ヴァイタル・フィールドの残響
IC白くま
第1話『ヴァイタル・フィールドの残響』
2075年、初夏。
有沢健斗は、ガラスと木材が調和した静かな家の縁側で、古い紙の写真を眺めていた。
色褪せた写真には、7歳の誕生日ケーキを前に満面の笑みを浮かべる少女が写っている。彼の娘、美月だった。
写真の中の美月は、もういない。40歳という若さで彼女の生命活動を停止させた病の名は、「遅発性免疫カスケード不全(DICF)」。今や、21世紀中頃の世代を蝕む、最も恐れられた病だ。
部屋の奥では、孫の沙耶と曾孫のレオがいた。沙耶は美月の娘であり、美月同様にDICFを発症している。ベッド上で静かに眠っている彼女のベッドサイドでは、水晶のようなオブジェが青白い光を明滅させながら、か細い音を立てている。「フィールド・チューナー」と呼ばれる、現代の最新治療器だ。それは沙耶の乱れた「生体情報場(ヴァイタル・フィールド)」を、正常な振動パターンに調律しようと試みている。
「おじいちゃん、またその写真を見てるの?」
10歳のレオが顔を覗き込んできた。その手には、学校で使っている薄いガラス板の教科書がある。教科書の表紙には『新・生命科学概論』と表示されていた。
有沢は静かに頷いた。
「美月が、一番元気だった頃の写真だ」
「沙耶《ママ》も、元気になるよね?」
「ああ。今の医学は、我々の時代とは違うからな」
有沢の言葉は、諦念と、わずかな皮肉と、そして深い悔恨に満ちていた。なぜなら、沙耶や美月を苦しめる病の遠因を作ったのが、かつての自分自身――2020年代、世界を救ったと賞賛された免疫学者、有沢健斗だったからだ。
転換点は、2038年に訪れた。「大暴露(ザ・リベレーション)」と呼ばれる事件だ。
内部告発者たちが命がけでリークした「ナイチンゲール・アーカイブ」と名付けられたデータ群は、世界の根幹を揺るがした。
それは、21世紀初頭から約20年間、世界中の巨大製薬企業と規制当局が、いかにしてワクチンの長期的なリスクに関するデータを組織的に隠蔽・改ざんしてきたかを示す、動かぬ証拠の山だった。
当時、主流だったmRNAワクチン。その接種後に報告される稀な心筋炎や自己免疫疾患は、「統計的に有意なリスクではない」と結論付けられていた。
有沢も、その結論を支持し、公の場でワクチンの安全性を説いて回った一人だ。彼は純粋に、人類をパンデミックから救うという使命感に燃えていた。統計データと、抗体価という明確な指標こそが「科学的真実」だと信じて疑わなかった。
だが、アーカイブが暴いたのは、隠蔽された数世代にわたる動物実験のデータと、意図的に追跡調査から外された初期臨床試験参加者たちのカルテだった。
そこには、特定の遺伝子配列を持つ個体が、接種後10年から15年をかけて、免疫システムに微細な「情報的瘢痕(インフォ・スカー)」を蓄積させていくプロセスが示唆されていた。
それがDICFの正体だった。
社会はパニックに陥った。ワクチンを推進した科学者や政治家は「世紀の詐欺師」として糾弾された。有沢もまた、学会から追放され、静かに表舞台から去った。
人々の健康を守るはずだった科学が、時限爆弾を埋め込んでいたのだ。信頼は、地に堕ちた。
科学の権威が真空になった時、これまで「非科学的」と一笑に付されてきた理論が、息を吹き返した。
その筆頭が、物理学者エララ・ヴェインが提唱した「ヴァイタル・フィールド理論」だった。
彼女は、全ての生命体はDNAという物質的設計図だけでなく、固有の「生命情報場」をまとっていると主張した。
病気とは、その場の乱れであり、自然感染とは、病原体の場と宿主の場が相互作用し、新たな免疫情報を場のレベルで獲得するプロセスだと。
そして、人工的に作られたスパイクタンパク質のmRNA配列は、物質としては正しくとも、「場」の情報を持たない抜け殻に過ぎなかった。
身体はそれを不完全な情報として処理し、免疫システム全体に歪な振動パターン、すなわち「情報的瘢痕」を刻みつけてしまった。これが、新しい科学が導き出した結論だった。
当初はオカルトと揶揄されたヴェインの理論は、ヴァイタル・フィールドを可視化する技術が開発されると、一気に信憑性を獲得した。
DICF患者の場は、例外なく深いノイズと乱れを示していたのだ。
そして、ワクチン推進時代の論文は、次々と撤回されていった。科学的「正しさ」が、地動説が天動説を葬った時のように、劇的に入れ替わった瞬間だった。
「おじいちゃん」
レオがガラスの教科書を指差した。
「学校でね、『暗黒医療の時代』について習ったんだ。昔の人は、どうして身体を『部品の集まり』としか考えられなかったの? どうして、全体のハーモニーを無視したの?」
純粋な子供の問いは、有沢の胸に深く突き刺さる。
彼は、かつての自分と同僚たちの顔を思い浮かべた。誰も悪人ではなかった。ただ、自分たちの時代のパラダイムを、顕微鏡で覗ける世界と、統計グラフが示す数字を、信じすぎていただけなのだ。
有沢は、震える声で答えた。
「私たちは……見えていなかったんだよ、レオ」
「目に見えるもの、数えられるものだけが真実だと思い込んでいた」
「生命全体の『響き』を聴く耳を持たなかった」
「それは、私たちの時代の科学の…限界だったんだ」
それは、罪の告白であり、歴史の証言だった。
レオは、祖父の深い悲しみを察したのか、黙って有沢の手を握った。
その小さな手の温もりが、有沢の凍てついた心に、わずかな熱を灯す。
部屋の奥では、フィールド・チューナーが奏でる微かな音が続いている。
それは、古い科学が残した不協和音を、新しい科学が必死に調律しようとしている音色だった。
有沢は、写真の中の美月の笑顔と、ベッドで眠る沙耶の穏やかな寝顔を交互に見つめた。
科学的正しさとは、完成された知識の書物ではない。
間違いを認め、未知なるものに耳を澄ませ、絶えず自らを書き換えていく、痛みを伴うプロセスそのものなのだ。
その残響の只中で、有沢は静かに目を閉じ、ただ、時の流れに身を委ねるのだった。
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