深夜の台所

たなか

深夜の台所

時計の針は午前2時を少し過ぎていた。

窓の外は静まり返り、街灯の薄オレンジ色の

光だけがカーテンの隙間から部屋に忍び込む。涼太はソファに沈み込み、開いたままの

文庫本を膝に置いていたが、ページをめくる

気力はとうになかった。

代わりに、彼の頭を占領していたのは、

冷蔵庫の奥に眠っているあの存在だった。


今夜、母が作ったカレーが残っている。

昼間に食べた時、濃厚なスパイスの香りが

鼻腔をくすぐり、じんわり汗をかくほど熱々のルーが舌を包んだ。

ジャガイモはほっくりと崩れ、にんじんの甘みがルーの辛さに溶け合い、

鶏肉は柔らかくほぐれて…。

涼太は唾を飲み込んだ。

胃が小さく、だが確実に「ぐぅ」と鳴った。

「いや、ダメだ。

こんな時間に食ったら絶対後悔する」

彼は自分に言い聞かせるように呟いた。

だが、頭の中ではカレーのイメージがさらに

鮮明になる。冷蔵庫のドアを開けた瞬間の

ひんやりした空気。プラスチックのタッパーを取り出し、レンジで温める時の「チン」という音。湯気が立ち上り、キッチンをスパイスの

香りで満たす瞬間。

あぁ、もしご飯がなかったとしても、

冷凍庫にパンがある。

あのふわっとした食パンにカレーを絡めて食べたら…。

涼太は立ち上がった。

まるで何かに操られるように、

足は自然とキッチンへ向かう。

冷蔵庫のハンドルを握る手は少し震えていた。ドアを開けると、期待通りのタッパーがそこにあった。カレーはまるで彼を誘うように、

濃い茶色の表面を光らせている。

「ちょっとだけ…味見程度でいいよな」

と自分を納得させ、

レンジにタッパーを放り込んだ。


温めている間に、涼太は食パンをトースターにセットした。バターを塗ればもっと…いや、

塗らなくてもカレーの濃厚さが十分にパンを

引き立てるだろう。

レンジが「ピピッ」と鳴り、湯気が立ち上る。キッチンはたちまちスパイスの香りに包まれた。カレーをスプーンですくい、まずは一口。熱々のルーが舌を刺激し、

鼻から抜ける香辛料の風味が脳を直撃する。「うまい…」思わず声が漏れた。

パンをちぎってカレーに浸す。

パンの白い部分がルーを吸い込み、

黄金色に染まる。口に入れた瞬間、

ふわっとしたパンと濃厚なカレーが一体化し、幸せが口いっぱいに広がった。

時計の針は進むが、

そんなことはどうでもよかった。


深夜のキッチンは、涼太とカレーのための

聖域だった。

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深夜の台所 たなか @kanata205108

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