第1章 素晴らしき哉日本(2)

 街ゆく人。すれ違う人。

 ナギが出社直前に立ち寄ったコンビニの店員。そこで買い物をする客。

 老若男女を問わず、誰しもが球体状の物体と共に行動していた。

 サイズはピンポン球より少し大きいぐらい。色合いは人によって様々で、薄紅色や淡い橙色もいれば、ピンクや紫もいる。共通しているのは、お碗を逆さにしたような半球体の形状。つるりとした表面だが、その上部には左右一対となるように、小さな突起が飛び出している。それはまるで猫や何かの耳のようでもあるが、時折見せるぱたぱたと宙を掻くかのように縦に動く様子は魚のヒレを思わせた。

 その物体を肩に乗せている者も居れば、頭頂部に乗せている者も居る。装着してあるというよりも、ぺったりと張り付いているその様子は吸着しているという表現の方がしっくりくる。

 また、時折それは浮かび上がり、頭部の周囲を飛び回った。お椀状の体を傘のように開いたり閉じたりしながら飛ぶ動きは、海中を漂うクラゲのようでもあった。

 ——よく言われる表現だけど、クラゲじゃないのにね。

 そんな事を、ナギは一人思う。寧ろクラゲよりも愛らしい程だと思ってしまうのは一種の親バカというやつなんだろうか、そんな事を考えていたせいか、コンビニの入り口で男性と肩が強くぶつかってしまう。肩に薄紫色の『それ』を乗せた、スーツを着た会社員らしき、ナギより二回りほど年上の中年男性だった。

 男性は眉間に皺を寄せ、苛立った表情でナギを睨み付けると、大きな舌打ちを鳴らす。明らかに機嫌を悪くしたのが誰が見ても分かる顔となった——その途端、男性の肩に張り付いていた『それ』が突然薄く赤い光を帯びると同時に、耳の部分を激しくパタパタと動かし始める。

 すると、先程までの表情が嘘のように、男性の眉間から皺が消え去った。

「すみませんでした」

 ナギが謝罪の言葉を口にしても、もはやナギへの興味すら失ったかのように「ああ」と短く答えただけで、男性はそのまま何事もなかったかのようにコンビニを出て行った。男性の肩にある『それ』は既に光も消え、元の状態に戻っている。

 男性を見送りながら、ナギは小さく頷いた。今日も『システム』は正常に機能している。十全に。完璧に。


 オフィスの在るビルに到着した。

 玄関の自動ドアをくぐりながら鞄からネックストラップ付きの社員証を取り出し、正面にあるエレベーターの操作盤上の黒いパネルにかざす。間も無くして、ポーンと音がして扉が開いたのを確認し、籠に乗り込む。閉まりゆく扉の方へ向き直る。他に乗客はいない。階数ボタンを押すことをせずとも、社員証のICチップによって事前に設定されたフロアへと、エレベーターはナギを運んでいく。

 再びポーンと音が鳴り、扉が開く。降りた正面にはすりガラス製の扉があり、すぐ脇の壁に取り付けられた機器に向けて再び社員証をかざすことで、扉はスルスルと静かに開く。

 薄暗く、まだ人の姿のない閑散としたオフィスの中、ナギは左手の壁際にある自身のデスクへと向かう。照明センサーがナギの存在を感知したことで、ナギの後を追うように天井の照明が灯っていく。それに合わせて、窓のブラインドも自動で羽根の角度を調整し、室内に適度な照度がもたらされる。

 カーペットを歩く僅かな足音。照明と併せて稼働を始めた空調が冷風を吐き出すコオオという微かな音。この静寂がナギは好きだった。

 自身のデスクに着くとすぐに自身のノートパソコンを開いて電源ボタンを押す。殆どいつでもスリープ状態を保ち続けているため、すぐにログイン画面に切り替わる。定期的にシャットダウンをした方が良いことは知識として理解しているものの、起動時の効率の方ばかり優先してしまう。虹彩認証が成功してデスクトップが起動するのを横目で見つつ、鞄を袖机の引き出しにしまいながら椅子に腰掛け、先程コンビニで購入した緑茶のペットボトルを開封した。

 左手でペットボトルを傾けて喉を潤しながら、右手でマウスを走らせる。メール。社内チャットのログ。スケジュールボード。目を通しておくべきものは多い。新着通知の数が着々と減っていくのを見るのは、嫌いではなかった。


「おはよう、今日も早いねぇ」

 ナギの出社から暫くして、オフィスに中年男性が入って来た。時計を見ると始業時刻が近付いてきている。もう間も無く他の社員達も顔を見せ始める頃だろう。

「おはようございます、課長」

 その男性の名は入堂にゅうどうカジタ。ナギの属するシステム開発部1課の課長であり、直属の上司だ。いつでも柔和な笑みを浮かべ、人当たりもよく部下からの信頼も厚いのだが、少々威圧感のあるのっぺりもした顔つきのせいで怖がられがちだと気にしているらしい。

 当然の事ながら、彼の方にも例の『装置』を所持している。淡い橙色をしているそれは、彼のつるりのした頭頂部にぺたりと張り付いている。彼の装置——否、『端末』もまた耳部分を揺らしながら自らの役目を果たしていた。

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