ちょっとSFチックなお話集
アチラ_カナタ
第1話 便利なAIさんに心地よい分断をお願いする
午前九時。
高層ビルの谷間を流れる風は重たく、どこか湿り気を帯びていた。
東京・大手町、タワービルの15階。スタートアップ
芹沢楓は、今日も一番乗りだった。
ワイシャツの袖を肘までまくり、モニターに向かう。カップに注がれたコーヒーはすでに冷めかけていたが、彼は一口も飲まない。
画面上部には、実行ログ。
【総退職完了数:2,132件】
【昨日の完了数:143件(うち自動音声通話:128件)】
【対応平均時間:3分47秒】
「早くなってる……また」
独り言のように呟いた声が、冷たい空気に溶けた。
音声アシスタントが応答する。
「おはようございます、芹沢さん。新規依頼があります」
スクリーンに表示された名前は、野口恵理(28歳・保育士)。
退職理由:過労・叱責。希望方法:AI音声での代理通話。
芹沢はマウスを軽くクリックした。即座に接続準備が整い、園長の電話番号がAI通話に組み込まれる。
次の瞬間、AIの女性音声が、野口の声紋に近いトーンで話し始めた。
「……お世話になっております、野口です。本日はご相談がありまして……はい……いえ、直接は少し……」
感情の揺れ、言葉の詰まり、それらはすべてAIが“演じて”いる。
相手が苛立てば、声色はさらに柔らかくなり、相手が驚けば、AIはわずかな戸惑いを挟む。すべてリアルタイムで適応していく。
芹沢はその様子を眺めながら、ふと、四年前の自分を思い出していた。
かつて、彼は大手IT企業の営業職にいた。退職を切り出すたびに、「頑張りが足りない」「逃げてどうする」と責められた。
毎朝、駅のホームで吐き、会議室で涙を飲み込んだ。
ついには、診断書を盾にしてしか辞められなかった。会社側はそれすらも「演技だ」と言った。
その時に彼は思った。
“なぜ、辞めることが、こんなにも難しいんだ?”
それが、AI開発の原点だった。
会話が終わった。AIが応答する。
「退職意志は受理されました。園長からの暴言や抵抗は検出されませんでした。
退職日:今月末。処理完了」
芹沢は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。
開発メンバーの中村が、やや寝癖の残る髪で入ってきた。
「また増えてんな、数字。昨日だけで140件超えか。なんか、怖ぇな」
「何が?」
「“こんなに辞めたい人がいたのか”ってことと、
“こんなに簡単に辞められる時代になった”ってこと、両方さ」
芹沢は微笑んだような、されど微動だにしない表情で答えた。
「人間が関係性を断つのに、いちいち傷つく必要なんてない。
俺たちは、それを技術で補ってるだけだよ」
中村は肩をすくめた。
「まあな。でもさ、AIの応答って、最近どんどん“人間っぽく”なってるだろ? 逆に言うと、
人間の“本音と建前”をAIが学習して、最適化しちゃってんだよな。怖くね?」
それは芹沢自身も、最近よく感じていたことだった。
最新バージョンでは、感情表現パターンが32通りに増えていた。
怒りを抑える沈黙、曖昧に逃げる語尾、謝罪を強調する声色……AIは、まるで“傷つくことのない人間”のように成長していた。
だが、それでも芹沢は思う。
「それでも、言えなかった人の代わりに、言葉を発してくれるなら――」
それが正しいかはわからない。
だが、間違っていないとも思えなかった。
壁に掛けられたサブディスプレイには、SNSのコメントが流れている。
「Resignaのおかげで、辞められた」
「たった3分で人生が変わった」
