『準備。』

荒川レンあらかわレン

ゆき

依姫栞よりひめしおり

中島春樹なかじまはるき

中島恵美子なかじまえみこ


6月26日 - 午前5時

列車は静かな奥多摩を離れ、山々の間を縫うようにして走っていた。

窓の外では、木々が電柱に変わり、田畑が道路になり、空は次第に都市の灰色と混ざり始めていた。

遠くに見えるビルの影が、夜明けの光の中でぼんやりと姿を現しつつあった。

向かいの席で、春樹はうとうとと舟をこいでいた。

目を細め、列車の揺れに身を任せながら、眠りに落ちる寸前のようだった。

俺も眠かった。

けれど、なぜか眠れなかった。

疲れているわけじゃない。奥多摩での数日が、少しだけ心の霧を晴らしてくれたからだと思う。

むしろ、今回は――何かが起こりそうな、そんな予感のせいだった。

「戻ったら、どうするつもり?」

春樹が目を閉じたまま問いかけてきた。

「さあ……仕事を探すかな。何もしないわけにはいかないし」

そう答えると、春樹は眠そうに笑った。

「うまくいったら教えて。うまくいかなくても教えて。逃げたくなったら、また来てもいいし」

俺は笑った。

「逃げるつもりはないけど……また来ると思うよ」

「奥多摩に?」

「うん。祭りの前か、祭りのときに。まだ、片付いてないことがある気がする」

春樹はしばらく俺を見ていたが、何も言わずにそのまま目を閉じた。

全部を話すにはまだ早い。

そう感じた。

『幽霊の女の子が、子供の頃からずっと俺を待ってるかもしれない』なんて言ったら、きっと本気で心配されるだろう。

だけど、それでも春樹に何かを隠している自分が、少しだけ心苦しかった。

本当は、ほんの数日一緒にいただけなのに。

でも――あの懐かしさは、確かに本物だった。

「……そのうち、ちゃんと話そう」

そう心の中でつぶやきながら、再び窓の外に視線を向けた。

列車は都市へ向かって走り続けていた。

奥多摩で過ごした時間が、車窓の風景の中にゆっくりと溶けていく。

新宿駅に列車が到着すると、街は何の挨拶もなく俺たちを飲み込んだ。

人々が走り抜け、光るスクリーンが絶え間なく瞬き、広告の音が四方から鳴り響く。

東京の夏は独特の空気をまとっていた――湿気、熱せられたコンクリート、そして常に何かを急かすようなストレス。

正直に言えば、戻ってくるのが少し辛かった。

「じゃあ……ここで別れだな」

春樹がリュックのベルトを直しながら言った。

「8月12日の祭りの前に、また会おうな」

俺はそう返した。

「でもさ、せっかくだから、今度一緒に東京のバーでも行かない?彼女くらい、そろそろ欲しいじゃん」

春樹は片目をウインクさせながら冗談っぽく笑った。

「はは……ああいう場所はあまり得意じゃないけど……まあ、たまにはコーヒーでも飲みに行くのはいいかもね」

ちょっと戸惑いながら、そう返事をした。

「はいはい……じゃあ、約束だぞ。もし来なかったら、俺が無理やり連れて行くからな」

そう言って、春樹は背を向け、駅の出口へと歩き出した。

俺たちは軽く肩を叩き合って、それぞれ違う道へと消えていった。

人混みの中に、春樹の背中はすぐに見えなくなった。

西口への階段を上りながら、ふと周囲の空気が重くなったように感じた。

まるで、どこかの陰から誰かに見られているような、そんな気配。

東京はいつも通りの顔で俺を迎えた。

クラクション、ネオン、疲れた顔、そして圧力鍋のような蒸し暑さ。

刑務所に戻る囚人みたいな気分で、アパートまで歩いた。

ドアを開けると、むわっとした熱気が顔にぶつかってきた。

こもった空気、湿った洗濯物、インスタントラーメンの匂い。

「ふーん……ただいま、我が家」

皮肉混じりに呟いた。

服も脱がずに、そのままベッドに倒れ込んだ。

シーツが汗ばんだ体にぴったりと貼り付き、動くのも億劫だった。

部屋の隅で、壊れかけの扇風機が不規則に首を振りながら、ぬるい風を送っていた。

その風は、逆に暑さを強調するようで、あまり役に立っていなかった。

スマホの画面を点けると、通知は何もなかった。

銀行アプリの残高が、俺を静かに煽っていた。

ため息をついて、検索窓に『在宅 楽な仕事』と打ち込み、ゆっくりと画面をスクロールし始めた。

――

午前10時43分

・ネットアンケート:

『あなたの好きなポケモンは?』

『宇宙人が世界の金融市場を操っていると思いますか?』

『あなたの星座で分かる、トイレットペーパー診断』

パンをかじりながら、すべての選択肢を諦め気味にタップした。

――

午前11時22分

・偽のオンラインショップ商品の説明文作成在宅

『子守唄を歌うスマート枕』に関するクリエイティブな説明を依頼された。

……誇りのために断った。

――

午前11時58分

・アメリカ人観光客向け折り紙教室ビデオ通話

求人広告にはこう書いてあった:

『鶴を折れて、英語で簡単な会話ができる日本人募集。Cute voice is a plus.』

ブラウザを閉じた。

――

一時間ほど、自尊心をすり減らす作業を続けた後、諦めて再びベッドに倒れ込んだ。

扇風機が熱い空気を顔に吹きつけてくるのを感じながら、目を閉じた。

そして――

悪夢を見た。

――

夢の中で:

俺は、ホイップクリーム付きのコーヒーの着ぐるみを着て、渋谷のスクランブル交差点で踊っていた。

手には『一口ごとに賢くなるコーヒーをどうぞ!』と書かれたチラシを持ち、配っている。

子どもたちは俺に溶けかけたアイスクリームを投げつけ、

通行人の男には「道を塞いでるんだよ」と突き飛ばされた。

そして――

高いビルの窓から、雪さんが俺を見下ろしていた。

何も言わず、ただじっと見ていた。

そして、笑っていた。

汗びっしょりになって目が覚めた。

「…絶対に仕事が必要だ。でも、生きたコーヒーになるような仕事は御免だな。」

上体を起こし、少しだけ迷ってからメッセージアプリを開いた。

【俺 – 12:35】

「ねえ」

「お皿を洗う代わりに餓死を回避できる職場って、そっちにある?」

栞さんからの返信は早かった。

【栞 – 12:37】

「皿洗い、哲学者、そして感情逃亡者、すべて歓迎します。」

「今のあなたに一番近いカテゴリは?」

思わず笑ってしまった。

そのまま携帯を置こうとした時、春樹からのメッセージが目に入った。

【春樹 – 10:21】

「東京は最悪だ。電車を降りてすぐに後悔した」

【春樹 – 11:09】

「扇風機に魂があって俺のことを憎んでるんじゃないかって気がする。変な目で見てくるんだ」

深く考えずに返事を送った。

【俺 – 12:38】

「うん、うちのも俺を裁いてる。たぶん反乱を企ててる」

そして、立ち上がった。時計を確認し、あまり深く考えずにTシャツを一枚取った。

洗濯されているかは気にしないことにした。

「…皿洗いでも構わない。もしそれで答えに近づけるなら、それでいい」

真昼の太陽がビルの隙間から刃のように差し込み、アスファルトはまるで開いたオーブンのように光を跳ね返していた。

二歩歩いただけで汗がにじみ、角の屋台で売っていた携帯扇風機は、まるで砂漠の溜息ほどの効果しかないように思えた。

途中でコンビニに立ち寄った。特に買いたいものがあったわけじゃない。ただ、暑さから逃げたかっただけだ。

店に入った瞬間、別世界に踏み込んだような感覚。エアコンの冷気、真っ白な蛍光灯、プラスチックと菓子パンとカップ麺が混ざったにおい。

棚から一本の冷たいお茶を手に取った。

ラベルには『心の調和と自然由来の抗酸化力』といった、やたらと長くて曖昧な言葉が書かれていた。

レジに向かう途中、あの子ども向けなのか精神攻撃なのかわからない、耳につくジングルが流れていた。

「いらっしゃいませ〜」

店員はスキャナーから目を離さずに言った。

支払いを済ませてすぐに店を出て、その場でボトルを開けた。

最初のひと口は、ほとんど宗教的な救いのように感じられた。

東京という街は、押し寄せてきて、疲れさせて、それでも時々、こんな魂のこもってないコンビニの中でさえも、『生きている』と思い出させてくれる。

歩き続けた。

***

通りの向こう側には、いつもの看板が見えた。

「段ボールの猫」——。

ドアを押して中に入る。

店内はひんやりとしていて、静かだった。

