甘味料とアサガオの残香

夕暮夕日

1話: 夏への入り口と夕暮れ時

僕、草間浩太は控えめにスヌーズを繰り返すアラームを止めた。


眠気眼の状態でベッドから起き上がり、窓を開ける。


夏の香りと暑さが入り込んでくる。


まだ6月だというのに朝から熱い。


どうやら今年の夏も猛暑に見舞われそうだ。


窓の外はまだ月曜というのに、人生に疲れ切ったように歩くサラリーマンらしき人たちがぽつりぽつりと目に着いた。


奴らの目は文字道理、死んだ魚の目をしている。

ぎょろっとしている。


DHA豊富そうとか、生臭そうとかそんな感想は脇に置いておいて、僕もあの集団の一部なんだよな。


会社行きたくないな。でも、行かないとお金もらえないしな。


起きてから数分間のいつものルーティン。


頭の中で念仏を唱えていると、死神たちに交じって懐かしい笑い声が耳に届いた。


目線をそちらに寄せる。


目線の先には男の子と女の子が照れくさそうに歩いている。


おそらく制服からして、近くの丘の上にある高校の生徒だろうな。


まったく羨ましいことだよ。



男の子は女の子の話に必死に相槌を打って、女の子は照れくさそうに、はにかんでいる。


きっと彼らは高校生ていう時間を謳歌しているんだろう。


かけがえのない時間。


戻りたくても、どんなに後悔を積み重ねても戻ることが出来ない瞬間。


一瞬の刹那的な流れの中に彼らは居る。


勿論、僕にも高校生だった頃はあった。


だからこそ、分かりきっている。


目の前の時間がいつまでも続くことはないことを。


想いではすぐ過去になって僕たちの元から旅立ってしまう。


それでも、そうだとしても。


プルルルル。プルルルル。

出発時刻を知らせるアラームが鳴る。


もうこんな時間か。


頭を振って湧き出てきた形にならない感情を押し出す。


時計の針は7時を少し過ぎた頃。


そろそろ出勤の時間だ。さあ、楽しい楽しい労働の始まりだ。


一ミリも沸き立つことの内心にそっと蓋をしてベッドから起き上がる。


ゆっくりと背伸びをして体全体の腱を伸ばす。


クローゼットを開けて、部屋着からワイシャツとスラックスに着替える。


ネクタイは結ばない。


最後にベルトを締めたら完成。


バナナとヨーグルトを胃の中に流し込んで出発だ。


「行ってきます」


一人暮らしの室内から帰ってくる声はない。


分かっていてもついつい口に出してしまう。習慣的な行為。


踵を2,3回地面に軽く叩きつけてドアを開ける。


日差しと今日の始まりを感じさせる温度を感じる。


思わず目を細めたその時。


「さようなら」


懐かしい声が頭の中を飽和した。




、、おい。、、浩太。起きろよ、、。


「ん、、。もう少し、、。あと少しなんだ、、。」


眠気眼に答える。

もう少し、もう少しだけ微睡んでいたい。


「何を訳が分からないことを言ってるんだよ。とっくに放課後だぞ」


視界が徐々にクリアになる。


放課後、、?確か数学の二次関数の練習問題を解いている最中に意識が、、。


開けきれない瞼を上げると、僕の目の前にはあきれ気味の男が立っている。


背丈は僕と同じくらい。


彼はホリが深い両目を僕に向けて深いため息をついた。


「ようやく起きたのかよ。まったく、いつもいつも放課後になると起こすこっちの身にもなってくれよ」

あくびをかみ殺しながら、お詫びの気持ちを控えめに込めて

「悪いとは思ってるよ。あと感謝もしてる」

お礼を言う。


実際、毎度毎度、授業中に眠りに落ちて放課後を迎える僕を伊藤正樹は根気よく起こしてくれている。

僕だったら絶対に起こしても中々起きないやつを起こそうとは思わない。


一人でさっさと帰る。

だって、めんどくさいし。


それに比べて、じっと僕をねめつけている親友の人間性たるやいなや。


成績上、スポーツは球技を筆頭にセンスに恵まれ、交友関係も良好。

そんな絵にかいたような優等生こと正樹。


軽く嫉妬しちゃうよな。


「ほんとかよ。まあ、いつものことだからいいけどさ」


正樹はあきれ交じりに返してくる。


なんだかんだ言って面倒見がいいやつなんだよな。


僕は大きく背伸びをして、椅子から腰を浮かせた。


長い時間同じ姿勢を取っていたせいだろう。

全身の筋肉が伸縮する感覚を味わう。


窓の外から教室の中まで夕焼けが入り込んでいる。

教室の中はすっかりオレンジ色。


何気にこの時間が一番好きなんだよな。


何かが終わってしまったような感覚。終わりの中の始まりを無意識に自覚させられる体感。


「じゃあ、俺は部活に行くから」


正樹はもう要は澄んだとばかりに片手をあげて教室を出て行った。


僕も大して勉強するわけではないが体裁の為に教科書をリュックに詰め込んで、部室に行くことにした。


文学研究部。


ドアの前につるされた立て看板にそう書かれていた。


僕が所属する部活の名前だ。


三階旧校舎の一番の端にある。


「失礼しまーす」


建付けの悪いドアを引きながら中に入る。


「遅いよ。浩太くん。また、寝ていたのかい」

凛とした声が鼓膜に届く。


あけ放たれた窓からは少しばかりの風が入り込んでいる。


僕の目の前にあるテーブルに腰かけて文庫本に目を通している女性が一人。


風に揺られて艶やかな黒髪が揺れる。

文庫のページがパラパラと流れる。


彼女はページを片手で抑えながら、もう一方の手で黒髪を押さえている。


僕は思わず何気ない読書風景に目を奪われてしまう。


先輩のけだるげなしぐさに。

先輩の凛とした目鼻立ちに。

少し切れ長な両目。おそらく昔話に出てくる美少女が現代に転生してくるとすれば先輩のような美少女の事を指すのだろう。


誰もが彼女の美しさを信じて疑わない。

可愛いよりも美しさに体重を傾けた人物が工藤雫だと思う。


「突っ立ってないで中に入ったらどうだね。それともまだ頭が寝起きの状態なのかな」

彼女の言葉に我に返り、急いで女性の正面に腰を下ろす。


「遅れてすみません。でも、部員は僕と先輩の二人にしかいないですし」


文学研究部


文学部に対抗して先輩が適当に作った部活。


先輩は退屈そうに頬杖を突きながら文庫本に視線を落としている。


工藤雫先輩。


歳は僕の一つ上の18歳。


高校三年生。


頭脳明晰、容姿端麗。


成績優秀な為に難関私立大学の推薦が決まっている模様。


実に羨ましい限り。


先輩との出会いは僕が高校に入学してからまだひと月もたっていない頃だった。


クラスの雰囲気がまだふわふわしていたこともあって、僕は教室ではなくて外でお昼ご飯を食べることにした。


どうやらこの高校は屋上が昼休みだけ解放されているらしい。


少しだけワクワクしながら階段を上る。


寂れたドアを開ければ満面の快晴と。


日向に設置されたベンチに一人の女性が足を組んで座っている。

彼女は文庫本に目を這わせていた。


沈黙が支配した。


僕の目線に気が付いたのだろう。


女性は本から目線を上げて視線を僕の方に向ける。


どうしよう。見ていることに気づかれたよな。二人しかいないのに。


僕が内心どぎまぎしていると、女性がぼんやりとした口調で尋ねてきた。


「キミは誰かを本気で好きになったことがあるかい」と。




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