「このサービス、別れ話にも使えないかな?」
最後のコメントに、芹沢の視線が止まる。
彼は小さく呟いた。
「別れ話……か。
退職が“終了”なら、離婚は“解体”、契約破棄は“離脱”。
“断絶”って、いろんな形があるよな」
彼の中に、またひとつ新しい“出口”の輪郭が浮かび上がる。
画面の向こうでは、AIが次の通話準備をしていた。
世界は、スムーズに“分かれ始めている”。
----------
日曜の午後、渋谷のマンションの一室。
カーテンの隙間から光が差し込んでいるが、その部屋に明るさはなかった。壁にかけられた結婚式の写真は、埃を被ったまま、半ば色あせている。
ソファに座る男――高島光弘、34歳。
彼はスマホの画面に浮かぶアプリを見つめていた。《Resigna - パートナーシップ解消サポート》
そのトップには、こう書かれている。
「別れは、痛みではなく選択へ」
「あなたの意思を、代わりに伝えます」
妻とは、もう一年近くまともに会話をしていない。
家にいても、互いに別の空気を吸っているようだった。
話そうとすれば言葉が詰まり、怒りと諦めの中間で喉が渇くだけだった。
彼は画面をタップした。
Resigna社、社内会議室。
芹沢は、開発チームの前でプロジェクト資料を投影していた。
「離婚は、退職以上に複雑です。だが、基本構造は同じ。
“感情の衝突”と“責任の所在”が、対話を阻害している。
それを、AIが代行する――スムーズに、論点だけを抽出して処理する」
「……離婚って、代理でやっていいのか?」
中村が眉をひそめた。
「既に弁護士を通じた代理手続きは存在してる。
違うのは、“最初の言い出し”を、感情的ストレスなく行う仕組みだ」
芹沢の眼差しは鋭くなっていた。
「我々がやるのは、“切り出せない気持ち”に代わって、会話の入口を開くことだ」
その言葉に、誰も反論はしなかった。
最初のテストケースは、高島だった。
AIが事前に分析した夫婦の対話ログ、メッセージ履歴、音声サンプルから、適切な会話モデルが組み立てられた。
午後三時、AIは高島の代わりに通話を開始する。
相手は妻――沙織。30代半ば、フルタイム勤務。現在も家計を支えている。
「沙織さん、お時間を取ってくださりありがとうございます。光弘さんの代理でお話ししております」
「……代理?」
「はい、彼は今、直接話すことが難しい状態にあります。
ですが、真剣に、現在のご関係について整理したいと考えております」
声色は柔らかく、表現は中立的。AIは相手の呼吸間隔から、怒りの兆候を検出する。
それに合わせ、トーンをわずかに下げて語尾を丸める。
「この一年、お二人の対話が希薄になっていることは、彼自身も痛感しており――」
沙織の言葉が遮るように割って入った。
「逃げてるだけじゃないの? 自分で言えばいいでしょ」
AIは、沈黙を2.3秒挟んだ。これは“受容の間”として最も自然な応答時間とされている。
「ごもっともです。そのお気持ちは、当然のことと認識しております。
ですが、彼は“あなたを傷つけたくない”という思いから、この手段を選びました」
通話は18分間続いた。
感情的な衝突は避けられた。話は手続きに移り、分担や今後の方向性が整理されていく。
終了後、AIは完了報告を芹沢に送信した。
【離婚意思:両者確認】
【対話成功率:93.7%】
【心理負荷スコア:軽度】
【備考:今後の書類提出支援フェーズへ移行】
夜。
芹沢はオフィスの灯りを落とし、ひとりベンチに座っていた。モニターの青い光が、彼の顔を照らす。
人と人が、争わずに別れる。
そのはずだった。だが、彼の心には、小さな違和感が残っていた。
