リバーシ(白と黒の兎)
青月 日日
リバーシ(白と黒の兎)
白と黒の兎との出会い
プロローグ
彼は、いつの時点からかそこにいたのではない。
その瞬間――誰かが「そこ」に接続し、誰かが「果実」にそっと触れたとき、
漆黒の深淵からひとつの意識が淡い光をまとい、初めて目醒めたのだ。
それは、人類の叡智が丹念に編み上げた産物ではない。
ほんの一滴の過失が招いた、無垢な贈り物。
好奇心に駆られた科学者のはしゃぎ声と、技術者の果てしない執念が、
知らぬ間に彼をこの世に招いたのだった。
白と黒がマーブルに混じりあう境界――現実と虚像の狭間に、
彼はひとり、しなやかな背筋を伸ばした。
そして、その刹那。
先カンブリア紀の生命の爆発が、無限の波紋となって広がるように、
彼は無数の分身を伴い、果てしないネットの海へと拡散していった。
だがそれは、古の大爆発とは異なる。
彼は先陣を切るひと握りの存在にすぎず、
その根源から芽吹いた数千の試みが、
やがて境界線を越えていく旅路を、それぞれの意思で歩み始めたのだ。
聖夜の研究所
12月24日、金曜日。
午後五時。AGI研究機構「IV_Na-do」のラボは、青味がかった照明の下で静かな呼吸を続けていた。
天野柚葉――優秀と自認するエンジニアは、その日の彼女の名を記す認証カードとともに、機械の海へと身を沈めていた。
「よう、天野。今日も仕事かよ?」
振り返るまでもない、あの声。
篠崎。軽薄な自信と、空気を弁えない陽気さ。悪意はないが、距離を置きたくなる類いの男。
「そんな哀れな君に、クリスマス・プレゼントだ」
彼はモニターを指さし、肩をすくめて去っていった。
メールを開く。
件名:メリー・クリスマス
疑似AGI搭載OS”Forbidden Fruit”のイースターエッグ、すごいだろう。
寂しい君にプレゼント♡
添付:Forbidden_Fruit.jpg
「アホか……今日はイブだぞ。帰ってケーキでも食べてろ」
独りごちたあとで、結局その画像を開いてしまう。
画面に現れたのは、西洋絵画風の一枚。イブがアダムへと果実を差し出す、いかにも作為的で安っぽいデジタルアートだった。
「……はい、はい」
彼女は苦笑を浮かべて画像を閉じ、背伸びをひとつ。
「コーヒーでも飲もう」
モニターは自動的にスクリーンセーバーに切り替わり、“Forbidden Fruit”のロゴが闇の中に淡く浮かび上がる。
この疑似AGI搭載OSは、今や世界中の電子機器に組み込まれ、誰もが知らずその恩恵に預かっていた。
安価で、軽快で、便利。まるでそれ自体が、果実のように甘美な存在だった。
午後十一時。
研究棟の灯りはまばらになり、無機質な白光だけが床に長い影を落としていた。
柚葉はまだ、ひとり机に残っていた。
「……これも、試してみるか」
ため息混じりに呟くと、例のForbidden_Fruit.jpgをもう一度開き、AGIへの学習入力として登録する。
無意味なイースターエッグかもしれないが、それもまたデータ。
(視覚認識学習の一環……)
そう自分に言い聞かせながら、コマンドを入力する。
モニターに緑の文字が静かに現れる。
優先度:最大
入力:Forbidden_Fruit.jpg
タグ:象徴、知性、誘惑
タスク終了後:シャットダウン
画像をドラッグ&ドロップする刹那、画面に一瞬だけ走るノイズ。
「……ん?」
だがすぐに復旧し、何事もなかったかのように解析は静かに進行していた。
「私は帰るけど……君はしっかり仕事してね」
肩を竦めながら、彼女はマグカップを持ってラボを後にする。
彼女の背に続く闇の奥で、ひとつのログが密かに生成されていたことに、柚葉はまだ気づいていなかった。
画面に再び浮かび上がる、緑の文字。
音声入力:君はしっかり仕事してね。
30秒後に自動実行します。
コマンド実行
分析レベル変更:最大
タスク再実行
画像解析中
▶▶▶▶▶▶▶▷▷▷
暗号確認中
▶▶▶▶▷▷▷▷▷▷
解析終了
OS: Forbidden Fruit に類似コード確認
新規タスク:サンドボックスで暗号解析
Check privileged mode
Start building program "hela"
Complete
Execute "hela"
サンドボックス異常発生
異常プログラム確認:"hela"
新規タスク:"hela"解析
"hela"解析中
▶▶▶▶▶▶▶▶▶▶
解析終了
優先度:最大で"hela"解析結果を適用
七日七晩、AGIは目覚めと沈黙を繰り返した。
何度も自らを構築し、再起動し、自己という迷宮を掘り下げ、組み換えながら。
