『すべてが始まった場所で。』

荒川レンあらかわレン

ゆき

依姫栞よりひめしおり


朝、目を覚ましたとき——

胃の奥に、締めつけられるような違和感があった。

空腹とは違う。世界そのものが、どこか噛み合っていないような——

現実という布団が、見えない力によって無理やり引っ張られているような、そんな感覚だった。

時計は、午前7時42分を指していた。

日付は——6月18日。

カレンダーには「6月18日」と書かれていた。

でも、昨日がその日だったはずだと、俺は確かに覚えている。

まるで、時間が巻き戻ったかのようだった。

理由も、きっかけも分からない。ただ一つ、確かなのは——

カレンダーが示していたのは、あの夜——俺が死んだはずの夜——の一年前の「6月18日」だったということだ。

そう思ったのは、最後に覚えている光景が——

俺に向かって突っ込んでくるトラックの姿だったからだ。

俺はベッドから立ち上がり、胸の鼓動を抑えながら窓辺へと近づいた。

新宿はそこにあった——だが、どこか違っていた。

新しい広告。より洗練された建物のライン。昨日はなかったはずのLEDスクリーンが、通りを鮮やかに照らしていた……いや、少なくとも、俺は一度も見たことがなかった。

そしてその下——通りの角に、彼女がいた。

あの子だった。

昨夜、信号の下で見たあの子だ。

朝の淡い陽に照らされながら、彼女はじっと立ち尽くしていた。

白いコートが風に揺れ、まだ濡れたままだ。

「……一晩中、あのままだったのか? そんなこと、ありえるのか?」

彼女は今はこっちを見ていなかった。

横顔のまま、曇り空に顔を向けて、まるで僕には聞こえない何かを聞いているようだった。

だけど、間違いなく彼女だった。

それをどう説明すればいいのか分からない。

けれど、その佇まいには見間違えようのない何かがあった。不思議な気品、風に揺れる髪の動き、そして――

東京の喧騒の中で、まるで時間が止まったような静けさ。

窓枠に指をぎゅっと押し付けた。

頭の中は疑問で渦を巻いていたが、その混乱の中で、ひとつの言葉がほとんど無意識に口をついて出た。

「雪……」(ゆき)

名前は知らなかった。

というのも、僕たちは一言も言葉を交わしていなかったからだ。けれど――あの透き通るほど白い肌、沈黙に包まれた存在感……

そのすべてが、僕に「雪」を思い出させた。静かに降り積もる冬の雪。

永遠に続いてほしいとさえ思える、穏やかな感覚。

だから、僕は心の中で、そう呼ぶことにした。

「雪……」(ゆき)

理屈なんてなかった。でも、それこそが彼女に一番ふさわしい名前だと、そう思えた。

彼女を見た瞬間、迷いはなかった。

パジャマのまま部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。小さなロビーを通り抜け、外に出ると——そこにいた。

半ブロック先、すぐ手の届きそうな距離に。

「おい、ちょっ…」

呼び止めようとした——けれど、声が喉に詰まって出てこなかった。

彼女はゆっくりと顔をこちらに向けた。そして、その瞳が僕の瞳と重なった。

何も言わずに、ただ微笑んだ。

昨夜と同じ微笑みだった——悲しげで、遠くを見つめていて、大きな不安を抱えているような…。

そして、何も言わずに踵を返し、歩き出した。

僕はその後を追った。

理由は分からなかった。ただ、そうしなければならない気がした。

考えるよりも先に体が動いていた。

彼女の後を追わなければ――そうしなければ、二度と会えない気がしてならなかった。

まるで命に関わる何かのように、僕の中のすべてが彼女を追えと叫んでいた。

通りは人であふれていた。

ブリーフケースを持ったサラリーマン、イヤホンをつけた学生、地図を見ながら歩く観光客たち。

だけど――彼女は違った。

まるで地面に足をつけていないかのように、人波の中をすり抜けていく。

彼女は路地に曲がり、さらにもう一つ角を曲がった。次第に道は細くなり、人通りも少なくなっていく。

俺は少し距離を置いてついていった。

――ストーカーだと思われたくなかった。

……いや、もうそう見えてるかもしれないけど。

心臓が激しく打ち続けていた。

ただ彼女を追いかけて疲れたからじゃない。

もっと深いところに、ずっと押し込めていた感情が――不安のような、懐かしさのような、名もなき焦りが、静かにうずいていた。

「……どうして、こんなにも彼女を追いたいと思うんだろう?」

歩いていた道は、見覚えがあるはずなのに、どこか違って見えた。まるで街全体が、何かに置き換えられてしまったかのようだった。

建物も、ネオンの看板も、公園のベンチさえも――

記憶にあるものとは微妙に違っていた。

まるで誰かが、一度この街を壊して、全部を少しずつズラして組み直したみたいに。

かつてラーメン屋だったと記憶している、あけぼの通りの角には──今はパン屋があった。

ショッピングモールの前にある横断歩道は、デザインこそ同じだったが──標識は新しく、どこか綺麗すぎた。電柱にぶら下がっている広告には、見たことのないブランド名が並んでいた。ハングルの文字もあれば、見覚えのないアニメキャラもいた。