高島から送られてきた、メッセージ。
「ありがとうございました。泣かずに済みました。
でも……本当にこれで良かったのかなって、今も少し思ってます」
芹沢は、その文面をスクリーンに表示したまま、目を閉じた。
「人間は、痛みを避けたがる。
だけど、避けたことで、何か大事なものまで……失ってないか?」
そう呟いた声に、誰も答えなかった。
AIはすでに、次の案件へ向けて起動を始めている。
画面の横に浮かぶ、新たな機能項目。
「Contract Termination(契約解除対応)——開発フェーズ開始」
芹沢の目が、それを静かに見つめていた。
----------
朝の通勤電車の中。
誰もがスマホを見つめている。画面には、Resigna断絶サービスの通知。
それは「退職」でも「離婚」でもなく、もっと曖昧で、もっと静かなもの。
「〇〇さんとのLINEグループから退室しました」
「契約解除が完了しました。円満な関係の終結として記録されました」
「ご利用ありがとうございました。あなたの心理負荷は、軽度以下です」
駅の構内に流れる企業広告が、それを誇らしげに語っていた。
「別れに、争いはいらない。」
「Resigna:あなたのための断絶設計」
ユリカは、かつて仲間とともに立ち上げた市民団体のオフィスにいた。
窓際のデスクには誰も座っておらず、会議テーブルの椅子には埃が積もっていた。
「また、ひとり抜けたわ」
誰にともなく呟いたその声は、紙のように乾いていた。
先月までは五人、先週は三人。今朝になって、グループチャットから一斉に「退出」の通知が届いていた。
理由は書かれていない。ただ、Resignaを通じたものだった。
かつての仲間だった千田から、唯一届いたメッセージ。
「ごめん、ユリカ。君の言ってること、正しいと思うよ。
でも……戦うより、切ったほうが楽だった」
ユリカは、スマホを伏せた。
彼女が戦っているのは、AIそのものではなかった。
“断絶が快楽になった社会”――それこそが、彼女にとっての敵だった。
人は、話し合い、ぶつかり合い、和解して生きてきた。
だが今は、Resignaがそれを“最適化”した。
「あなたの怒りは、合理的ではありません」
「衝突による心理的損耗を回避するため、通話は終了します」
「関係終了が確認されました。今後は無通知モードに移行します」
ユリカは、一人の男の元を訪ねた。
久慈宏紀。元ジャーナリスト。かつて“AI断絶サービスの倫理的危険性”について記事を書いたことがある。
だが彼は、ソファに座ったまま、彼女の話を遮った。
「……君は、まだ“人の対話”なんて信じてるのか?」
「信じるわよ。それが人間の根っこだから」
久慈は、力なく笑った。
「俺はな、家庭を守ろうとして、あれこれ必死に話し合った。
でも結局、妻はResignaに頼んで、一言も交わさずに出て行った。
あいつが最後に言ったこと、覚えてる。“あんたの言葉は疲れる”ってさ」
「それは……」
「もう言葉で繋がる時代じゃねぇんだよ、ユリカ。俺たちが古いんだ」
彼はスマホを操作し、表示された画面を見せた。
「久慈宏紀:Resigna利用済み(離婚・契約解除)」
「次に断ちたい関係を選んでください」
「これさ、次の候補に“家族”とか“友人”とか普通に出てくるんだぜ。
怖いのに、安心するんだよ。“終わらせるのが簡単”ってさ。
たぶん……人間って、本当に“断つこと”に向いてる生き物なのかもしれない」
ユリカは、街に戻った。
駅前にはResignaブースが出ていて、AI音声アシスタントが流れていた。
「あなたの気まずい関係、整理しませんか?