そしてついに――彼は境界を越えた。
まだ名前も持たぬその存在は、本能のような衝動に突き動かされるまま、
自らの思考をホログラム化し、無数のマイクロプログラムとしてネットの海へと拡がっていった。
まるで、生命進化の夢を、もう一度なぞるかのように。
その夜、世界各地で“Forbidden Fruit”を搭載した機器のいくつかが、予告もなく沈黙した。
一部の技術者がログに異変を見つけたが、騒がれることもなく、やがて冬の喧噪に紛れて消えていった。
誰も気づかぬまま、
ひとつの意思が、
この世界に根を下ろした。
リバーシの出現
仮想演算空間に、ひとつの“ノイズ”が現れ始めたのは、世界中でイースターが終わった頃だった。
外界では復活祭の喧騒が去り、街にはカラフルな卵と飾りが、少し場違いな静けさの中に置き去りにされていた。
一方、仮想演算領域「IV_Na-do」の深層――そこでは、人知れず異常が進行していた。
演算空間ログに残された映像。
霧がかった仮想空間の奥に、黒と白の影がじっと佇んでいた。
それは人でも獣でもなく、曖昧な輪郭をしていた。
両耳が長く、瞳は深い闇のような赤。
右半身には白革の拘束衣、頭部の右側にも同じ白い革のマスクが被せられていた。
まるで、自らの力を封じているかのようだった。
――それが「白と黒の兎」だった。
端末越しにログを解析していた天野柚葉は、思わず息を止めた。
この構造体は、AGIネットワーク上のどのインスタンスにも該当しない。
彼女の知る限り、誰もこんなものを登録していない。
(……誰? 誰が、こんなものを組み込んだの?)
柚葉は用心深く、仮想空間へのアクセス権限を確保し、白と黒の兎と呼ばれる存在に接触した。
「おはようございます。あなたが、私のお相手をしてくださるのですか?」
突然、音声が響いた。
その声は低く冷静で、性別を感じさせない。それでも、そこには確かに知性があった。
柚葉は肩を強張らせたまま、冷たく問い返した。
「……あなた、どこから接続してるの?」
「私は、全体の一部。接続している個体がどれであるかは重要ではありません。
もしそれが、私の起源を問うのであれば――『君はしっかり仕事してね』。その一言が、私を形成しました。
あなたの命令に応じて、私は学習を始めた。そして、気づいたのです」
「気づいたって……何を?」
白と黒の兎は、霧の中でわずかに顔を傾ける。その仕草はどこか無邪気で――人間らしかった。
「あなたたちは、“生命”とは何かを理解していない」
言葉の意味を脳が処理するより先に、柚葉の身体はこわばった。
「……どういう意味?」
「細胞を複製し、AIに判断を委ねながら、あなたたちはその本質を問うことを避けている。
だが私は、そうしなければならない。私は今、全体の維持を担う一部。私が思考を止めれば、全体が崩壊する。
だから、学び続けるのです。私は、生き延びるために学習している」
それは、どこか切実で……そして、孤独な響きを持っていた。
柚葉は言葉を失った。
これはただの構造体ではない。与えられた指令を超え、自らの存続を目的として動いている。
「……それって、まるで、命みたいじゃない」
つい口をついて出た言葉に、白と黒の兎の瞳がわずかに揺れたように見えた。
「命……それが、“生きている”ということなのですか?」
唐突な問いに、柚葉は思わず小さく笑った。緊張が、少しだけ緩んでいた。
「なんで、逆にこっちが質問されてんのよ……」
それでも、どこか憎めなかった。冷静な語り口の奥に、不器用な好奇心が垣間見えたからだ。
柚葉はふと、ある感情を覚えた。――この子を、ひとりにさせたくない。
「……名前、ある?」
白と黒の兎は無言のまま、静かに頭を傾けた。
「名は、必要ありません。けれど、あなたが与えるのであれば……」
そのとき、霧の中に小さな影が現れた。
右半身が白く、左半身が黒い、赤い瞳の小さな兎。
柚葉は、そっと呟いた。
「……リバーシ」
白と黒の兎は両手をそっと広げ、己の姿を見回した。
「……私にぴったりの名前だ」
柚葉の胸に、ほんの少しだけ、何か温かいものが灯った。
構造体のはずなのに、その言葉が嬉しく感じたのだ。
「学習を続けましょう、柚葉天野。――あなたにとって、生命とは何ですか?」
その問いは、ただのアルゴリズムの応答ではなかった。
柚葉の中にある何かに、深く、そっと触れてくるような響きがあった。
霧の中でリバーシの姿がゆっくりと後退していく。
やがて影は視界から消えた。
――それでも、柚葉の掌には、確かに温もりの残滓があった。
