Day.14『浮き輪』
さらさらとした砂地の丘を下っていくと、青色がいっそう深まっていく。色とりどりの熱帯魚の群れは姿を消して、生き物の気配が少し薄れた。
深い青色の奥から、大きなウミガメが悠然と泳いできてこちらをちらりと見て、通り過ぎて行く。深海の人形はともかく、こんなところ泳げない二本足の生物がいるなんて、珍しいのだろう。一度こちらの動向を確かめるように戻ってきたが、害をなさないと判断したようで、方向を変えて泳いで行った。それを海底から眺めながら、二人はゆっくりともっと深くを目指した。
既に海底二十メートルを超えていた。水圧は十メートルごとに一気圧増えるらしいから、海面近くにいるときよりも、彼女の調子はいいだろう。
「調子、良くなってきましたね」
「えぇ、おかげさまで」
レースに似た尾鰭を煙のようにひらめかせて、ベストを被ったまま、彼女は艶やかに唇に弧を描いた。
「でもまだ足りないわ」
「……なにが?」
「私のいたところは、こんなに明るくない」
海面からまっすぐ、スポットライトのように降り注ぐ光柱。それを手で掬うようにして、すぐに虫を追いやるように払う。そうしながら、ゆっくりとダンスをするように泳いでいく。光をもてあそぶようなその仕草はモノクロなのに艶やかで、どこか寂しげでもあって、目が離せない。
「本当に暗闇なんですね」
「そうよ。慣れてしまえば、暗くないのだけれど」
その暗闇に慣れるまで、いったいどのくらいかかるのだろう。自分のこの目は、どこまで暗闇を捉えることが出来るだろう。
光のあわいカーテンに包まれると、ミカエラを拒むようにひらめいて反射する。人魚と違って、水に慣れていないこの身体を、海が拒んでいるようにも感じた。
砂の中から、半透明のひらひらしたものが飛び出ていて、ゆらゆらと揺れていた。海藻かと思って引っ張ってみたら、ビニールでできた浮き輪の破片だった。すっかりこなごなになって、ぼろぼろに破れている。こう言うのが、海のゴミになっていくのだろう。
「……気になるの?」
「え?」
「そういうの」
浮き輪の残骸を、深海の人魚の細い指が指す。
「そうですね……気にはなります」
故郷の白い雪原が脳裏を過ぎる。白すぎて寂しいその景色に、異物があればすぐにわかる。それと同じで、違和感に気づきやすいのだ。だから、こうしたゴミにも目が留まるのだろう。
「……おかしな人」
「よく言われます」
「捨てていいわよ」
「邪魔になりません?」
「いいの。どうせ、深海に流れてきて、それで食べられてしまうのだから」
抑揚のない声が海中に響く。
「これを食べるんですか?」
「魚たちがね。私は食べないわ」
深い海の底の底。そこにたどり着くまでに、このゴミたちは波や岩に当たったり、生き物たちに玩ばれたりして細かく砕かれるそうだ。そして、光を知らない魚たちに食べられるのだとか。
人間や人魚、妖精でも食べないようなものでも、深海の魚たちはこぞって食べる。深海はそもそも食物が少ない弱肉の世界とも言われている。長時間食べなくても生きていける身体か、口にできる物を食べているうちになんでも溶かす胃袋でも、手に入れたのだろうか。
「……あなたはなにを食べるの?」
「少なくとも、これは食べません」
こんなものを食べている人がいたら教えてほしい。
でも、春の国の妖精なら食べるんじゃないか。例えば、世間から逃げ回っている傍観者気取りの長い髪をした妖精とか。
ビニールの端をつまんで、掲げてみた。ピンク色のそれは、ゆらゆらと海中の流れに揺蕩い、やがて逃れるようにするりと指から離れた。
「……美味しいんですかね、あれ」
自然と零れ出たそれに、深海の人魚は、自分は興味ないわ、というふうにひらひらと手を振った。
「さぁね。彼らに会えたら、聞いてみてちょうだい」
◇
水深五十メートル地点。下って行くにつれて海底の高低差が大きくなっていく。一気に五メートルの斜面を滑り降り、十メートルの崖を飛び降りる。その度に、深海の人魚は不思議そうにこちらを見ていた。
「……あなた、大丈夫?」
「人間よりは頑丈ですよ。機械ですからね」
この地点になって、初めて腕から肩にかけての圧迫感を覚えた。と言っても、大量の本を抱えた時のような感覚で、体を動かすことにそれほどの影響はない。体の軋みもないし、感覚器官に異常があるわけでもない。
ミカエラの体を尾鰭で絡め取りながら、ふぅん、と観察するように赤い目を細めた。
「機械ってヘンなのね」
「みんな、どこかしらヘンですよ」
――いいかいミカエラ。生きてるものは、
ミカエラや師匠ヴィレッタが生まれ育ったのは、規律を守り融通の効かない冬の国。この気質は、冬の過酷な環境で集団を維持できなくなるためだと言われている。
けれど、別に変わっていることはおかしいことではない。人と違うことは、その変わっている分だけの物語がある。それが師匠の教えだった。
「だからこそ、人生は面白いんです」
得意げに言えば「……よくわからないわ」とさらに不思議に細められた視線を投げられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます