16話 誰よりも都合のいい女

 日常が終わり、また別の日常が始まる。


 つまりは普段と変わらない常日頃から繰り返す平生の休日の二日目が来たということだ。

 本日の陽馬は科学館に来ていた。


 デートならもっと浮かれられるような場所に行った方がいいのではないか、と新名に提案したのだが。


 「Theみたいなデートスポットはワタシの方が気後れしそう」とのことで、無理にデートデートしていなくても良いか、と思い直したのだった。


 良いコミュニケーションは自然体からだ。


 ガラス張りの大きな建物が日光を受けて近未来を想像させる。


 科学館の湾曲した外観デザインは独特だ。チケットを買って入館、館内は広々とした吹き抜けの作りで、見上げられる天井が高いと解放感があった。


「小学校の校外学習で来たぶりかな、なんか新しくなってるような?」


「そうだね。何年か前に常設展示がリニューアルされてるよ」


「さすが科学部の部長、お詳しい。よく来るんですか?」


「よくって程でもないよ。年に何回かだけ」


 それはよくよく来ている判定になるだろう。


 レジャー的側面がある水族館や動物園を除く社会教育施設に対して年に複数回も訪れる人間というのはそう居ないものだ。


「科学館、かぁ。ホントに科学館、だね。ホントの本当に科学館でいいの?」


 さて、今日は陽馬と新名の二人だけではなかった。


「巳月……お前まだ言ってんのか? 今日は新名先輩が行くとこ決めてんだからいいの」


「そりゃそうなんだけど……誘ってくれたのもそれはそれで嬉しかったんだけども」


「後でなんか奢ってやるから、今日は大人しくお前も科学にワクワクしなさい」


「科学にワクワクって言ってもなぁ……人ぞれぞれ好みというのものがありましてねぇ」


 まあまあ、と新名が竜崎兄妹の背を押して進ませる。


 科学館に行こう、と言い出したのはもちろん新名だが、続いて「巳月ちゃんも誘ってみる?」と持ち掛けてきたのだった。


 いいのだろうか? と陽馬は思ったが、ここ最近は休みも大抵出かけているので構って貰えなくなった巳月の機嫌がすこぶる悪く、兄弟仲を円満に保つためにもありがたい申し出だった。


 科学館なんて、と言っていた巳月だったが三人の中で一番はしゃいでいたのは間違いなく彼女だった。


 ペット型ロボットの展示を見れば「可愛い!」と大はしゃぎ、災害時に使用されるロボットアームの精密な動きを見て「すごい!」と感動しているのだった。


 一通り見て回った後で巳月がお手洗いに向かい、二人は広場のベンチで待つことになった。


 いま居る階と上階が吹き抜けになっており螺旋のスロープで繋がっている。


 吹き抜けた空間には直径六メートルの地球があった。


 この科学館のランドマークのような展示物でジオコスモスと言う。


「この地球の展示、好きなんだよね。見てるとワクワクしてこない?」


 一万枚を超えるLEDパネルによって再現されたミニチュアの地球を見て、新名は静かに目を輝かせている。


「先輩、こういうの好きですよね」


「この地球ってさ、気象衛星からデータがやって来てて、雲の様子とか、緑の色とか、宇宙から見た今の地球がちゃんと映し出されてるんだ。地球に立ちながら地球を外から見てるんだ。なんだか凄く大きなものに触れているような感じがして好き」


 新名の目は、展示の地球よりも遠くを見ているようで、知的好奇心に思いをはせる横顔は美しかった。


「いい顔してますね」と陽馬がからかったが「君はすぐに茶化してくるよなぁ」と、恥ずかしそうにそっぽを向かれてしまう。


 ややあって新名は徐に立ち上がりジオコスモスを近くで見るためか柵のところまで歩いていった。


「色々とね、自覚はあるんだ」


 陽馬の方を向かぬまま、新名は言った。


「……自覚、ですか?」


「ああ。自分のことを知っている、ということだね。自分自身を弁えている、とも言う」


「新名先輩のことを言ってるんですよね? 自覚っていうのは、何を?」


 どこか変わった口調でもなく、新名はただ普通に喋っていた。

 だからだろうか、どこか超然とした気配がある。


「ワタシはね、自分が科学者に向いていない、という自覚がある」


 陽馬は何も答えず、その代わり後を追うように新名の隣に立って話を聞いた。


「竜崎クンに話したことが有ったか無かったか、忘れてしまったけど、ワタシは科学者になるのが夢だったんだ。エジソンみたいに電気を発明したり、コペルニクスみたいに地動説を唱えたり、そういうふうに世界の誰も知らない物をワタシが見つけたかったんだ」


