微かに鳴り続けていた。

窓際に歩み寄る。

ガラスの代わりに貼られた古新聞をそっとめくった。

外の世界は、依然として眠りの中にあった。

崩れた煙突、瓦礫と化した建物、そして――遠くには、沈黙したままの海が広がっている。

まるで、閉じきれない傷のように。

僕はそっと胸に手を当てた。

「……あの女の人は誰だったんだ。なぜ、雪さんと一緒に……?」

答えを求めるつもりもなく、ただ空気に問いかけた。

あの光景は、夢として片づけられなかった。

初めて見たはずなのに、どこか懐かしくて――

まるで、以前にも経験したことがあるような、そんな感覚。

それは現在からではなく、もっと深い場所から湧き上がる郷愁だった。

時間や場所を越えて、魂の奥に残っている何か。

「……あれは、僕の記憶? それとも、誰かのものだったのか……?」

窓越しに吹き込む夜風が、肌を冷たく撫でていく。

でも、僕はその冷たさが心地よかった。

何もかもが曖昧な世界の中で、それだけは確かに『今』を教えてくれるから。

そして、海の呼吸のような音が遠くで響くなか、僕はこの問いを、あらためて心に刻んだ。

「――いったい、あと何回目覚めれば……本当の『僕』に辿り着けるんだ?」

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