第1章 素晴らしき哉日本(6)

「なんでメンダコだったんですか?」

 夏島の質問は本筋から外れるものではあったが、ここはアイスブレイクの機会も兼ねた方が好都合と判断し、ナギは答えることにした。メンダコを選んだ理由自体は先述の通りストラップきっかけなのでナギが選んだ訳ではない。その為、そこの経緯ははぐらかした上で、そのストラップを付けていた理由を回答に代える。

「……深海生物が、割と好きで。倉跡くらあとケンスケって絵本作家、知ってる?」

「ああ、読んだことはないですけど、本屋とかでめっちゃ見たことあります」

 人気絵本作家、倉跡ケンスケ(ペンネームであり本名非公開)。通称くらけん。彼の代表作に『海のなかまたち』シリーズというものがあるのだが、その一つに「旅するめんだこ」という作品がある。メンダコの子供が海流にふわふわと流されながら旅をするという物語なのだが、幼い頃に読んで以来、ナギはそれがお気に入りだった。

 幼少期からナギは、例えばアニメや漫画、スポーツ、食などに至るまで、なにか特別好き嫌いがあるタイプではなかった。痛みや不味さなどの負荷があるものは別としても、基本的にあらゆるものに対して優劣もなく、フラットに接する。別にそれを信条として意図的にしているのではなく、単純にそういう性格であった。それは今も変わらない。

 そんな彼女がほぼ唯一例外的に好意を持っているのが深海生物であり、メンダコだった。


「ちなみに、深海の生き物のどこがそんなに好きなんですか?」

 続け様の夏島からの問いかけに、ふと思案する。好意はあるが、その理由付については当人も明確な答えを有していない。

「暗くて静かな海の底を想像すると、落ち着くから、かな」

「いつも冷静な深空サンらしいですネー」

 そう言ってチョウさんは笑った。

 心の平穏を保つこと。それは、ナギにとって生きる上で最も大事なことだった。そもそもが感情の揺れ動きがあまりない人間であるからこそ、そこは拠り所でもあった。


 MenDACoの構成要素。デバイスと並ぶもう一つは、『心海モニター』という名のスマートフォンアプリだ。

 これはMenDACoデバイスが記録した心理状態の動きを、海に見立てて知らせてくれるアプリとなっている。海は、波もなく穏やかな時もあれば、大波を立てて荒れる時もある。心の状態をそれに当て嵌め、ユーザに可視化させている。

 何か論理ノイズが発生するようなことがあればMenDACoデバイスによって自動的に正常化される仕組みにはなっているが、それがいつどのようなタイミングで発生したのかは本人にとっても重要な情報となる。当人すら気付いていないようなストレスの原因が、そのデータを分析することによって分かることもあるかもしれない。そうしたフィードバックを行う為の仕組みが心海アプリだ。


「アプリ開発と保守は2課が担当してる。私たち1課の仕事は、デバイス内で動いてるシステムの管理」

「この中身、ってことですよね」

 ナギの説明を受けて、夏島は机の上にあるデバイスへと視線を向ける。それをナギは頷いて肯定した。

「——とは言っても、論理ノイズ周りの専門的な部分はアトラン……ええと、正式名称は……」

「AtlantisTechnology株式会社が正式の名前ですヨ」

「そう、それ。内部基盤のプログラム管理はそっちに専門チームがあるから、私たちが関わることはない。そこで取得されたデータを整形して、サーバ側に送って、アプリが取り出せるように準備する。その流れを管理するのが、私たちがやってる範囲になる」

 センサーなどの精密機器に関わる部分や論理ノイズ機能に関しては、流石に一介のシステムエンジニアが携われる部分ではない。デバイスの製造をしているAtlantisTechnologyの人間や、大恩宇教授の研究室、それに医師などによって構成された専門チームが存在する。もちろん、システム構築自体の担当としてノーチラスシステムからも出向の形で入っているメンバーもいる。

 専門性が高いというのも一因ではあるが、何よりもその技術は決して外に漏らす訳にはいかない機密性保護の面が非常に大きい。これは国家ぐるみのプロジェクトであり、その核となる部分は、携わる人間を可能な限り抑える必要があった。MenDACoで扱う個人のメンタルデータは日本各地に点在するデータセンターで管理されているが、そのデータセンターの場所もごく一部の人間しか知らない。


 その主力チームは常にデバイス内システムの微調整や改修を繰り返しており、それによるデータ内容の変更は度々発生する。

 それに応じて、デバイスから出てくるデータを納めるデータベース側を調整するのが深空チームの仕事という訳だ。また異常データが発生した際の調査解析を行う事もある。

 それと並行して、この夏に向けて大きなプロジェクトも進行中のため、人手はあるに越したことはない。

「そういう訳なので、夏島くん、これからよろしくお願いしますね」

「は、はい! お願いします!!」

 国民全員の生活に関わる仕事であるという重圧は当然あるだろうが、相応のやりがいもある。夏島の目には十二分なやる気が見て取れた。

 その後は仕様書や設計書を見せながらの説明作業が続き、その日の業務の大半は夏島の受け入れ作業だけに費やされた。

 定時後、課長や他のメンバーも交えて、ささやかながら歓迎会が行われた。翌日も仕事がある為、飲み会ではなく顔合わせの為の食事会という形となった。上司や先輩からの期待と、それに応えようと意気込む新人。終始和やかな雰囲気で、歓迎会は終わった。

 他のメンバーは電車やバスで帰る為、駅前で解散となり、ナギは一人、徒歩で帰路に着いたのだった。

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