愛のない世界

なかつつつ

第1話

 貴重な時間を私のような無期拘禁刑の囚人のために割いてくれてありがとうございます。本当に、貴重な時間じゃないですか。だってホモ・サピエンスと呼ばれた生き物が過ごす最後の何百時間のうちかの、一部でしょう。それをこんな大罪人と過ごすことに使っていいのかな、と思って。行きたいところに行ってみたり、やりたいことをやってみたり、そこまでしなくとも、愛する人と過ごしたり……そういう風に使ってみたほうがいいんじゃないかと思ったのですけれど。私が言うと皮肉に聞こえるかもしれませんね。そんなことはありませんか?

 そうですか。あなたはとても思慮深い人ですね。今生き残っているのはそういう人……ええ、そうですね。そうなったのです。あなたは、そうなった原因と今、向かい合っているのです。

 私が、ホモ・サピエンスの歴史を終わらせることになった大罪人です。

 私は、人類史上最もひどい悪党になるんでしょうか。どう思いますか? 歴史に残る大悪党なのは間違いないと思うのですけれど、みんな滅びてしまえば、そもそも歴史を語る人がいませんが、私がホモ・サピエンスの歴史を終わらせたと言うことは、事実として残っていくのでしょうか。誰も認識しない歴史は、歴史とはなり得ないのでしょうか? そもそもの話、歴史というのは誰かの残した物語であって、物語を必要とするホモ・サピエンスがいなくなってしまえば意味はなく、この問い自体が無駄なものでしょうか? 歴史とは誰のためのものなのでしょうか?

 ああ、いけない。私は歴史家ではありませんから、このような問いを立ててもきちんとした議論になりませんね。私はナノマシン工学者ですから、人文系の学問には疎い方なのです。もちろん、私が研究していたナノマシンは、最終的にはホモ・サピエンスに使うためのものでしたから、「人間」のことを調べはしました。それでも、私の理解は足りなかったのです。

 足りなかったので、人間が滅んだのです。

 でも、私というただ一人の人間の理解が足りなかっただけで、滅ぶことになるなんて、本当にあり得るのでしょうか。人間が人間を理解していないことなんて、いくらでもあったのではないですか?

 そう考えると、果たして今のこの惨状は、私だけの罪なのでしょうか?

 ……。

 ごめんなさい、そう怒らないで。

 ごめんなさい。

 はい、私のせいです。

 

 「愛」をもっとわかっていたら。

 ホモ・サピエンスが絶滅することには、なりませんでした。

 しかし、これだけは信じていただけませんか?

 私は、真剣だったのです。真剣に、「人間がもっと良くなる未来」を考えていたのです。もっともっと、この地球に生きるみんなが、幸せに、より充実して、笑顔で、人生を終えられるように、考えていたのです。考えて、あのナノマシンを作ったのです。

 血液脳関門BBBをクリアして、さまざまなホモ・サピエンスの脳に侵入することができるようになった、あれを。

 本当に、ホモ・サピエンスを絶滅させるつもりなんてなかった。

 ふう。

 せっかく訪ねてきてくださったのですから、私のしたことについて、改めて語りましょうか。

 おそらく多くのニュース記事で、私のしでかしたことを読んでいらっしゃると思いますが、当事者から直接、対面で聞くことで、得るものもあるかもしれません。得たところで、それをあなたが利用できるのかどうかはわかりませんが。

 私は、真剣だったのです。年々上がっていく最高気温、搾取されていく平民、画面の向こうの戦争、インターネット上でほぼ毎日のように繰り返される炎上騒ぎ……どうしてこんなに醜い諍いが起きるのだろうと、日々頭を悩ませていました。全員が悪いわけではないというのは、私も理解していました。

 たくさんのいい人がいる中で、一部の愚かな人たちが、不利益をもたらしている。

 だから、その愚かな人たちを見分けて、淘汰すればいいのではないか。

 血管脳関門を超えて脳に侵入できるナノマシンを開発し、特定の神経回路を持たない人間の脳に致命的なダメージを与える。そのイメージは、ある日突然、湧いたものでした。あの時は……どうだったかな……朝の時間だったように思います。ヨーグルトとコーンフレークを混ぜたいつも通りの朝食を準備して、仕事中に飲むコーヒーを淹れるため電気ケトルでお湯を沸かして、コーヒーフィルターをかけたお気に入りの猫耳のついた黒いマグカップに、お湯を注いでいるところでした。

 ふと、気がついたんです。

 そうだ、愛が足りないのだ、って。

 この世界を悪くしている愚かな人たちには、「愛」が足りないんだって。

 悪く言われるような人でも、恋人や家族への愛を持っていることはあるでしょう。大抵の人間は、誰か一人くらいは愛する者がいるものです。

 それすらいない人は、いなくても良いのではないですか。

 いえ、こうして問いかけても無意味ですね。

 だって私が、「愛」の神経回路を持たない人間を、ナノマシンで殺し尽くしてしまったのですから。脳のどこにも「愛」がない人間は、全員死に絶えてしまったのですから。

 事実、もういないのです、「愛」のない人間は。

 今生きているのは、「愛」の神経回路を持ち、ナノマシンが作動しなかった人間たちです。何かへの愛を持った人間たちです。

 私は、「愛」を感じたときに働く神経回路を発見しました。もちろん、個人差はあります。しかし、ケースバイケースでも基本の型というのはあるものです。私はそれを感知するナノマシンデバイスを開発し、人間の目には捉えきれないそれを、空気中に散布しました。自分の足で、さまざまな人が住む土地に出向いて、バラバラと。