その静けさは不快ではなく、どこか包み込むような優しさがあった。

栞さんはカウンターの向こうで、黄色い表紙の本を読んでいた。

俺が入ると、驚く様子もなく顔を上げた。

「おや、新入りが来たわね」

そう言って、紙ナプキンをしおり代わりにページを閉じた。

「メッセージ、冗談かと思ったよ。本当にこんな客の少ない店で皿洗いなんて必要?」

俺はそう言いながら、空になったボトルをカウンターに置いた。

「長期的戦略よ。まずは従業員を雇う。それからお客さんを待つの」

彼女はまったく動じる様子もなく答えた。

「経済的には…かなり自殺的だね」

「恋に落ちるのも、経済的には自殺みたいなものよ。それでも世界はやめないけどね」

俺は吹き出して笑い、カウンターのスツールに腰を下ろした。

「で? 春樹との精神修行はどうだった?」

彼女はそう言いながら、ゆっくりとコーヒーの準備を始めた。

「不思議だったよ。森の中でコーヒーの匂いがした。それから、また同じポストカードを見つけた。あと…あの鈴の音も、また聞こえた」

栞さんの手がほんの一瞬止まった。

何かが頭の中でかすかにくすぐったようだったが、彼女は何も言わずに、静かにうなずいた。

「雪さん?」と、栞さんが尋ねる。

「今回は姿は見てない。ただ夢に出てきただけ。でも、それだけでも十分だった。あの場所にまた行かなきゃって、そう思った」

「でもその前に、この世界で生き延びないとね。つまり、お金の話」

そう言って、彼女は俺の前にコーヒーを置いた。

「渋谷でマスコットになるより、コーヒー一杯のために皿洗いする方がまだ人間らしいかな…」

夢を思い出しながらつぶやくと、彼女は微笑んだ。

その笑みにつられるように、店全体がほんのり明るくなった気がした。

まるで『段ボールの猫』自体が、俺の存在を歓迎してくれているかのようだった。

「じゃあ、決まりね。明日からよろしく。来れるときに来てくれればいいわ。ここでは時間ってそんなに厳密じゃないの」

その言葉には少し驚いた。

普通ならカフェの仕事って、もっと時間に厳しいはずだ。

でも…今の俺には、それをありがたく思うしかなかった。

「制服とかは?」

「熱中症で死ななきゃ、なんでもいいよ。涼しい格好で」

つまり…とにかく倒れなければ問題ないってことか。

コーヒーの表面に映った自分の顔を見つめながら思った。

まだ答えは見つかってない。

けれど、ここにいて、彼女と話しているだけで、

なんとなく——

正しい道に近づいているような気がした。

しばらく店にいて、栞さんと話していた。

これまでのような不思議な対話ではなく、もっと気楽で日常的な会話だった。

彼女は店の仕組みや支払いのタイミング、皿洗い以外の業務内容についても説明してくれた。

冗談を交えながら、気づけば時間が過ぎていた。

カフェを出ると、東京の空は青黒と鉛色のあいだを彷徨っているような色をしていた。

完全に暗くなることはなく、どこか中途半端な夕暮れがずっと続いているみたいだった。星がいくつか、ビルの隙間から控えめに顔を出していたが、ネオンの光が強すぎてほとんど見えなかった。

