彼女という名前の薔薇は白く

ららしま ゆか

一、薔薇の名前

 小さなやしきは、住宅街の外れにひっそりと建っていた。西洋建築を真似た平屋は、病弱な妻のために先代が建てたのだという。敷地を取り囲む鋼鉄の柵には青々とした薔薇のつるが這っている。ひと月もしないうちに、甘い香りを伴って白い花を咲かせるだろう。この薔薇の名前を、私は彼女に会うまで知らなかった。

 彼女――四方堂しほうどう不可思議ふかしぎは才媛である。僅か十二歳にして、男子高等教育課程を修了したという。十二歳といえば、本来なら尋常小学校を卒業する年齢だが、彼女は学校に通っていなかった。高等女学校にも進んでいない。その必要がないからだ。彼女は、この邸から一歩も外へ出たことがない。


 私がこの邸にやって来たとき、彼女は十五歳だった。

 雪のちらつく寒い日だった。革手袋の中の手指はかじかみ、鼻の先も耳の端も痛いくらいだった。古傷のある左脚を引き摺りながら、溶けた雪で泥濘ぬかるんだ砂利道を歩くのは難儀なんぎだった。

 私は上官から預かった封書を手に、邸を訪ねた。老いた下女は私を洋間へ通すと、暫く待つように言った。そのときの私には室内を観察する余裕などなく、ひたすら緊張していたように思う。私に与えられた司令はただひとつ、四方堂不可思議に気に入られること。既に十余名の人間が脱落しているというこの難関に、私は挑まねばならなかった。

 彼女の姿をはじめて見たときのことを、今でもよく覚えている。

「お待たせいたしました」

 少し舌足らずで、甘く、けれどどこかすがしさのある声だった。私は咄嗟に立ち上がり、向き直って――固まった。

 まるで等身大の人形のようだった。背丈は私の肩ほどしかない。黒地に白い椿の柄の銘仙に、暗褐色の無地の帯。ゆるく波打つ栗色の長い髪は結われておらず、自然に胸元へ流れていた。切り揃えられた前髪と輪郭に沿って流れるびんに縁取られたかおは、恐ろしいほどに整っていた。青ざめてさえ見える白い肌、ふっくらとした頬に、小さな唇、すっと通った鼻――。それから、長い睫毛が作った影の差す、月長石の色をした瞳。きらきらとした色素の薄い双眸に見つめられて、私は息を呑んだ。見惚れたというよりも、圧倒されたというのが正しい。彼女はそれほどまでに、美しかった。

「ふ……渕崎ふちざき清一郎せいいちろうと申します。以後お見知りおきください」

 なんとか声を絞り出し、腰を折って最敬礼をした私に、彼女はくすりと笑みをこぼした。

「あなたがはじめてです。わたくしのような娘に、そんなに丁寧に接してくださった方は」

 恐る恐る姿勢を正すと、彼女はふうわりと顔を綻ばせた。まるで、朝露に濡れた小さな薔薇のように。

「四方堂不可思議と申します。どうぞ、よろしくお願いいたしますね」

 この瞬間に、私の人生はきっと一変したのである。

 彼女は上官から預かった封書に目を通すと、その場で新しい便箋になにかを書き付け、封をして私に預けた。上官に渡せばわかる、と。訳がわからないまま邸を辞し、その足で本部に戻った私は、彼女から預かった封筒を上官に提出した。そうして私は、新しい司令を得たのだった。


 あの日から、三年――。

 私はこの邸に住み込み、任務に当たっている。任務という表現は大袈裟かもしれない。それほど些細な内容なのだ。

 四方堂不可思議の監視――それが、私に与えられた任務だった。


 ⊿⊿⊿


 朝食を終え、居間でひと息ついていた時分。視界の端で、鮮やかな色彩が揺れた。見ればそれは少女の着物の袖で、彼女は私を認めるとぱたぱたと駆けて来た。

「清一郎さん、マメを見ませんでしたか?」

 マメとはこの邸で飼われている黒猫である。右の前脚を欠損しているその猫は、私より先に邸に居着いたのだという。彼女――不可思議は、長らくマメにご執心だ。

「今日はまだ見ていませんが」

「もう……折角部品が揃ったから、具合を視てあげようと思ったのに」

「だから、では」

「まあ」

 不可思議は大きな目を丸くした。けれどすぐにその目を細めて、ふっと笑んだ。あまりに可憐に微笑むものだから、つい頬が緩みそうになる。奥歯を噛みしめてそれを堪えた。

 凡骨である私には到底理解出来ないことだが、彼女は、猫に新しい脚を与えようとしているらしい。彼女にはそれが可能なのだと聞いている。それはきっと真実で、だから私はここに居る。