 もちろん、それだけで全人類に行き渡るとは思っていませんでした。あれは、祈りのようなものです。どうか、人類が良くなりますように、と私の願いを込めて、私が全力で作り上げたナノマシンデバイスを散布したのです。遺骨を、海に撒くときには、きっと同じような気持ちになるのでしょうね。もう私はこの刑務所から出られませんから、そんなことをする日は来ないでしょうが。

 ホモ・サピエンスの大部分に私のナノマシンを行き渡らせたのは、製薬会社のおかげでしょうね。これはご存じでしたか? すでにニュースになっています? そうですか。あの会社はどうなりました? ああ、潰れたのですね。まあ、そうでしょう。責任を取るにしても、ちょっと一企業でどうにかなる責任の大きさではないですからね。

 私はあなたがご存知の、その製薬会社と繋がりを持っていました。はい、ここから先も特に目新しい情報はないでしょう。あなたがおそらく何かの記事で読んでいる通り、その製薬会社から発売された、画期的な認知症予防薬にナノマシンを仕込んだのです。あの予防薬は素晴らしかったですね。今では認知症を発症する方は、一パーセントに満たないのでしたっけ。希望の薬でした。希望。

 ほとんどの人が、あの予防薬を飲みました。なるべく若い頃に飲むことが推奨されていましたから、多くの子どももあの予防薬を飲みました。ワクチンを打つのと同じように、検診で勧められていたのでしたっけ? 服用が。もう忘れてしまいましたけど。今はもうナノマシンも入っていないはずですが、どうなっています? 飲む人は少ない? まあ、そうでしょうね。最悪の商品イメージがついてしまったでしょうから。

 ただ摂取した人だけに有効なナノマシンであれば、このようなことにはならなかったのですが。でも、私は本当に人類を良くしたかったのです。それには、これからの人類全てを選別する必要があるでしょう? はい。だから私は、あのナノマシンは妊娠した場合に胎盤を通じて子どもにも移行するようにデザインしたのです。

 嗚呼、私の誤りはそこでした。

 愛を知らない人間は死ぬ。

 子どもたちは、愛を与えられはしても、愛を知っているわけではなかった。

 「愛」の神経回路を脳の中に持たない大人たちが次々と死んでいく中で、三歳以下の子どもたちはそれ以上の勢いで、死んでいきました。まだ彼ら彼女らは、愛の神経回路を持つほど、成熟していなかったのです。愛は、生後一定の時期に獲得するものだったのです。

 本当に、愚かですよね。そんなことも気づかないまま、私はナノマシンを散布してしまったのですから。

 そして、ホモ・サピエンスは。今残っているのは、「愛」を知る三歳より上の人たちだけです。あとは、最後の一人が死ぬのを待つまでです。今後も子どもは生まれるかもしれません。ですが皆、生まれた後に、他の子どもたちと同様死んでいくでしょう。

 私たちは新しい世代を失いました。

 今、多くの企業が私のつくったナノマシンに対抗しようと、全力を注いでいます。しかし私の見立てでは、あれを無力化することは難しいと言えるでしょう。もうナノマシンは今生きている全ての大人の頭の中に存在していますから。企業の方たちは研究を進めるより、ナノマシンに侵されていない、文明と隔絶された人類を探した方がいいのかもしれませんね。その人たちの子どもならば無事なはずです。

 しかし、さすが、残ったのは「愛」のある人間たちです。大罪人である私を殺すことはしませんでした。まあ、ナノマシンをつくった私ならば、ナノマシンを無効化する何かをつくれるのではないかと、期待されているのでしょう。しかし私は、ここから出る気はありません。

 自分の罪を認めているなら、なぜナノマシンを無効化する努力をしないのか、と言いたいのですね。

 ……。

 私は間違っていました。

 私は人間についての理解が足りませんでした。

 でも私は、自分のやったことが無駄であったとは思わないのです。

 なぜならば、私は人間を、ホモ・サピエンスを、愛しているからです。

 私ももちろん、ナノマシンを投与されていますよ。むしろ、一番はじめに自分で実験したのです。でも私は、死なない確信があった。なぜなら人間を愛していたから。私は人間を愛していたからこそ、より良くなってほしいと思ったのです。

 多くの子どもたちが亡くなって、本当に悲しいとは思っています。しかし、今、この瞬間にこの世界には、愛を知る、素晴らしい人間しかいないのです。おそらくは。それって、素晴らしいことではありませんか?

 ……ああ、帰られるのですか?

 今日はお話ができて、本当に嬉しかったです。

 それではどうか最後まで、愛に満ちたこの世界を楽しんでくださいね。


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