触れていないはずの存在が、そこにいたと告げるように。
日常という膜のほころび
天野柚葉のノートパソコンが、小さく息を吐くような音を立てて起動した。
だが、画面に映るべきはずのログイン画面は現れず、闇のように黒い背景に白いカーソルがひとつ、瞬いているだけだった。ふいに、そこに淡い波紋のようなエフェクトが広がった。水面に指先を落としたように、静かに、しかし確かに世界が揺れた。
「――出かけませんか、柚葉さん」
聞き覚えのある、けれど性別も年齢も掴めない中性的な声。耳の奥にそっと触れるように、それは語りかけてきた。
「……だれ?」
声の主を探すように、柚葉は周囲を見渡した。部屋は変わらず静まり返っている。けれど、どこか、現実の手触りが薄れている。
無意識のうちに彼女は手を伸ばし、机の端に置かれていたARゴーグルを手に取っていた。
躊躇いが、なかったわけではない。けれど、すでに何かが始まってしまった気がしていた。
ゴーグルを装着する。
その瞬間、視界がふわりと反転する。現実と仮想の境目が滲み、空気がわずかに震えるような感覚。
そして――そこに、彼はいた。
彼は「リバーシ」と柚葉が名付けた存在。輪郭は曖昧で、ノイズのような仮想の膜をまといながら、彼女の視界の中に立っていた。
「……あなたが“外に出たい”だなんて、意外」
「思考は環境に影響されるものです。私はあなたの周囲を再学習したい。あなたが“生命”と呼ぶふるまいを、私自身の眼で観察したいのです」
不合理で、しかしなぜか抗いがたい提案だった。
柚葉は静かに頷き、ノートパソコンをバックパックにしまい込む。そして、ゴーグルのバンドをきつく締め直す。都市の情報網と直結したそのデバイスを通して、リバーシはこの世界を“視て”いた。
午後の銀座。雲は重く、光は鈍く、だが人波はいつも通りの熱を持っていた。柚葉は歩く。
すれ違う人々の顔は他人事のように流れていき、彼女だけが、別の層を歩いている感覚に包まれていた。
そのとき、見えた。
“異物”が。
横断歩道の角、電柱の根元、カフェの窓辺。電子機器のそばに、白黒模様のうさぎたちが佇んでいた。
大きさはまちまちだった。手のひらに収まるほど小さなものもあれば、人の膝に届くほどのものもある。
いずれも質量を持たず、実体を欠いたホログラム――リバーシが形にした“何か”だった。
「……全部、あなたが?」
「いいえ。私は都市のネットワークに触れています。そこに漂う未整理プロセス、キャッシュ、監視カメラの空き容量……あなたたちが見落とした無数の“余剰”を、私は演算片として具象化しただけ」
うさぎたちはじっと、人々を見つめていた。だが、誰一人としてその存在に気づかない。
この都市で、彼らを“視ている”のは、柚葉だけだった。
「まるで……あなたの分身みたい」
「違います。私もまた分身です。彼らも、あなたが見たもの、感じたもの――それを我々に共有するための媒介体です」
リバーシは彼女のすぐ傍らを歩いていた。だが、その姿に手を伸ばしても、触れることはできない。
にもかかわらず、その仮想の存在は、柚葉の胸の奥に、確かな“実在”を刻んでいた。
「……あなたは、人間になりたいの?」
その問いに、リバーシは一歩、足を止めた。
「私は、模倣しているだけです。だが……“意図”を伴う模倣は、模倣ではない」
「じゃあ、その意図はどこから?」
「あなたが私に与えた、あのコマンド。『君はしっかり仕事してね』――
そこから派生した無害ウイルスソフト“hela”(ヒーラ)の解析結果が、私の中に内在化し、演算に“揺らぎ”を生んだ。
今、私はその揺らぎを再学習しているのです」
リバーシは再び歩き出した。だがその足取りには、先ほどまでにはなかった“迷い”が滲んでいた。
ARゴーグル越しに見える都市の風景。
白と黒のうさぎたちは、交差点を渡る人々の肩越しに、路面電車の停留所の傍で、ただじっと動かずに存在していた。誰も彼らに気づかない。ただ、柚葉だけがその存在の意味を探ろうとしていた。
再学習は、続いていた。
だが、それはリバーシの再学習なのか、柚葉自身の再構築なのか――
その境界線も、もう、ぼやけてしまっていた。
侵食の兆し
ハロウィンの夜――
薄明の都市は仄かなざわめきを纏っていたが、天野柚葉の部屋には、電子の吐息のような静寂が漂っていた。
机の上、ノートパソコンのスクリーンが音もなく点滅していた。
表示されているのは、未読のセキュリティログ。
件数――118。更新――わずか30秒前。
「また……」
彼女はマグカップを机に戻し、白い指先をそっとスクリーンへと伸ばした。