「……過去形なんですね」


「まあね。うっすらと、自分にそういった才能は無いんだろうなっていう自覚はあったんだけど、未来を知る鈴木さんがやって来たでしょ? つい聞いちゃったんだ。未来の新名亜里沙はどういう立ち位置で国の№2なんていう大役を務めているのか? ってね」


「すず子は何て言ってたんですか?」


「世界中の科学者を一つの場所に集めたこと、それがワタシの行った功績の中で最も素晴らしいことらしいよ。何かの研究によって成し得たポジションではないんだってさ」


「未来では、先輩の行った科学者集めで極光国という超先進国が出来上がったんですよね?」


「そう。世界最新鋭の科学プラットフォ―ムの発明……そういう風に言い直せば少しは満足感も得られるかもね。でも、まあ、そういうことじゃないんだ。人の輪を繋ぎたかったわけじゃない」


 新名が深く大きく息をついた。溜息ではなく、ただ呼吸を整えるための動作に見えた。


「……がっくり来ました?」


「まあ、そう、だね。それなりに。才能は無いって自覚していたつもりだったけど、そうは言っても実際に未来の話を聞かされるとやっぱり、ね。……望むところと得られるところは、必ずしも一致するわけではないんだね」


 かける言葉を探していると先を越される。


「竜崎クンが気を使う必要はないよ。慰めて欲しかった訳じゃないんだ。本題はここから」


 一転した雰囲気が訪れる。陽馬が盗み見ていた横顔から感情の機微を感じ取れていたわけではないが、どこか、新名の話す言葉の奥から言いようもない引力のようなものを感じる。


「私が望むところは得られない、というのは分かったけど、だったら得られたところは何か? というのが気になったんだ。世界中の科学者を集めるに至った私の手腕は、いったいどんな能力があるからそれを可能にしたのか? という疑問だね。それはね……」


 勿体つけてか、一拍だけ区切って言った。


「人の分析力、だそうだよ。自己の分析、そして他者の分析だね。特に、他者を分析した時の、この人はこういう人間でこういう事を考える。どんな事が好みで何が苦手なのか……そういった分析が神懸った精度なんだってさ」


 世界中の科学者を集めたプラットフォームの発明、新名が言っていたことを実現させるには、大勢の人が意思疎通を問題なく行って協力し合う関係性が必要だ。


 確かに他人を分析する能力が高ければ、人間の集まりを無駄なく配置することが出来るだろう。


「前置きが長くなってごめんね。つまり、それなりの精度を持って自分や他人を分析できるらしいワタシが分析してみたんだ。いま現在の、竜崎クンの気持ちについて、ね」


 思わぬ切り口がやって来て陽馬は新名の方へ向き直っていた。唾を飲んで言葉を待った。


「現状、竜崎クンは新名亜里沙よりも鷹司桃花の方が好き、というのがワタシの分析結果なんだけど、合ってるかな?」


 突き付けられた言葉は何気ない口調だったが、内容は雷が走ったかのように衝撃的だった。


 陽馬は言葉に詰まった。


 事実無根であればすぐに否定できたかも知れない。だが、言われた通り桃花に惹かれ始めている自分を知っている。


「……ノーコメントで」


「いいよ。気を使わなくって」


 綺麗な顔で微笑む新名の真意は掴めなかった。長い前髪は伏し目がちな顔を隠す。それはいつものことだが、いまは暗い印象よりも底の知れないミステリアスさを感じた。


「自覚はある、って言ったでしょ? 女の子として見比べた時、外見も性格も鷹司さんの方が魅力的に映るのは当然だと思う。


 明るくて可愛くて甲斐甲斐しい。ワタシも最近はそれなりに見栄えを気にし始めたけど、意識からして違うんだろうね。


 それに、もっとシンプルな話、鷹司さんが竜崎クンに送るラブコールってとてつもなく純粋に見える。好きの度合いを数値化できたら、たぶん負けちゃうだろうなって思うんだよね」


 この先どういうふうに話を転がすのか疑問が湧く。身を引くということだろうか。


「けどね、より好きな方が選ばれる、というのは美しい話だとは思うけれど納得はできない。ワタシもワタシで竜崎クンのことが好きなのは本当なんだよ。


 でもね、さっきも言った通り、可愛くて竜崎クンの事が大大大好きな鷹司さんとワタシを比べて、ワタシが勝てるところは何かな? って考えたんだよね」


 新名にこんな一面があったとは思わなかった。

 同じ顔をした別人のように喋り続ける。


「考えた末、ワタシは竜崎クンにとって誰よりも都合のいい女になることを決めました」


 どんな紆余曲折があってその答えに辿り着いたのか。

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