Day.17『空蝉』
花巻に来て数日。常に出かけているせいか、エントランスロビーでお茶をしながら今日の予定を立てるのが日課になりつつあった。
少し早めにロビーに降りてきた愛衣は、フードドリンク用のお出汁をいただいていた。【琥珀色のだし】と銘打ってある出汁は、数種類の
毎朝夜と、ビュッフェ形式の食事はとても美味しく、満足している。ウェルカムドリンクにお出汁? と、なんとなく興味本位で飲んでみたらこれがすごく美味しい。冷たい飲み物を欲する時期でも、あったかい出汁はどこかほっとして懐かしい気分にもなった。
(これ、お土産にもあったな……)
「お気に召したようですね」
「わっ、和さんっ」
自分用に買っておこう、と飲み干したところで、ひょいっと横から声がする。にこにこの笑みを浮かべた和が覗き込んでいた。
「お出汁、気に入っていただけたようで」
「とっても美味しいです、このまま飲むのもいいですけど、どんな料理に使ってもきっと合うと思って」
「それはよかったです。ところで、瑠奈さんは?」
「お土産見てますよ。呼んできますね」
「ありがとうございます、来夢さんも、もうそろそろ来ますので」
ドリンクバーで冷たいほうじ茶を取ってから、和は今日行くであろう場所の地図を広げ始めた。
◇
【宮沢賢治童話村】。
農業や宗教など、宮沢賢治本人について詳しく展示されている【宮沢賢治記念館】や、宮沢賢治に関する芸術作品や研究論文を収集公開している【宮沢賢治イーハトーブ館】とは別で、ここは賢治が書いた〈童話〉そのものに重きを置いて作られた施設だ。
すなわち、賢治が思い描いた世界〈イーハトーブ〉を体感できる場所でもある。
愛衣は、それを身体全体で感じ取っていた。
(…………)
童話村のエントランスである〈銀河ステーション〉の門を通り抜けると、思い込みかもしれないが、風が変わったように感じた。なんというか、肌にまとわりつく湿気を含んだ蒸し暑い風じゃない。
(…………風が気持ちいい)
敷地を囲む森の中から〈風の又三郎〉がこっちを見ているんじゃないか。この後、大風を吹かせて私たちを驚かせようとしているんじゃないか。
それは童話の中の話だ。現実では絶対に有り得ないし、〈風の又三郎〉なんていないのは分かりきっている。
けれど、心のどこかでそれを期待してしまうのは、賢治がこの自然を元にして童話を描いていたからだろう。
ログハウス型の展示施設〈賢治の教室〉は五つの題材に分かれている。〈石〉〈鳥〉〈星〉〈動物〉〈植物〉について学ぶことができ、童話のどの部分に用いられているか、引用付きで展示されている。
全ての〈教室〉を見終わったのを見計らって、〈ふくろうの
このベンチは少し小高い丘にあり、五つすべての〈教室〉を見下ろせた。
「けっこう見るところありましたね」
〈賢治の学校〉もログハウスの展示も、建物の規模は小さいが、その展示物は濃厚な内容だった。加えて展示の演出も、目を見張るものばかりで、ついつい見入ってしまったのだ。
「そうでしょう? ログハウスは小さいですけど、じっくり見ていると、実はけっこう時間が経ってるんですよ」
宮沢賢治の作品は、思いのほか情報量が多い。それは賢治自身が童話作家だけでなく、農業に科学、天文に芸術に宗教と、幅広く知識を持っていたからだ。
作品の細かな表現にまで
「あそこ、ちょっとびっくりした」
瑠奈が言ったのは〈鳥〉の教室の展示演出だ。
鳥に関する説明文の隣に、本来あるはずの剥製や模型はなく、黒いガラスが壁に嵌め込まれているだけだった。簡単な展示にちょっと拍子抜けしたくらいだ。
けれど五分ほどすると、教室の照明がぱちぱちと点滅し始めた。一気に照明が落ちて暗くなり、黒いガラスのあった場所に、鳥の剥製がぼうっと現れた。
黒いガラスはマジックミラーで、暗くなると剥製の展示が現れる仕掛けになっていたのだ。ゆっくり時間をかけて見ないと、なかなか気づかない仕掛けだった。
他にも〈動物〉の教室では、床に猫や熊や、蛙や鳥の足跡がでたらめに描かれていたり、〈星〉の教室では綺麗なライトアートが設置されていたりする。〈植物〉の教室の展示は全てペーパーアートで作られていて、〈石〉の教室には実物の鉱石と、顕微鏡で拡大させた画像が飾られていた。
「……ん、」
瑠奈がなにかに気づいた。
「猫」
彼女の視線の先に、小さめの猫がちょこんと座っていた。白と黒のハチワレをしていて、目は黄色い。きょろきょろと周りを確認するように首を回してから、タッと〈ふくろうの小径〉を走っていった。
瑠奈は猫を目で追うと、ベンチから飛び降りて、その後をてけてけと追って走っていった。
すかさず和が「仕方ないですね」と腰を上げて後を追った。いつもならここで、彼の能力の念力で瑠奈を連れ戻すのだけれど、人目もあるこの場所で軽率に使わないのは懸命な判断だ。
となると、当然ベンチに残ったのは来夢と愛衣になった。
「ふふっ、瑠奈ちゃんも猫ちゃんだからですかね」
「元気なことで」
「来夢くんは、まだ休んでいきますか?」
「えぇ、もう少し。この風を感じていたいです」
緑の匂いがする風が、ふと強く吹いて、二人の髪を勢いよく揺らした。
「この風、又三郎が吹かせてるんですかね?」
「そうだったら、面白いですね」
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