第7話
後悔した。
争い事を避け、日光を避け、暇があれば屋内へ。そうして鍛えられた僕の腕で、舟を湖の中心部まで運ぶなど不可能なのだ。
「頑張って。もう少し、だから」
「もう少しって……僕の目には、まだまだ先に見えます、けどっ」
腕が痛い。呼吸が苦しい。
どうして皆、一漕ぎでああも大きく進むのか。
「私も手伝う」
コンコンと、シャウルは舟底をノックした。
瞬間、舟全体が淡い光を帯び、恐ろしいほど軽々と進むようになった。
どうやら、舟そのものを僅かに浮かせているらしい。
「うん、早いはやい」
これでは僕の存在意義がないと思うのだが、まあ、シャウルが満足ならいいだろう。
舟は一分としないうちに中心部へ到着した。他の男女は、皆恋愛関係にあるのか、妙に艶っぽい雰囲気だ。こちらには見向きもせず、二人の世界にどっぷりと浸っている。
「次は私のっ。私の番っ」
ホムンクルスに恋愛感情は理解出来ないのか、気まずさの一つも見せず、嬉々として木の板を手に取った。
周りの女性に倣い、鍋の中でソースでも作るように水を混ぜる。
波打つ水面。花を載せた小舟は、どれもひっくり返ることなく、湖のあちこちへと等間隔に散らばった。何かの意思に沿うように。
「おぉ……凄いな、これは……っ」
不規則な水面の乱れが、少しずつ、少しずつ、治まってゆく。
だが決して、誰も木の板を動かす手を止めていない。まるでこの湖が、外部からの干渉を、住民たちのマッサージを、受け入れたように見える。
「変なのいる」
「変なの?」
「水の中。何か、細長い。光ってる」
覗き込むと、確かにそこには何かがいた。
湖の奥深く。緑色に輝くそれは、水底をのたうっていた。相当な大きさだ、並の生き物ではないだろう。
「……もしかして、ここの王なんじゃ」
「王って?」
「土地神のことです。あんな魚はいませんし、化け物の類にも見えない。だとしたら――」
言いかけて、大きくのけ反った。水中から浮き上がって来た薄緑色に発光する球体が、僕の鼻先を掠めてゆく。
見ると、同じようなものがあちこちから浮上していた。色こそ違うが、これには見覚えがある。
「レグルス、これは?」
「……精霊ですよ。でも、ここまで大っぴらに、人の前に現れるなんて。土地神も寝床から出て来ていますし。これ、中々見られるものじゃありませんよ」
他の人たちの反応を見るに、全員が精霊を視認しているようだ。
そもそもあれらは、見える人にしか見えないもの。向こうの意思が働かない限り、一般人の前には姿を現さない。
「可愛い。ふわふわぁ」
シャウルが手を伸ばすと、その精霊はゆらゆらと離れて行った。
しかし、他の舟には割と好意的だ。この土地の者しか受け付けないのだろう。
「良かったよかった。今年も出たようだね」
いつの間にか、舟の近くにリンナの影がいた。
「凄いですね。エルフでもないのに、精霊が人と共生してるなんて」
「そうだろ。これも賢者の石を採掘しない理由の一つだよ。それはそうとして、通例だとあと三十分くらいは精霊がうろちょろしてるから、それまでマッサージを続けとくれ。絶対に女の仕事ってわけでもないから、適当なところで交代するといい」
「ご馳走を用意しているからね」と言い加え、影は水面を凄まじい速度で這い、本体へと帰って行った。
舟の上で三十分か。思ったよりも重労働だ。
まあ、世にも珍しい精霊の顕現と土地神を見物出来るのだから、相応の対価だとは思うが。
「代わりましょうか?」
「いい。もう少し」
何がそこまで楽しいのか分からないが、シャウルは仕事を手放さなかった。
願ったり叶ったりだ。ここへ来るまでに酷使した腕に、更に鞭を打つような趣味はない。彼女がやりたいのなら、好きなだけやらせておこう。
「……ん?」
突如、楽し気に浮遊していた精霊たちが、一斉にその場で動きを止めた。
水中からの光は失せ、水面にはいつも通りの波紋が広がる。それを合図にして、ポツリ、ポツリと、精霊は光を落として湖に消えてゆく。
「何?」
木の板を水から揚げ、シャウルは首を傾げる。
僕たちにだけ見えなくなったわけではないらしく、他の舟からも何だどうしたと声が聞こえる。街の方もざわざわと動揺している。
「――まさか」
嫌な予感が、冷たい汗となって流れた。
自然の化身たる精霊は、この土地の機微に一際敏感だ。あれらが姿を隠したということは、これから何か良くないことが起こる。おそらく、その良くないこととは、
「――――――――――――――――ッッッッ!!!!」
静寂を劈く、何かの咆哮。
それは、夜よりもずっと深い闇色を纏うドラゴンの産声だった。
◆
狭く薄暗い石畳の部屋。