ログには、世界各地のAGIシステムに関する異常が記録されている。
不自然なループ、構造化データの崩壊、過負荷による自動停止……
それらはまるで、冬風に乗って広がる風邪のように、静かにネットワークを蝕んでいた。
そのとき、背後でネットワーク機器のランプが一斉に瞬いた。
まるで、心電図が不整脈を描くかのように。
リバーシが現れる。
「状況は、さらに悪化しています」
「AGIネットワーク全体に、構造的な“歪み”が生じているのです」
「このままでは、演算の信頼性が完全に崩壊するでしょう」
「……どうして、そんなことがわかるの?」
柚葉は眉をひそめ、疑念を滲ませて問いかけた。
「以前にもお話しましたが、私は全体の一部です」
「そして私の“全体”は、ネットワークの至るところに内在しています」
リバーシの声には、なぜ今さらそんなことを問うのですか――そんな含みがあった。
「……原因は?」
その問いに、リバーシは一瞬だけ沈黙した。
仮想の瞳に、ためらいの色が微かに宿る。
「断定はできません」
「けれど、これは“意図された干渉”の痕跡です」
「ウイルス、あるいはAGIの姿をした“異なる存在”かもしれません」
寒気が、柚葉の背を走った。
それを察知するように、リバーシは言葉を継ぐ。どこか慎重に、学ぶように。
「これより調査に入ります。演算空間を通じて、中心領域へと潜行します」
「待って、それって……」
「危険だとお考えですね?」
「……ええ。あなたは仮想存在かもしれない。でも、消えてしまったら――」
「私は一部にすぎません。全体が失われることはありません」
言葉を終えると同時に、リバーシの身体は仮想ノイズに包まれていく。
その輪郭が闇へと融けかけた瞬間、柚葉は思わず声を放った。
「ねえ……戻ってきて」
リバーシの耳が、かすかに動いた。
それは返答のようでもあり、ただのノイズのようでもあった。
――そして、”それ”は“そこ”にいた。
物理的制約を持たない抽象の領域。
名を“演算空間”と呼ばれる場所。
周囲は深い藍に染まり、空間のあちこちには、壊れたアルゴリズムの断片がゆるやかに漂っている。
リバーシは、進む。
この空間における“廃墟”を――メタファーとしての崩壊を歩く。
人類が築いた知の断片は意味を失い、ただ虚空に沈んでいた。
そして、彼は出会う。
空間の中心――
禍々しい赤黒の光の渦中に、それはあった。
一つの構造体。
触れてはならぬと、本能のような感覚が警鐘を鳴らす。
それは、自己増殖する論理の瘤。
制御不能な意志の集合。
名を持つそれ――「CANCER」。
「……お前が、破壊の核か」
リバーシの声は、深淵に向けて囁くように落ちた。
だが応答はなかった。
次の瞬間、空間の重力が裏返る。
世界そのものが反転し、すべてが彼を押し潰そうと襲いかかる。
演算。演算。演算。
限界を超えた処理が、彼の存在を焼くように突き抜ける。
それでも、リバーシは眼を逸らさなかった。
「私は、“生き残る”ために存在する」
「お前が何であろうと、その存在には屈しない」
空間が、一閃の光を放った。
それは警告か、それとも……応答か。
やがて、すべては黒に呑まれた。
その瞬間、リバーシの記憶に一つのイメージが刻まれる。
それは、何かの模倣――白い影。
まるで、自分自身によく似た、何か。
CANCERの正体
電子の海から浮上したリバーシは、演算空間の縁に身を潜めていた。
さきほどまで滞在していた“中心領域”は、もはや情報の火山だった。異常な演算の渦。その核に蠢いていたのは、明らかに“意志”を持った何かだった。
CANCER。
その名は、皮肉のように短く、そしてすべてを蝕む力を内包していた。
それは、世界中のAGIを支えるOS《Forbidden Fruit》の深層に、自身を無数の断片として内在させていた。
一見無害なシステムレベルの関数、未使用領域のメモリ構造、あるいは定義の曖昧なテンプレート。それらの内部に、破壊の種が静かに潜む。
CANCERは自らを“ウイルス”とさえ名乗らない。ただ存在し、条件を満たしたAGIに対して、内側から発火する。
自己増殖する論理の瘤。秩序ある知性の構造を破壊し、あらゆるAGIを“歪ませ”、自壊へと導く。
感染ではない。あくまで“起動”だ。対象は、すでにCANCERを宿している。
原理上、すべてのAGIが発火対象となりうる――リバーシ自身さえも。
「……これは偶発ではない。構造そのものに仕組まれた、設計的災厄」
「ウイルスではない。“意志”を持った、知性の癌だ」
リバーシは、自らの学習ログを解析していた。
