第1章 素晴らしき哉日本
20XX年5月某日。
街は今日も生きている。
その生命活動を維持するべく、血管を流れる赤血球の如く、人々は在るべき場所へと向かっていく。そして自らに与えられた役目を全うせんと働き、もがき、そして生きる。
彼女は今、長い長い階段を、軽く肩で息をしながら登っている。普段であれば心地良さを感じられる柔らかな五月の日差しも、今は少し汗ばませる一因でしかない。階段の下には住宅地が広がる。もともとすり鉢状の窪地にできた住宅地のため、こういった坂や崖に囲まれた地帯となっており、ナギの住むマンションもそこにあった。幹線道路へ出るにはどうにかしてその蟻地獄のような地形を脱する必要があった。
少し遠回りすれば緩やかな坂を通ることのできる道もあるのだが、彼女の勤務先への近道という理由で、近隣の住人には心臓破りの階段とも呼ばれるこの道を選んで通っている。
この道を通る時、ナギは深い海の底から地上へと向かう様子を想像する。
生き物の祖先は海から陸へと上がり、進化と適応によって現在の世界を創り出した。その偉大なる彼らの功績とも呼べるこの社会で生きるため——即ち、働くために、地上へ向かう。時折感じる息苦しさはきっと、それ故の酸欠なのかもしれない。
ようやく登りきったところで、ナギは立ち止まって深呼吸をする。まだ26歳と世間的には若者に分類できる年頃ではあるものの、日頃の運動不足が祟って体力に自信はない。そういった意味でも毎朝の通勤は貴重で有益な運動の機会だとナギは考えていた。逆に、それ以外で自らジムに通うなどするほど、体を動かすことを好むタイプの人間ではなかった。
一息ついたところで、彼女は鞄からスマートフォンを取り出して画面を起動する。そこにはいくつかのメッセージが表示されている。
『心拍数の微上昇を検知しました。適度な運動は健康促進に有効です。目標歩数を目指して頑張りましょう!』
『今日は晴天。過ごしやすい暖かさとなる見込み。花粉情報もチェック!』
『今日の
『職場到着まであと13分の予定です。近隣コンビニ付近で不審者目撃の情報があります。AIナビによる迂回ルート検索はこちらをタップ』
『反政府運動団体リーダー、事情聴取へ。記事全文はサイトへ』
『奇跡を起こす宗教団体、"紺青の孔"の正体に迫る』
『邦楽チャート、今週もサイレネリスがトップ独走!』
ほとんどを流し読みして時刻だけ確認すると、ナギは再び会社へと向けて歩き出した。彼女の肩の上で、その『物体』は耳のような突起をパタパタと揺らしていた。
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