俺は急がずに家まで歩いた。

街は静かになりつつあったが、足元のアスファルトはまだ熱を残していた。

アパートに着くと、ベッドに身を投げ出した。

今夜はもう、扇風機に文句を言う気力もなかった。

スマホをサイドテーブルに置いて、朝六時にアラームをセットし、なぜか少しだけ微笑んで目を閉じた。

***

翌朝、目覚めたのは、ひどく耳障りなアラームの音だった。

ああ、この音、どれだけ嫌いだったか忘れてた。

軽くシャワーを浴びて、シンプルな服を選ぶ。

薄手のシャツにジーンズ、履き慣れたスニーカー。

「栞さんは好きな時間に来ていいって言ってたけど、初日からだらしなくするのもな…」

そうつぶやきながら、人混みの中を少し早足で歩いた。

カフェのドアを押すと、挽きたてのコーヒーの香りがふわりと鼻をくすぐった。

まるで、言葉のいらない『おはよう』と言われたような気がした。

栞さんはすでにカウンターを拭いていて、俺を見ると落ち着いた目を向けた。

「7時1分。1分遅刻ね」

「時間に縛られないって言ってなかったっけ?」

「そうだけど、遅れるならせめて朝ごはんくらい持ってきてよ」

本気かどうか分からなかったので、とりあえず笑ってごまかした。

俺はシンクでコップを洗い始めた。栞さんはカウンターの向こうで静かにコーヒーを淹れている。

店内は静かだった。いつものように。いや、いつもの『ほとんど』のように。

数分後、ドアの上のベルが静けさを破った。

入ってきたのは、スーツ姿の三十代くらいの女性だった。

ラテを注文し、スマホを見ながら奥のテーブルに腰を下ろした。顔を上げることはなかった。

栞さんが横目で俺を見て、小さく言った。

「ね? いつもガラガラってわけでもないでしょ。もしかして、あんたが運を運んできたのかも。悪い意味で。もしくは…クレーム言いに来たとか?」

「その場合は、バリスタ様の腕前の問題だね」

そう返しながら、俺は洗い物を続けた。

数分後、もう一人の客が入ってきた。

若い男で、イヤホンをつけたまま、カプチーノを注文した。

ここに来るたびに客なんて一人もいなかったから、こうして誰かが入ってくるのを見るのは妙に新鮮だった。

雪さんが現れたあの日を除いては。

「今日は…宇宙の気分がいいのかもな」

小声でそうつぶやいた。

栞さんは俺の前にカップを置くと、静かにカウンターにもたれて腕を組んだ。

その目は問い詰めるようではなかったが、どこか重さを持っていた。

「ここで、何を探してるの?」

すぐには答えられなかった。

少し間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。

「分からない。けど…もしまた部屋に閉じこもったら、何かを失ってしまいそうで。世界が、俺を置いて進んでいくような、そんな気がする」

彼女はすぐには何も言わなかった。

ただ、俺とカップの間に漂う湯気をじっと見つめていた。

「探すことじゃなくて、何かに見つけられるのを待つこともあるよ」

その声は静かで、でも確かにそこにあった。

まるでコーヒーの香りのように、ゆっくりと空気に溶け込んでいった。

俺は何も言わずにうなずき、また黙々と皿を洗い続けた。

不思議なことに、その単純な作業のひとつひとつ――水の音、カップの重み、誰かの声――が、虚しさを感じさせなかった。

・・・

午前中はそんな風に過ぎていった。

泡立てたコーヒーの香りと、ささやかな会話。

わずかに来た客たちに、栞さんは決まって笑顔で挨拶をした。

その笑顔は口元だけで、目元までは届かない。でも、それでも十分にあたたかかった。

俺はというと、自分でも驚くほどミスもなく、カップを一つも割らずにやり過ごしていた。