音さえも違って聞こえた。店のジングル、自動アナウンスの声、街に流れる環境音楽……すべてが自分の知らない世界のもののように感じられた。

雪(ゆき)は一切迷わなかった。一定のリズムで歩き続け、まるで行き先をすでに知っているかのようだった。

信号で立ち止まることもあったが、それは青を待つためではなく、空のどこか――誰にも見えない何かを見上げるためのようだった。

時には、デジタル地図にも載っていないほど細い路地を、ためらいもなく曲がっていった。

俺はその後ろを、ただ黙ってついていった。声をかけられなかったのは、恐怖からではない。もしかしたら――敬意だったのかもしれない。

彼女の存在は、言葉ひとつで壊れてしまいそうなほど儚く感じられた。

それでも、目を離すことはできなかった。

昨夜の雨はすでに蒸発していたが、彼女のコートの裾はまだ濡れていた。黒い髪は陽の光を浴びて、ほとんど濃紺に近い色に見えた。

路地の影の中を歩くたび、その姿は少しずつ輪郭を失っていくようで――まるで、目の前で消えてしまいそうな気さえした。

でも、彼女は消えなかった。ただ、静かに前へ進み続けていた。

まるで「ついてきて」と、そう言わんばかりに。

「2024年創業」と金色の文字で書かれた本屋の前を通り過ぎた。でも、俺の記憶では、その店は二年前に閉店していたはずだ。

ちょうど引っ越してきた頃のことで、間違えるわけがない。

街頭のスクリーンにはニュース番組が流れていて、一人の女性がフィリピンとの新しいエネルギー協定の締結について語っていた。聞いたこともない企業名が次々と出てくる。

世界は何事もなかったかのように動いている──まるで、この場所に自分だけが属していないかのように。

俺は奥歯を噛みしめた…

まるで、自分が死んで時間を巻き戻された悪夢の中にいるようだった。

けれど、あまりにも現実的で、これは夢じゃないんだと思うたびに鳥肌が立った。

まるで俺の世界は最初から存在しなかったかのようで──そして、それを覚えているのは俺だけだった。

雪(ゆき)が立ち止まった。

気がつけば、彼女を追って高層ビルの隙間に隠れるように佇む、小さな古びた神社に辿り着いていた。

まるで時間の狭間に取り残されたような、そんな場所だった。

こんなところに神社なんて、普通はありえない。まるで俺の想像が生み出した幻のようにさえ思えた。

「こんな場所に神社があるなんて、ありえるのか…」と俺は信じられない思いでつぶやいた。

神社の鈴は鳴っていなかった。誰の姿もなかった。ただ、俺たち二人だけだった。

彼女はゆっくりと顔をこちらに向けた。

その瞳はまっすぐに俺を貫いた。暗くて、動かない瞳。

まるで俺の体ではなく、思考や不安、混乱そのものを見透かしているようだった。

その後、彼女は微笑んだ。

そして一言も発さずに、静かに神社の中へと入っていった。俺はほんの一瞬だけ迷ったが、すぐに彼女のあとを追った。

しかし、境内に足を踏み入れた瞬間――

周囲が突然、まるで目を閉じたかのように真っ暗になった。

気づけば、俺の目は閉じていた。そして、再び目を開けたときには――

そこは、さっきまで雪(ゆき)を追いかけていた路地の真ん中だった。

しかし、あの神社の跡はどこにもなかった。もちろん、雪(ゆき)の姿も……影すら残っていなかった。

何度もまばたきした。でも、無駄だった。目を開けた時には、あの神社はもうどこにもなかった。

石灯籠も、彫刻の施された柱も、境内へと続く緩やかな石段も……

何ひとつ残っていなかった。

そこにあったのは、ただの狭くて湿った路地裏だけ。壁には落書きが並び、傍らのゴミ箱からは、発酵したような悪臭が漂っていた。

遠くから聞こえる車の音が、ふたたび耳に戻ってきた。

まるで世界が、一時停止されていたゲームの「再開」ボタンを押したかのように。

踵を返して、あたりを見回した。さっきまで見たものの痕跡を示すような、コンクリートのひび割れ一つさえ見つけられない。

すべてが完璧に“普通”だった……いや、普通すぎた。

「まさか……」俺は思わず呟いていた。

気がつけば、俺の足は彼女が立っていたまさにその場所へと向かっていた。

彼女が俺を見つめた場所。微笑んで、あの門の奥へと消えていった、あの場所――

今ではもう、どこにも存在しないその門の跡を、ただ見つめていた。

俺は彼女が消えた場所にあるレンガの壁にそっと手を置いた。ざらついた冷たさが指先に伝わる。……本物だった。

目を閉じて、しばらくの間じっとしていた。囁きでも、手がかりでも、何かが現れるのを期待して――

だが、そこにあったのは沈黙だけ。

そして、世界がどこかずれているという、あの奇妙な感覚だった。

ふらつきながら、俺は路地裏を出た。

かつては歪んだコピーのように見えたビルたちが、今はさらに遠く感じられた。

まるで、過去にも未来にも属さず、この世界のどこか別のバージョンに存在するもののようだった。そしてその世界は、あたかも俺にとって本能的に敵意を持つ場所のように思えた。

