第2話 『大暴露(ザ・リベレーション)』
2038年11月9日、午前2時47分。
東京の人工的な光が降り注ぐ不夜城、新宿。
ジャーナリストの松本
ホログラム広告が絶えず明滅する窓の外を、自動運転のタクシーが音もなく流れていく。
世界はいつも通り、退屈なほど安定しているように見えた。
その安定が、永久に失われる1時間前だった。
『ピーン』
レイの網膜に埋め込まれた通信デバイスが、プライベートチャンネルへの着信を知らせる。
送信者名は「カサンドラ」。
古代ギリシャの、誰も信じなかった悲劇の預言者の名だ。
レイがここ数週間、極秘に接触を続けている情報源だった。
〈準備はいいか〉
短いテキストが、思考の中に直接響く。
レイは心臓が跳ねるのを感じ、指先でデスクを叩いて応答した。
〈いつでも〉
次の瞬間、彼の目の前に、巨大なデータパッケージが出現した。
8.7ペタバイト。個人用のストレージでは到底受け止めきれないデータ量だ。
ファイル名は、あまりにも無垢で、それゆえに不吉だった。
Nightingale.zip
「田中さん、起きてください! 来ました!」
レイは叫び、隣のデスクで仮眠をとっていたベテラン編集長の田中を起こした。
白髪頭をかきむしりながら顔を上げた田中に、レイは震える声で告げた。
「『ナイチンゲール』です。カサンドラが、全て送ってきました」
カサンドラが送ってきた復号キーを打ち込むと、パンドラの箱は、いとも容易くその口を開けた。
最初に現れたのは、何千ものビデオログだった。
世界有数の製薬会社「ライズジェン」と、国際的な医療規制機関「GMA」の幹部たちが、機密性の高いオンライン会議で談笑している。
『……長期追跡グループにおける神経学的異常の発現率が、許容閾値を超えつつある。』
『特にロット番号B-73から始まるワクチン群で顕著だ』
『統計的有意性の問題だ。評価モデルを調整すれば、ノイズの範囲に収まる。』
『公衆衛生上の利益を考えれば、これは無視すべきアノマリー(異常)だろう』
『それでいこう。GMAの承認プロセスはこちらでコントロールする。懸念は不要だ』
血の気が引いた。レイと田中、そして集まってきた数人の同僚たちは、息を呑んで画面に見入った。
彼らが「ノイズ」と切り捨てたデータは、何百万人もの人々の健康だった。
次に開いたのは、隠蔽された動物実験の記録だった。
2世代、3世代にわたるラットやサルの実験。
そこには、旧世代のワクチンを接種された親から生まれた子や孫に、高い確率で自己免疫疾患や進行性の神経変性が現れる様子が、無機質なグラフと映像で記録されていた。
それは、有沢健司のような科学者が後に「DICF」と名付ける病理の、恐ろしい原型だった。
「…嘘だろ」
若いデータ解析担当者が、顔面蒼白で呟いた。
「これじゃあ、人類全体を使った臨床試験じゃないか…」
決定打は、「プロメテウス」と名付けられたフォルダに入っていた。
それは、規制当局と製薬会社の幹部たちが、賄賂や脅迫、データの意図的な誤読を通じて、いかにしてこの巨大な「不都合な真実」を隠蔽し続けてきたかを示す、生々しい通信記録の全てだった。
そこには、信頼すべき科学者、尊敬されるべき政治家たちの名前が、おびただしい数、並んでいた。
午前5時12分。
編集室は、墓場のような沈黙に支配されていた。
誰もが理解していた。
これは単なる一企業の不正ではない。
人類が21世紀に築き上げた「科学的医療」という名のバベルの塔、その根幹を揺るがす、史上最大の裏切りだった。
「…レイ」
田中が、乾いた声で言った。
「これを報じれば、我々は世界を敵に回す。ライズジェンだけじゃない、各国の政府、GMA、そして何より……これまでワクチンが我が子を、社会を守ったと信じてきた何十億という人々を」
「だからこそ、報じるんです」
レイは、自分でも驚くほど冷静な声で答えた。
「彼らは、真実を知る権利がある。たとえその真実が、世界を壊すものであっても」
午前6時00分。
レイ・マツモトの署名が入った記事、『ナイチンゲールの絶唱:GMAとライズジェンによる20年間の裏切り』が、全世界に向けて公開された。
最初の数分間は、静かだった。
巨大な海に小石を投げ込んだかのような、不気味な静寂。
だが、午前6時05分を過ぎた頃から、世界は壊れ始めた。
アクセス数が指数関数的に爆発し、アルゴスのサーバーが悲鳴を上げた。
他の大手メディアが、半信半疑で後追い記事を打ち始める。
SNSは、「#NightingaleArchives」のハッシュタグで埋め尽くされ、怒り、恐怖、絶望、そして陰謀論を信じてきた者たちの「だから言っただろう」という叫びが、情報の津波となって押し寄せた。
東京、ロンドン、ニューヨークの株式市場は開場と同時に暴落し、ライズジェンをはじめとする製薬企業の株は紙くずと化した。
各国の政府報道官は「事実関係を確認中」と繰り返すばかりで、その狼狽は隠しようもなかった。
レイは、オフィスの窓から夜明けの空を見上げていた。
東の空が、病的なまでに美しいグラデーションに染まっている。
彼のデバイスには、祝福と、脅迫と、そして「私の子供の病気は、これだったのか」という悲痛なメッセージが、数秒おきに殺到していた。
田中が、静かに隣に立った。
「我々は…正しいことをしたと思うか?」
「わかりません」
レイは正直に答えた。
「ただ……もう誰も、何も信じられない世界が始まった。それだけは確かです」
彼は、ジャーナリストとして史上最大のスクープをものにした。
だが、その胸に高揚感はなかった。
あるのは、巨大な世界の歯車を、自らの手で粉々に砕いてしまったという、途方もない責任の重さだけだった。
夜明けの光は、新しい時代の始まりを告げていた。
それは、偽りの平穏が終わり、あまりにも過酷な真実と向き合わなければならない時代の始まりだった。
歴史が後に「大暴露(ザ・リベレーション)」と名付けるその日、松本玲は、世界の破壊者として、静かに朝を迎えた。
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