「順応が早いね」

カウンターの向こうから栞さんが言った。

「もしかしたら、これが俺の天職かも。プロの食器洗い」

「…あるいは、それよりももっと大きなものから逃げてるだけかもね」

彼女は本から目を離さず、淡々と言った。

俺は笑ったが、何も返さなかった。

時々、本当にこの人は何でも見透かしているんじゃないかと思う。

昼を過ぎたころ、店内は再び静けさに包まれていた。

コーヒーとバニラの香りが、まるでこの店の基礎を成すように、空気中に染み込んでいた。

俺は濡れた布巾を手に取り、テーブルを一つずつ拭き始めた。

この単純で繰り返しの動作には、不思議な安心感があった。

汚れた表面と、それをきれいにする布。その間にある世界は、妙に扱いやすい気がした。

そして、それはその時だった。

小皿の一つを持ち上げたとき、テーブルの中央に置かれた飾りの下に、無造作に折られた紙切れが挟まっているのが見えた。

最初はレシートか何かだと思った。だが、それを広げかけた瞬間、俺の動きは止まった。

それは一枚の絵だった。

いや、正確には手描きのイラスト。細かい線とやわらかな色合い。水彩で描かれたような優しいタッチのスケッチだった。

描かれていたのは、二人の人物。

俺と――彼女だった。

俺は今より若く、たぶん十四か十五歳くらい。

頭の横にキツネの面をかけ、微笑んでいた。

彼女は白い浴衣に、髪をゆるくまとめて、青い花模様の扇子を持っていた。

夏祭りの提灯の下、後ろには花火が水彩の滲みのように広がっていた。

見た瞬間に分かった。彼女だ。

雪さん。

「雪…さん…」

思わず、そう口にしていた。

俺はその場に立ち尽くし、考えることさえできなかった。

これは偶然なんかじゃない。

この絵は、数週間前に見た夢の光景そのものだった。

まるで、誰かが俺の記憶の中に入り込み、夢をそのまま紙に描き出したようだった。

絵を大切に持ったまま、俺はカウンターへと向かった。

まるで触れ方を間違えると、消えてしまいそうなほど繊細なものを扱うように。

「栞さん、これを見てください」

声は自然と低く、囁きのようになっていた。

彼女はその紙をそっと受け取り、しばらく無表情のまま眺めていた。

そして何も言わず、それを自分のカップの隣に静かに置いた。

「どこで見つけたの?」

まるで天気のことでも尋ねるかのように、落ち着いた声だった。

「テーブルの上に…誰かがわざと置いたみたいに」

「忘れ物かもしれないし……わざと、かもしれない」

栞さんの言葉は柔らかかったが、その中には目に見えない鋭さがあった。

重要な何かを伝える時に、彼女が使う独特の調子だった。

「変だと思わない?……これ、俺たちなんだ。少なくとも、彼女は間違いなく雪さんだと思う。そしてこの祭り、この光景……夢で見たんだ。まったく同じに」

栞さんはしばらくぶりに俺を見た。

その瞳には、いつものように、理屈では片づけられない話をするときに見せる――

優しさと諦めのあいだにあるような、あの独特な光が宿っていた。

「東京って、変な街だよ。誰も思い出せない記憶と、一部の人にしか存在しない場所がたくさんある」

彼女は少しのあいだ言葉を止めたあと、静かに続けた。

「走っちゃだめ。人生の謎を急いで解こうとすると、かえって迷ってしまう。探すのをやめたときに、パズルのピースがふと届くこともある」

その言葉は、窓の曇りに落ちる湯気のように、ゆっくりと俺の中に染み込んでいった。

「……これ、持っててもいい?」

「もちろん。きっと、君に届くべきものだったんだと思うよ。君もまだ気づいてない『何か』の一部かもしれない」

