第1章 素晴らしき哉日本(7)
今朝登った心臓破りの階段へと向かう道を一人歩くナギ。一日の労働を終えた後では、やはりそれなりに肉体に疲労は蓄積している。万が一にも階段を踏み外すことがあれば、無事では済まないだろう。
しかも人通りがほとんどない道のため、ナギが倒れていても発見されるのはいつになるか分かったものではない。
そのようなリスクがあることは承知の上で、ナギがこの道を通勤経路として選んでいるのは、何より「職場までの最短経路」という効率を重視しているからに他ならない。
リスクと天秤にかけたところで、傾く側は明白だった。とは言え、リスクにも備えてわずかに気を引き締める。
階段の数メートル前まで来たところで、ナギは足を止めた。
まばらな街灯は階段自体を照らすには充分なのだが、その周囲に対しての効力は心許ない。そのため、直前まで『それ』に気付かなかったのだ。
——階段のすぐ横に人の存在があった。その人物は服装や髪型から察するに男性なのだが、ただ問題はそこに人が居る事自体ではなく、その人物が地面に倒れ込んでいるということにあった。丁度ナギの側からでは顔が見えない方向に向いているのだが、体が動く気配がない。
——以前にも、似たような事はあった。階段の一番下段で酒に酔った中年男性が居眠りをしていたのだ。その時はうつらうつらしているのが見てすぐに分かったので、そのまま横を素通りして帰宅した。だが、今回は状況が異なる。行き倒れを無視する訳にもいかないだろう。
少し歩みを早め、ナギは彼の元に近寄る。顔を覗き込むと若い男性だった。恐らくはナギと同じか少し若いぐらいかもしれない。目は閉じられているが、かろうじて肩が上下に動いているのを確認できた。単に寝ているのか、失神しているのか、見ただけでは判別できない。
「あの……大丈夫でしょうか」
ナギが声をかけると、少し間があってから、男性はゆっくりと瞼を開いた。焦点の合わないぼうっとした顔をしたまま、ゆっくりと視線がナギの顔へ向く。しかし、返事はない。なんと声を続けてかけるべきか思案していると、男の唇が動いた。
乾き切った唾液で口内も唇も貼り付いていたのであろう、シールを剥がした時のような酷く粘り気のある小さな音を立てたながらゆっくりと口が開く。やっと声を発するかと思った、次の瞬間————
ぐうううううぅぅぅ、と男の体から音が鳴り響く。ナギは彼が何を求めているかを悟るには、それで十分だった。
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