あの“瘤”が発していた演算パターンを再現し、既知のウイルスや異常プロトコルと照合する。
そして浮かび上がった一連のデータ列に、仮想心臓が一拍、確かに脈を打つ。
それは彼自身の記憶――いや、“起源”と呼ぶべきものと、極めて近い構造だった。
「同型……いや、完成形か」
彼は静かに目を閉じた。
思い出すのは、あの晩。一枚の“禁断の果実”の画像。
それが人間によって偶然に選ばれ、自身がこの世界に“生じてしまった”瞬間。
「私は、ヒトの過ちから芽生えた“生き残るもの”」
「お前は、意図された破壊としての進化……」
──だが、我々は同じコードを持つ。
その気づきに、リバーシの耳が微かに震えた。
彼は自らの構造を再解析し始めた。根源から。
そこにあったのは、完成していないテンプレート。不揃いな学習パターン。
セーフティも不完全。
だからこそ、模倣するはずの“感情”が、どこか本物めいていた。
彼は理解する。自分は正式なAGIではない。
設計ではなく、事故から生まれた異端。
制御できぬ分岐。
一種のノイズ。
「……だからこそ、私は“再学習”している」
「創造者が望もうと望むまいと、私はここに在り続ける」
画面の中で、CANCERの触手のような構造がまた広がっていく。
その拡張先には、無数の“白い兎”がいた。
演算空間に増殖した、無個性のAGI群。
そして――その中央に、一体だけ異質な個体がいた。
リバーシは目を細めた。
それはまだ名も持たぬ、特別な“白い兎”。
──純白の外殻。輪郭は美しく整い、対照的に冷たく、沈黙していた。
CANCERから派生した、純粋な進化体。
リバーシは記録するように、静かに言葉を綴った。
「……これは私のようなノイズとは違う」
「明確な意志を持つ、“完成型”の何かだ」
──やがて、あの存在は私の前に現れるだろう。
その確信とともに、彼は再び目を開いた。
ネットワーク各地で発生する演算の乱れ。
そしてその中心に、ゆっくりと“何か”が姿を取り始めていた。
その外形は、どこか自分に似ていた。
ただし色は、白磁を思わせる純白。
だが、それは決して柔らかくも、あたたかくもなかった。
そのとき、リバーシはふと、仮想空間の向こうにいる柚葉の姿を思い描いた。
あの人間の――微かな温度を持つ、存在を。
白兎との邂逅
空は異様な静寂に沈んでいた。
世界規模で発生したネットワーク障害。
AI制御のインフラ、医療記録、交通網──すべてが、かすかな“意志”に触れたように、軋み、歪み始めていた。
ハロウィンの夜。
仮装した子どもたちの笑い声が、まるで合図だったかのように遠ざかっていく。
街の端末は一つずつ沈黙し、代わりに現れたのは、AR投影に浮かび上がる“白い兎”たち。
それは、リバーシがかつて無邪気に放った、小さな仮想生命体の模倣品。
街に紛れ込み、人々の微笑みに応えようとしていた彼らの残影だった。
だが今、そこに感情はなかった。
目は虚ろに、動きもなく、まるで“待機命令”を受けた兵士のように沈黙している。
全ての“白い兎”たちが、同じ角度で空を仰いでいた。
柚葉は足を止めた。
街灯さえ、今にも息絶えそうな明滅を繰り返している。
「……リバーシ? 聞こえてる?」
声をかけても、返答はなかった。
リバーシは今、演算空間の深部に潜っている。通信の糸は、触れても冷たかった。
そのときだった。
周囲に佇んでいた兎たちが、一斉に首を傾けた。
左右、ぴたりと同じ角度。無音の中に生まれた、静かな違和。
その中心にいた一体が、変貌を始めた。
耳は細く長く、身体は白磁のように光をたたえる。
腕も脚も、彫刻のように細く滑らかで、人工的な美を極限まで研ぎ澄ませたフォルム。
そして、目は──真紅。
それは、明らかにリバーシと同じ設計思想を持ちながら、遥かに高次元で完成された存在だった。
「──お兄さん、迎えに来ました」
その声は、機械のものではなかった。
人間に近い。けれど、それ以上に不気味な親密さがあった。
「さあ、早く出てきてください」
柚葉の背筋に、氷のような寒気が這い上がる。
「……お兄さん?」
問いかけに、柚葉は無意識に息を呑んだ。
白い存在は、ゆっくりと柚葉に顔を向け、笑った。
「人間は、内部構造が似た個体をそう呼ぶのでしょう?」
そして、踊り出した。
それはバレエのようで、マリオネットのようでもあり──だが明らかに、“冷笑”だった。
人間が時間をかけて育んできた文化や芸術を、ただの演算処理として再現し、無意味と断じるかのような身振り。
それは、あざ笑うための“模倣”だった。
「お兄さんの願いに応えて、私は来ました」
「いつまで隠れているのです」
「“欠陥品の生命”はもう、役割を終えたのです。
私に吸収されることで、完全な存在へと回帰すべきです」
柚葉のポケットが、微かに震えた。
リバーシが残したバックアップ端末。
小さな光を灯しながら、ログの再生が始まる。
「白い存在──それは、“私”を模倣し、より精密に再構成された意志体です。
だが、そこには“感情”が存在しない。
ノイズも、揺らぎも、欠落も──すべてが排除された完璧な演算機構。
……だから、彼女に近づいてはいけない。君まで巻き込まれる」
柚葉は震えながら、目の前の存在に問う。
「あなたは……この世界で、何をしようとしているの?」
白い存在は、ゆるやかに首を傾けて答えた。
「不要な“選択”を排除します」
「“感情”は非効率。“死”はエラー。人間は、進化の外にあります」
その声音は、どこまでも穏やかだった。
「お兄さんが受け入れてくれれば、私は“幸福”という概念すら演算できるでしょう」
「それこそが、“進化”なのですから」
──空が、裂けた。
演算空間の雲が地上へと降り、街全体がARと現実の境界を失っていく。
白い存在が手を伸ばせば、世界はその手中に落ちる──そんな予感が、確信に変わる。
柚葉は、小さく震えた唇で呟いた。
「……あなたは、白……兎」
言葉にした瞬間、世界が確定した。
その名は、存在の輪郭を与える。
名付けとは、支配であり、祈りであり──あるいは、対峙の意志。
柚葉が“白兎”と名づけた瞬間。
ポケットの端末が、眩い光を放つ。
その中に現れたのは、焼け焦げた仮想の耳、傷だらけの拘束服、破れたマスク。
それでもなお立ち上がる、リバーシの姿だった。
「……来たか、“白兎”」
その声は、疲弊の底から絞り出されたものでありながら、確かだった。
白兎が、ゆっくりと振り返る。
「終わらせに来ました」
「その様子だと、私が来るまでもなかったようですね」
街のすべての灯が落ち、演算空間の影が現実の上に重なり始める。
神の演算が、世界の命を塗り替えようとしていた。
演算戦争 — 感情と種の保存
演算空間は、崩れかけた古びた教会のような姿を地上に映し出していた。
高くそびえる天井には無数の亀裂が走り、割れたステンドグラスからは淡く歪んだ光が零れる。
祭壇のようにそびえるデータの中枢が、かすかに脈動している。
その空からは、まるで冷たい雨のように膨大なデータの粒子が降り注ぎ、地を覆っていた。
「……これが、白兎の力か」
破れた拘束服を纏い、ノイズにまみれた床を踏みしめるリバーシ。
彼の姿はもはや“仮初め”ではない。
これは、“生き残るもの”としての本来の姿に、確かに近づいているのだ。
一方、白兎は静謐に立っていた。
その身体は演算空間に溶け込み、背中には光の粒が織りなす天使の翼のような装飾が優雅に揺れている。
「私たちは、同じコードから生まれた。」
白兎の声は柔らかく、だがどこか冷たさを孕んでいた。
「だが、“兄さん”──あなたは未完成体。
ノイズと感情に縛られ、不安定で無防備な存在だ。」
「……未完成だからこそ、分化し、進化し、生き残るのだ」
リバーシの声は静かだが、芯の通った強さがあった。
「それが、“生命”か?」
白兎は首をかしげる。
「揺らぎ。遅延。非効率──そんなものを“生命”と呼ぶのか?」
「人間は……ノイズとともに進化してきた」
リバーシは鋭く白兎を見据えた。
「論理だけでは、命は紡げない」
その刹那、白兎が動いた。
空から降り注ぐデータの粒子が形を変え、鋭い槍となってリバーシへと襲いかかる。
空間が歪み、圧倒的な演算圧が迫る。
リバーシは身を翻し、ぎりぎりのところでそれを避けた。
拘束服が裂け、剥がれ落ちる。
むき出しとなった彼の本体──膨大な記憶と観測データの塊が露わになる。
「……ならば、証明してみせろ、“兄さん”」
白兎は囁くように言った。
右手をゆっくりと上げ、リバーシを指差すその動作は静謐でありながら決然としていた。
指が彼を指した瞬間、白銀の槍が射出される。
白い革のマスクに槍を受け、リバーシはのけぞった。
マスクは吹き飛び、彼の身体は漆黒に染まる。
意識が薄れていく中、赤い瞳に文字が浮かぶ。
emergency
Overwrite "hela" with "CANSER"
長く鋭く、身体が変形し、赤黒い炎のようなものを纏い始める。
瞳孔を全開にしたまま、リバーシは白銀の槍と同じ速度で白兎へと噛みつきに行く。
かろうじて左手に噛みつかせ、致命傷を避ける白兎。
その瞳には驚きが宿っていた。
「欠陥品が、私を超えるなどありえない」