俺は再びその絵を見つめた。少年の笑顔と、少女の瞳の奥にあるあの輝き――

いつ、どこで、なぜ… それは分からないけれど、

それでも、俺の中の“何か”が確かに覚えていた。

――あの夜は、現実だった。

***

カフェを出たとき、太陽はすでにビルの向こうに沈みかけていた。

空はオレンジと紫に染まり、まるで誰かが途中で描くのをやめた絵のようだった。

湿った空気と熱を持ったアスファルトの匂いが混ざり合い、遠くからは山手線のレールを走る電車の音が断続的に響いていた。

俺はその絵をシャツの胸ポケットに入れていた。

取り出さなかったけど、帰り道で何度も指先で確かめた。

そこにちゃんとあるか――夢じゃなかったのか――何度も、何度も。

途中のコンビニで夕飯を買った。

安い唐揚げ弁当と、メロン味のはずなのにまるでメロンではないお茶の缶。

レジの店員は、誰もが聞き流すようなマニュアル通りの声で『いらっしゃいませ』と言った。

俺はそのまま袋を手にして店を出た。

アパートは、古いコンクリートとぬるいプラスチックの匂いが染みついていて、それはいつまでも消えない。

階段を上り、ドアを開け、靴を脱ぎ、言葉もなくベッドに倒れ込んだ。

「やっと帰ったか…腹減ったな…」

そう呟いて、目を閉じた。

夕飯は窓際に座って食べた。足を組んで、遠くに光るビルの灯りをぼんやりと眺めながら。

東京は外でまだ生きていた。光っていて、ざわめいていて、走り続けていた。

けれど、この部屋の中には静けさしかなかった。

柔らかく、少しだけ時間が止まったような静けさが。

『段ボールの猫』のことを思い出した。

皿を洗う水の音、栞さんの声。

コーヒーの香り、あの絵。記憶にないはずなのに、骨の奥に刻まれているような、そんな感覚。

なんとなくスマホのカレンダーを開いた。

通知を確認し、日付をスクロールする――そしてそこにあった。

《夏祭り》

『奥多摩納涼祭――8月12日。』

しばらく画面を見つめ続けた。

いつ書いたのか覚えていない。メモした記憶もない。

けれど、その日付には何かがあった。重みがあって、形があって、無視できないものが。

目を閉じると、一瞬だけ、打ち上げ花火の光が心の中に閃いた。

まるで、今まさに夜空を照らしているかのように。

「行った覚えはないのに…どうしても頭から離れない」

***

その後の数週間は、水のように流れていった。

大きな出来事はなかったけれど、日々は静かに積み重なって、

思いがけず心地よいルーティンへと変わっていった。

『段ボールの猫』は俺の避難所になった。

焙煎したての豆の香りと、焦げたコーヒーの違いを覚えた。

栞さんが、口元よりも目で笑う人だということも知った。

東京も、見る場所さえ選べば、優しさを持っているということも。

夜、時々夢を見た。雪さんの夢。

時には十代の俺たちが、綿菓子の屋台の間を駆け抜けていた。

またある時は、彼女は一言も発さず、人混みの向こうから静かに俺を見つめていた。

目が覚めると、あれは別の人生の記憶だったのか、それとも壊れかけた精神が生んだ幻想だったのか、分からなくなる。

栞さんは聞かない。でも、俺がその話をするときは、必ず耳を傾けてくれた。

暑さは日ごとに増していった。

公園では蝉の鳴き声がしつこく響きはじめ、

街には汗の匂いと、短い雨の気配、電線にこもった湿気の匂いが漂っていた。

――そしてある日、何の予告もなく、町の電柱に最初の提灯がぶら下がった。

赤、白、青。

各地の夏祭りに向けて、準備が始まったのだった。

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