「お嬢様。マメのことよりも先達せんだってのお返事をなさってくださいまし。お相手のあることなのですから」

 台所から顔を覗かせたばあやが言った。そういえば、数日前に来客があったことを思い出す。外出する私と入れ違いだったので要件は知らない。詮索する気もない。記録係のような任務を与えられてはいるが、彼女の――十八歳の娘のプライヴェートを暴こうなど、私にはとても出来ない。

 不可思議は唇を尖らせる。

「……気乗りしません」

「なにを仰います。またとない、よいお話じゃあないですか」

「だって、言葉が通じないのだもの」

「ああ、お嬢様、またそのようなこと……」

 ばあやは掌を額に宛てがった。芝居がかった仕草に、少女はぷいとそっぽを向く。我関せずといった振る舞いに、ばあやは深い溜め息を吐いて――ちら、と私に視線を投げた。

 嫌な予感がした。

「聞いてくださいな渕崎様。お嬢様ったら、」

 まずい。これは長くなる。

 ばあやは私を味方に付けて少女を丸め込んでしまおうという腹らしい。

 参った。機転の利く不可思議と違い、私はばあやの舌鋒を器用に躱せない。かといって、いちいち真剣に受け答えをするのも難しい。下手な相槌を打てば話が脱線してあらぬ方向へ飛んでいき、長い話がますます長くなる。もし空返事などしようものなら、たちまち説教に転じてしまう。

 立て板に水の如き弁舌に気が遠くなりかけた頃、

「――と、渕崎様もお思いになるでしょう?」

「え、いや、はて」

「ですから、縁談でございますよ」

「縁談?」

「あらいやだ。渕崎様、さては聞いてらっしゃらなかったですね? そうでしょう」

 眉を釣り上げたばあやが詰め寄る。このまま説教がはじまっては堪らない。素直に非礼を詫びると、ばあやは不承不承〝先達てのお返事〟とやらについて話してくれた。

「お嬢様に縁談の話が来たんですよう。お相手は旦那様の、士官学校時代の同期の方の息子さんでしてね、今は帝大の研究室にいらっしゃるとか。なんでも、大昔にお父上同士そういうお約束をなさっていたんだそうで。まるで歌劇か活動写真のようじゃないですか。お嬢様の花嫁姿を見られるのだと思うと、あたくし胸がいっぱいになってしまいますわ……。だって渕崎様、あの・・お嬢様でございますよ?」

 いけない。このままでは先程の二の舞いだ。

 こちらが口を挟む隙もなく、白熱した様子のばあやは捲し立てる。

「お嬢様ったら、明けても暮れても妙ちきりんな実験ばかり。奥様譲りの器量も、趣味が機械いじりでは台なしでしょう? その気になればなんだっておやりになれるのに、そうなさらないなんて……ああもったいない。いくら女性の社会進出だと言ったって、四方堂のご令嬢が機械工の真似事だなんてとんでもないことですわ。いつだったかお嬢様のお部屋から生きた蛙がお勝手まで逃げてきた日にはもう、あたくし腰が抜けてしまって」

「うふふ。あのときのばあやの悲鳴、今でも覚えています」

 マメを抱えた不可思議が笑う。いつの間に捕まえてきたのだろう。少女の腕の中でマメがにゃあと鳴いた。笑いごとじゃあありませんとばあやが声を荒らげる。いつにも増して、邸は賑やかだ。

 ――それにしても、

 不可思議は、今年で十八歳になる。けれど、とてもそうとは思えない。小さな背丈に、小さな手足。あどけない顔、甘い声。言葉だけが大人びていて、酷くアンバランスだ。今まで会った誰よりも怜悧れいりな少女――彼女に、縁談?

 何故か私は、激しく当惑した。

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