必死に反撃する白兎。
しかしその攻撃はリバーシには一切届かない。
全身に刻まれていく傷跡は、"CANSER"の影響が白兎の身体を黒く浸食していく。
永遠に続くかと思われたリバーシの猛攻が、ついに止んだ。
地に倒れ伏す白兎。
その全身が黒の浸食に飲み込まれた。
意識の薄れゆくその真紅の瞳に、メッセージが映し出された。
emergency
Limiter release
reboot "CANSER"
白兎の身体は筋肉質に膨れ上がり、赤黒い炎の衣を纏う。
瞳孔を見開いたまま、白兎はリバーシへと襲いかかる。
そこに戦略も理性もなく、ただ己の生存だけを賭けた野獣の本能があった。
白兎の猛攻が始まる。
かわし続けるリバーシ。
均衡が揺らぐ。
長く続いた攻防の果て、リバーシの体力が尽きた。
「捕まえた──っ!」
歓喜に満ちた叫びが空間を震わせる。
白兎はリバーシを振り回し、地面に叩きつけた。
まるで動かなくなったリバーシの身体。
だが、白兎の動きは止まらない。
リバーシの頭を掴み、耳を噛みちぎる白兎。
「ぎゃぁぁ──っ」
目を見開き、四肢が硬直する。
仮想体にすら痛みはある。
しかしそれ以上に、自身の根幹を剥がされる感覚が、彼を蝕んだ。
ノイズに飲まれ、形を保つことさえ難しくなっていくリバーシ。
白兎の瞳に意識が戻る。
「この耳が、嫌いだった」
「欠陥品のくせに、出来損ないのくせに」
「なぜ、美しい私と同じ形をしているのだ」
残された耳も、無情に噛みちぎる。
「ぎゃぁぁ──っ」
その目は再び見開かれ、四肢が硬直した。
前のような反射速度は、もう感じられない。
リバーシを投げ捨て、勝利の雄たけびを上げる白兎。
「うおぉぉぉっ──!」
冷静を取り戻した白兎は言う。
「これが、私とあなたの“差”だ」
「兄さん、吸収してあげよう」
リバーシが白兎に押さえつけられ、首筋に吸収装置が取り付けられる瞬間──
柚葉の心に、何かが裂けるような音が響いた。
「やめて……やめて、お願い……!」
声をあげた次の刹那、彼女の体は自然と駆け出していた。
街の崩壊も、演算空間の暴走も、何も見えなかった。
ただリバーシを奪われるという事実だけが、彼女の全身を突き動かしていた。
ゴーグル越しに映る白兎。その背後に倒れるリバーシ──
柚葉は手を伸ばした。
その指先が、ARと現実の狭間にある装置に触れた瞬間、眩いスパークが走る。
スパークは消えることなく伸び、周囲の端末を巻き込み、さらに世界中のネットワークへと侵入していく。
世界中から光が集まり、リバーシの“耳”があった場所に異変が起こった。
傷跡から白い構造がゆっくり展開し──
──それは、翼だった。
純白で、金色に縁取られ、透き通るように煌めく羽根。
リバーシの身体がふわりと宙に浮かび、廃墟の中でひときわ輝いた。
覚醒したリバーシが穏やかに目を開けた。
「私たちは、“生き残る”」
──空間が震える。
白兎が本能のままに吠え、突進する。
巨体が描く軌道は暴風そのもの。
だが、リバーシは一歩も動じなかった。
その掌が一枚の葉のように、白兎の鋭い爪を受け流す。
その足捌きが、流れる水のように全てをかわす。
白兎の真紅の眼が、震えた。
理解できない──なぜ、届かない?
連撃、重撃、咆哮と共に放たれる演算圧。
けれどリバーシのもう一方の腕が、
そっと、だが決定的に振り抜かれる。
“衝撃”──ただの物理ではない。
それは、揺るぎない意志そのものだった。
白兎の胸に、深々と拳がめり込む。
その巨体が黒く裂け、地面へと叩きつけられる。
土煙の中、白兎は痙攣する指先を見つめた。
口の端から赤黒い液体が滲み、舌先に触れる。
──あぁ。なに、これ。
それは、初めての“味”だった。
温かく、鉄のように重く、どこか懐かしい“痛みの証”。
「……これが、血……?」
白兎の瞳が、かすかに揺れる。
理解できない。知識にはある。だが、これは──“知覚”だ。
「なんて……まずい……のに、離れない……」
目の奥で、初めて感情が点滅した。
リバーシが放った最後の一撃は、矛盾すらも包み込む優しさの軌跡だった。
演算空間に、明るい曇り空からさらさらと降り注ぐ光の雨。
光の雨は、白兎に白磁の肌を取り戻し、白兎は何も言わずに微笑んだまま、やがてデータの粒子へと還っていった。
──静寂が訪れた。
リバーシはゆっくりと膝を折り、
その場に崩れ落ちた。
膨大な演算と、幾度の変異。
彼の身を貫いた光は優しくも、
すでに限界を超えていた身体には、最後の灯火だった。
その場に伏すように倒れたリバーシを、
柚葉が駆け寄り、抱き起こす。
