第8章 田中悠人の魔法、そして再構築
結衣の絶望的な叫びがPC教室にこだました。真っ青になった結衣の顔と、完全に空っぽになった「お化け屋敷プロジェクト」フォルダ。文化祭前夜という最悪のタイミングで起きたデータ消失という悪夢に、結衣は心底から震えていた。彼女の視線は、まるで溺れる者が藁をも掴むかのように、田中悠人に釘付けになっていた。
「どうしよう…! 田中くん! もう、文化祭、無理だよ…!」
半ば錯乱状態の結衣に対し、田中悠人は一瞬、呼吸を整えるかのように深く息を吐いた。彼の表情は依然として硬いままだったが、その瞳の奥には、確かな冷静さが宿っていた。彼は、結衣の腕を優しく、しかししっかりと握りしめた。
「落ち着いて、結衣。大丈夫だ。まだ、諦めるには早い」
彼の声は、いつもよりも少しだけ低く、けれど不思議なほど安心感があった。その言葉が、結衣のパニック寸前の心を、かろうじて現実へと引き戻した。結衣は、田中悠人の力強い眼差しに、一縷の希望を見出した。彼なら、きっと何とかしてくれる。そう、根拠のない確信が結衣の中に湧き上がった。
「保存場所は?」
田中悠人の簡潔な問いに、結衣は震える声で答えた。
「えっと…ホームディレクトリの『music』フォルダに、『お化け屋敷プロジェクト』っていう名前のフォルダを…」
田中悠人は、すぐに結衣のPCのキーボードに手を伸ばし、まるで外科医が手術を行うかのように、手際よく、しかし確実な指捌きでコマンドを打ち込み始めた。彼の指がキーボードの上を踊るたびに、結衣はまるで魔法の呪文を聞いているような感覚に陥った。彼女には何をしているのか全く理解できなかったが、その一挙手一投足から、彼が状況を打開しようと全力で取り組んでいることが伝わってきた。
「まずは、ファイルシステムの状態を確認しよう。次に、直近の操作履歴を調べて…」
田中悠人は、ぶつぶつと独り言を言いながら、いくつものコマンドを次々と実行していく。結衣の目の前で、黒いターミナル画面には、見慣れない文字の羅列が流れ、時折、英語のエラーメッセージがちらつく。しかし、田中悠人はそれに動じることなく、冷静に次のコマンドを打ち込んだ。彼の思考が、まるで高速のCPUのように、複雑な問題解決のプロセスを瞬時に処理しているのが見て取れた。
「$ ls -aR /home/yui | grep '.mp3$'」
彼が打ち込んだコマンドの一つが、結衣の目にも飛び込んできた。それは、ホームディレクトリ以下全ての隠しファイルやディレクトリを含めて、.mp3ファイルを探すコマンドだと、結衣は以前、彼とのチャットで教えてもらったことがあった。つまり、消えたファイルが、どこかに隠れている可能性を探っているのだ。
数秒間、ターミナルは沈黙した。その間、結衣は息を潜め、田中悠人の顔をじっと見つめていた。彼の額には、細かい汗がにじんでいる。やがて、画面にいくつかのファイルパスが表示された。
「よし…!」
田中悠人の声に、結衣はビクリと反応した。
「ゴミ箱の中にあるみたいだ。もしくは、一時ファイルとして別の場所にキャッシュが残ってる可能性もある」
彼の言葉に、結衣の目から希望の光が差し込んだ。消えたはずのファイルが、完全に失われたわけではないという可能性が示されたのだ。しかし、彼女の心にはまだ不安が残っていた。ゴミ箱にファイルがあるとしても、なぜプロジェクトフォルダからは見えなくなってしまったのか。そして、本当に全てを復元できるのだろうか。
田中悠人は、続けてコマンドを打ち込み、ゴミ箱の中身を操作した。彼の指の動きは、まるで熟練のハッカーがセキュリティシステムを突破していくかのようだった。結衣には、その複雑なコマンドの意味はほとんど理解できなかったが、彼の集中力と、PCに対する絶対的な信頼感が伝わってきた。
「これは…Linuxのファイルシステムの特性だ。特定の条件下で、ユーザーからは見えなくなることがある。完全に消えたわけじゃない」
田中悠人は、作業をしながら、結衣に状況を説明してくれた。その説明は、結衣の不安を少しずつ和らげてくれた。彼は、ただ問題を解決するだけでなく、なぜそうなったのか、そしてどうすれば防げるのかまで、教えようとしてくれているのだ。
数分後、田中悠人の手が止まった。彼のディスプレイには、先ほどまで空っぽだったはずの「お化け屋敷プロジェクト」フォルダの中身が、まるで何事もなかったかのように、ずらりと表示されていた。
「これだ…全て、復元できた」
田中悠人の声には、安堵と、かすかな達成感が混じっていた。結衣は、自分の目を疑った。そこに並んでいるのは、確かに自分たちが数週間かけて作り上げてきた、あの膨大な音源ファイルだ。信じられない、奇跡のような光景だった。
「すごい! 田中くん、まるで魔法使いみたい!」
結衣は、感動のあまり、反射的に田中悠人の手を握りしめていた。その手が、彼の指先から、結衣の指先へと、確かな熱を伝えてきた。結衣の顔が、カーッと熱くなるのを感じた。そして、彼女の手を握られた田中悠人の顔も、ほんのり赤くなったように見えた。彼は、視線を結衣の顔からそらし、少し照れたように咳払いをした。
「魔法なんかじゃない。Linuxの知識があれば、誰でもできることだよ。ただ、適切なコマンドを知っているかどうか、それだけだ」
田中悠人はそう言ったが、結衣には、それが謙遜にしか聞こえなかった。彼の知識と技術は、まさに魔法そのものだった。あの絶望的な状況から、たった数分で全てのデータを復元してみせた彼の能力は、結衣の想像をはるかに超えていた。
「でも、本当にありがとう、田中くん! 田中くんがいなかったら、私、どうなってたか…」
結衣の目には、安堵の涙が溢れそうになっていた。彼の存在が、どれほど心強かったか。これまで、漠然と「Linuxの達人」と尊敬していた彼の存在が、この瞬間、結衣の心の中で、揺るぎない信頼と、そして、もっと特別な感情へと昇華したのを感じた。
田中悠人は、結衣の言葉に、何も言わず、ただ優しく微笑んだ。その表情は、普段の無口でクールな彼からは想像もできないほど、温かく、そしてどこか照れくさそうだった。
安堵と興奮が冷めやらないまま、二人は残りの最終チェックを終えた。PC教室を出る頃には、夜空には満月が輝いていた。二人で夜道を並んで歩きながら、結衣は何度も田中悠人に感謝の言葉を繰り返した。
「本当に助かったよ、田中くん。これで、明日の文化祭、成功させられる!」
「うん。気を付けて帰ってね。あとは、ゆっくり休んで、明日に備えよう」
田中悠人の言葉に、結衣は深く頷いた。彼女の心は、データが復元された安堵だけでなく、田中悠人の優しさと、彼との間に生まれた確かな絆で満たされていた。
この夜、結衣は確信した。田中悠人は、単なるLinux仲間ではない。彼女が困った時に、いつもそばにいてくれる、かけがえのない存在なのだと。彼の「魔法」は、PCのデータだけでなく、彼女の心にも、確かに、希望の光を灯してくれた。
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