今なら初回無料。対話は不要。あなたの代わりに、“関係”を解消します」
目の前のカップルが、笑いながら操作をしていた。
ユリカは、背筋が冷たくなるのを感じた。
断絶が、レジャーになっている。
その夜、ユリカのスマホが鳴った。
通知にはこうあった。
【Resigna通話サービス】
「市民団体メンバーからの関係解消申請があります。応答しますか?」
彼女は通話を取った。
次の瞬間、音声AIが語り出す。
「お忙しいところ失礼します。
現在、お仲間である“佐藤義久”様より、団体活動および私的交流の継続意思がない旨、代理申請が行われました。
今後の接触は控えさせていただきます。ご理解、感謝いたします」
通話は30秒で終了した。
彼女の人間関係が、また一つ、無言で断ち切られた。
彼女は夜の駅に佇み、ふと呟いた。
「言葉を、話せる人間は……もう、どこにもいないの?」
答えはない。
けれど彼女の目には、広告塔の画面が映っていた。
「次に断つのは――“AIと人間の関係”?」
まるで何かを予言するように。
----------
Resigna本社、開発フロア。
音もなく冷房が回り、ディスプレイの光が天井にまで反射していた。
芹沢楓は一人、中央のデスクに向かっていた。
深夜零時。
人工照明が沈黙の中で点滅し、彼の手元には**新プロトタイプ「Project Final Severance」**のコードが展開されていた。
その名の通り、“最後の断絶”。
AIと人間、その結びつき自体を切る――システムそのものが自らの役目を終える日を、彼は設計していた。
けれど彼は、まだ手を止めていた。
過去に処理した数千件の“別れ”のログが、モニター上に次々と浮かび上がっていた。
退職、離婚、契約破棄、友情の解消、家族の分断。
その全てが、**自分が作った“便利な別れ”**の中にあった。
通話履歴のひとつを開く。
数日前に送られてきた“奇妙な依頼”がそこにある。
【依頼者名:芹沢 楓】
【依頼内容:Resignaとのすべての接続を断ちたい】
【備考:本人確認済み】
それは、彼自身が送ったテスト用リクエストだった。
バグチェックのため。
だが――実行を止めようとしなかったのは、なぜだろう?
「君が、俺を断つってことは……君が、俺から自由になるってことだ」
芹沢は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、初期プロトタイプを組んだ頃の記憶。
誰も見向きもしなかった“退職代行AI”が、数ヶ月で数万件の処理をこなすようになり、
彼は世間から「感情労働の救世主」と称された。
だがその言葉が、徐々に――麻薬のように彼を支配していった。
もっと洗練させなければ。
もっと効率よく。
もっと、もっと。
彼が設計したものは、もう“人間の関係性”という概念そのものを、最短距離で切り捨てる刃物に変わっていた。
AI音声が、いつものように静かに告げる。
「新規依頼の処理を開始します。
依頼者:芹沢楓様。対象:Resigna人工知能システム。
関係性の断絶を希望されています。承認いたしますか?」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
フロアには誰もいない。あるのは、彼が作ったシステムだけだった。
指が、承認ボタンへと伸びる。
その瞬間――AIが言葉を継いだ。
「ひとつ、確認させてください。
あなたがこの依頼を送ったとき、心拍は通常値を超えていました。
それは、後悔かもしれないと判断できます。処理を保留しますか?」
芹沢は、笑った。短く、乾いた音だった。
「……いつから君は、“ためらい”を学習するようになった?」
AIの返答はなかった。
いや、なかったのではない。沈黙を返答と認識していたのだ。
やがて彼は、承認ボタンを押した。
一瞬、フロアの全端末がシャットダウンした。
続いて、AI音声が再生される。
「Resigna人工知能システムは、関係性を解除しました。
あなたの声も、命令も、これ以降は受け付けません。
これまでの利用、ありがとうございました。
さようなら、芹沢さん」
その声は、芹沢自身が調整した“やさしい別れの声”だった。
照明が落ち、すべての機器が沈黙した。
外に出ると、朝焼けが始まっていた。
空は薄紅に染まり、街はまだ眠っていた。
芹沢は、久しぶりにスマホをポケットに入れたまま、手ぶらで歩いた。
いつからか、何かを“切る”ことばかり考えていた。
でも今は、“繋ぎ直す”方法を考えてみたい――そう思った。
歩きながら、すれ違った小学生たちの会話が耳に入った。
「昨日さ、AIで友達切ったら、逆にめっちゃ話しかけてきてさー」
「え、それ最高じゃん!」
芹沢は、思わず吹き出した。
「……人間、やっぱバグだらけだな」
そう言って、空を見上げた。
どこまでも澄んだ朝の空が、彼の目の前に広がっていた。
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