リンナの家の地下には避難施設が設けられており、そこにほぼ全ての住民が収まっていた。こうも上手く避難出来たのは、彼女が街全体を覆うように魔術的な障壁を仕掛けてドラゴンの攻撃を防ぎ、影をいくつも飛ばして誘導したからだ。僕たちが来ないことを想定して、ずっと前から準備していたのだろう。
「……おとうさん、まだこないのかな」
「大丈夫よ。きっと先生が、連れて来てくれるから」
何組かの家族が、不安げに天井を仰ぎ見ていた。
いつもの夜ならば、全ての家に影を飛ばすだけで済む。しかし今日は、子供は夜まで遊び、大人は翌朝まで飲む、儀式の日だ。住民があちこちに散らばっているため、地上に取り残されている者も少なくない。
「……最悪だな」
住民の不安を煽ることを覚悟でドラゴンについて話していれば、きっとこうはならなかっただろう。儀式の延期なり、規模の縮小なり、対応策はいくらでもある。
まあ、今更言っても仕方がない。そう進言しなかった僕も同罪だ。
幸いにも、シャウルは優秀な魔術師だ。先ほどから、一人、二人と、零れ落ちた住民を探し当てて避難させている。上はメチャクチャになるかもしれないが、人死にが出ることはなさそうだ。
「……っ…………っ」
僕にピッタリと寄り添い、シャウルは小動物のように縮こまっていた。
ここへ避難してから、ずっとこの調子だ。
時折聞こえる鼻をすする音は、リンナを助けたいのに、街の人を助けたいのに、まったく動こうとしない身体への憤りと悲しみだろうか。
「シャウルさんが……今、外に出て、ドラゴンを倒したら、皆喜びますよ」
そう呟くと、シャウルは顔を伏せたまま、やだやだと首を横に振った。
「でも、そうしないと、誰かが殺されるかもしれませんよ」
またしても、やだやだと首を振った。
「じゃあ、ちょっとだけでも、ほんの少しだけでも、頑張ってみたらどうですか」
返って来たのは、これまでと同じ動作だった。
その時、ドシンッと鈍い音がした。ドラゴンが地上に降り立ったのか、建物が壊れたのか、とにかく何か良くないことが起こったと思われる。
「そういえば、あの日も、僕はこんな風に隠れていたんですよ」
「……あの日?」
「あなたが僕の里を攻撃した日です。母に言われて、戸棚の中に隠れました。狭くて、暗くて……でも、少しずつ明るくなって、熱くなって、気が付いたら火の海でした」
「ご……ごめん、なさい」
「いや、別に謝って欲しいわけじゃありません。謝って済む問題でもありませんし。ただ、僕が言いたいのは――」
その時、地下室の扉をバンッと勢いよく開き、中年の男が転がり込んできた。
男はひと息つく間もなく、びっしょりと汗の滲む顔で他の住民を見回し、その中からシャウルを探し当てた。
「せ、先生が! 先生が囮になって、俺を逃がしてくれたんだ! いくら先生でも、あんな化け物に敵いっこねぇよ! なぁ、あんたも魔術師なんだろ!? 先生を助けて貰っちゃくれねぇか!」
男の発言に、周囲の視線がシャウルに集まってゆく。
凄まじいプレッシャーに、シャウルは一層小さくなった。住民たちの落胆の声に、シャウルはビクビクと身体を震わせながらも、その足は一向に立ち上がろうとしない。
「……あの、シャウルさん」
返事はない。
しかし、僕は構わずに続けた。
「僕が言いたいのは、せめて責任を取れってことです。僕たちに対してじゃありませんよ、この国の人たちに対してです」
ピクリと頭は動くが、やはり返事はない。
僕は立ち上がり、更に続けた。
「どういう事情があれ、あなたは死ななくていい人たちを殺しました。でもそれと同時に、この街の人たちみたいな、死ななくていい人たちを大勢守ったんですよ。だったら、最後の最後まで守り通してくれないと、殺された側も納得がいかないと思います。……いえ、というか、僕が納得出来ないんです」
僅かだが、シャウルは顔を起こした。
僕は彼女の肩を強く掴み、
「あなたが僕に甘えるのは許せますよ。食事くらい一緒に摂りますし、形のいい小舟でも何でも譲ります。鬱陶しい弱音だって、聞くぐらいはしましょう。でも、この街の人には、この国の人には、どうか甘えないでください。じゃないと僕は……あんたのことが、本気で嫌いになりそうだっ」
顔を上げて、僕を見た。灼熱の瞳に、僕を映した。
視線を重ねたまま、シャウルは腰を上げ、僕の服の裾をキュッと掴む。
「レグルス」
「何ですか」
「少しだけ、甘えさせて」
「外に出たくないってお願い以外なら、喜んで聞きますよ」
言うと、シャウルは浅く頷いて、
「私の、目になって」
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