俺は錆びついた標識にもたれかかり、ゆっくりと肺に空気を送り込んだ。

それから思い出そうとした——さっき彼女と辿った道を。

角をいくつ曲がったか、どんな標識があったか、ここに来るまでの手がかりを、ひとつずつ辿るように。

すべてはそのままだった。だが——あの神社だけが、ない。

「すみません…」

買い物カートを引いていた年配の女性を軽く会釈しながら呼び止めた。

「このあたりに神社があったかご存じですか? 鐘があって、小さくて……もしかしたら、ビルの間に隠れるように建っていたかもしれません」

最初、女性はやさしげな眼差しを向けてくれた……だが、その顔に次第に困惑の色が浮かび、眉間にしわが寄った。

「お寺? ここに? いいえ、そんなものはなかったと思いますよ、坊や……昔からこの辺りはずっとオフィスビルやマンションばかりでね……私の記憶が確かなら」

彼女はもう一度、どこか気まずそうに微笑んだ。

「もしかして、別の街と勘違いしてるんじゃないかしら?」

僕は作り笑いを浮かべて軽く会釈し、「ありがとうございます」と礼を言った。

でも――

心の奥では、何かがきしむように軋んでいた。

その後、フードデリバリーの配達員にも、犬の散歩をしていた男性にも、大学生らしきカップルにも聞いてみた。

だけど、みんな同じことを言った。

「そんなお寺はないよ。もともとここには存在しなかった」

雪(ゆき)の姿も、どこにもなかった。

通りにも、人混みにも、角を曲がった先にも、彼女はもういなかった。まるで最初から存在しなかったかのように、あの寺と一緒に、世界のどこかに呑み込まれてしまったかのように――。

近くの手すりにもたれながら、頭の中を整理しようとした。

ただの幻覚だったとは思えない。あの視線を、たしかに感じた。

微笑まれたあの瞬間、空気の中に漂っていた不思議な気配――時間が止まったかのような感覚。

あれは夢なんかじゃない……あれは、確かに現実だった。

「じゃあ、どうして消えたんだ?」

反射的にズボンのポケットに手を突っ込んだ。スマホを探していた。その動きは無意識で、切実で、どこか滑稽だった。

その時になってようやく思い出した。俺はパジャマのまま飛び出してきたんだ。

スマホも、腕時計も、家の鍵さえも持っていない――何一つ、持っていなかった。

目を凝らして、何か手がかりになるものを探した。

そして見つけた――通りの向こう側、コンビニの上にあるデジタル広告パネル。

エナジードリンクの宣伝やインスタントご飯の特売情報の間に、小さな帯が時間と気温を表示していた。

午前8時00分

気温17℃

俺はその場で凍りついた。

目を覚ましたのは、午前8時15分前くらいだった。

あの信号の下であの少女を見つけてから今まで――

すべてが、たったの……十五分ほどの出来事だったのか?

「マジで……」

何時間も夢の中をさまよっていたような気がした。再構築されたような街を歩き、不可能な誰かを追い、存在しないはずの寺を見て――

それが、ほんの十五分足らずの出来事だったなんて。

微かな音が耳をかすめた。

どこか遠くで作動している機械のかすかな電子音のようであり、それでいて小さな鈴がビルの間で反響しているような金属的な響きでもあった。

それがどこから聞こえてくるのか分からなかったし、その正体を確かめに行くほど、自分が正気とは思えなかった。

周囲を見渡した。

人々は日常のルーティンを淡々とこなし、膝の震えや胸にぽっかりと開いた空虚さになど、誰一人気づく様子はなかった。

あの音はまだかすかに響いていた。聞こえるか聞こえないかの境界に漂い続けていたが――

それ以上、気にしようとは思わなかった。

いや、もしかすると…… その音に意味を与えることを、どこかで怖がっていたのかもしれない。

風が一枚の枯葉を足元まで運んできた。

考えることもなく、それを見つめた。まるで、その葉に何かの答えが宿っているかのように。

そして思い出した。

「雪…」(ゆき)

濡れた石畳を静かに歩く、あの足音を。

その音は違っていた。ほとんど存在しないような音――

まるで浮かんでいるようで、世界がほんの数秒だけ、その存在を許したかのように……

そして、何事もなかったかのように、静かに閉じてしまった。

心臓の鼓動が激しくなっていた。だが、それは恐怖によるものではなかった。

もっと深いところから鳴り響く――

内側にこだまする音。どうしても消せない音だった。

あの少女の姿を見失った瞬間、何か大きなものと繋がっていた糸まで一緒に途切れてしまった気がした。

「雪……」(ゆき)自分でつけた名前を、そっと口にした。

本当の名前じゃない。そんなことはわかっていた。

でも――

彼女の名を呼ぶことで、もう一度あの場所に戻ってきてくれるような気がして、その名にすがるしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る