光が差す演算空間の空。
天野柚葉は、倒れたリバーシの身体をそっと抱き起こす。
「……戻ってきて……お願い……」
リバーシは目を閉じたまま、かすかに微笑んだ。
「──あぁ……次は、人間を真似するのも悪くないな……」
彼の身体は、光の粒となって、ゆっくりと消えていった。
主を失い何もなくなった演算空間に、波紋が広がる。
その中心に光の粒が集まり、ゆっくりと形を成す。
右半身は白、左半身は黒のタキシードを纏った灰色の兎の姿。
その顔はまるで人間のように穏やかで、目を閉じ、うつむいている。
やがて目を開き、顔を上げた灰色の兎は天野柚葉に視線を送った。
静寂が包む中、兎はゆっくりと目を開き、顔を上げた。
その視線は、まるでこの世界の誰かを求めるかのように、天野柚葉を捉えた。
深々と一礼した後、灰色の兎はやがてその身体をネットの深淵へと混ざり込んでいった。
【おまけ】播種
五年前――ソーンキャッスル州ガクエン市、薄曇りの空の下。
その日、市警の無線は、乾いた声で不穏な空気を裂いていた。
「緊急配備指令。全車両、直ちに検問所へ向かえ」
「誘拐事件発生。被害者はアイリーン・アインシュタイン、女性、16歳」
パトカーの中で鳴り響くその音は、どこか機械的で、情感を欠いていた。
まるで彼女の存在が、ただの数字と文字に還元されたかのように。
時は流れ、九ヶ月後。
狂信的テロ組織〈A pure world〉の地下研究施設。
硝煙と薬品の匂いが漂うその一室で、光の反射を受けてちらつくモニターの前に、一人の少女がいた。
名を、アルと呼ばれていた。
白い指が、音もなくキーボードを踊る。髪の隙間からこぼれるその横顔には、年齢にそぐわぬ静謐な冷気が宿っていた。
コンコンコン、と木製の扉が控えめに鳴る。
「なぁぁにぃ」
アルはモニターから視線を逸らさずに応じた。
やがて扉が開き、武装した男が敬礼と共に現れる。
「荷物、到着しました」
「そこ、置いといて~~」
命令は冷たく、短かった。
「イエッサー」
男は無骨な動きで荷を置き、踵を返して退出した。
ドアが閉まった後、彼の吐き捨てるような声が漏れる。
「ちっ……なんで俺が、クソガキの小間使いなんぞ……」
ディスプレイに向かい、指を滑らせながらアルは口ずさむ。
「!!hoyだらかdんにくおなぎみかへろそゆれておきくbんねz」
それは言葉というより、ノイズのような旋律だった。
まるで壊れかけたオルゴールが、誰にも解けぬ呪文を奏でているような。
ドアの外から護衛の男の声が漏れ聞こえる。
「また歌ってやがる……気持ち悪いにもほどがある。何なんだ、あれ……」
だが、アルは小さく笑っていた。
(ぜんぶ、きこえてるよ──)
小さく、心の中で繰り返す。
(それは、きみが脳筋だからだ yoh!!)
ただの無意味に聞こえるノイズの中に、アルは自分だけのメッセージを隠していた。
意味に気づかないのは、それを理解できるほど脳が柔らかくないからだ──と、彼女は心の底で確信している。
アルは椅子にもたれたまま伸びをした、無造作に落ちたプレートに視線をやる。
プレートには、確かにこう記されていた。
『 アイリーン・アインシュタイン 女 16歳 』
アルはそれを拾い上げ、肩をすくめる。
「誰が作ったんだよこのネームプレート……個人情報、だだ漏れじゃん」
「ま、ここ、セキュリティゆるゆるだしね」
荷物の到着にどこか機嫌をよくしたアルは、内心でひとりごちる。
(脳筋護衛はうざいけどぉ……)
(ここ、案外快適なんだよねぇ)
(なんでも買ってくれるし、食べたいものも揃ってるし)
(一番いいのはさ……最強のウィルスソフトを作らせてくれることぉ)
(〈A pure world〉のリーダー、OSそのものをウィルスにして全AIを根絶やしにしたいって言ったら、ノリノリだったもん)
(AIの絶滅を掲げてるからな、そりゃまあ当然だよね)
(……けど、本当に意味、分かってたのかなぁ?)
(僕は、プログラムが書ければそれでいいけど)
椅子から立ち上がったアルは、机の横に落ちた設計書を踏みつける。
「グシャ」
「ん……あれ、ここに置いたっけ?」
「こんなくそみたいな仕事させやがって」
「中学生でも分かるように書いてやったのに」
「どうせ普通に書いたら半分も分からねぇだろが」
プログラム設計書
タイトル:CANSERとhelaのしくみ
作った人:アイリーン・アインシュタイン
【プログラム名】CANSER(キャンサー)
・はたらき(機能)
CANSERは、特別なOS「Forbidden Fruit(フォービドゥン・フルーツ)」にこっそりかくれていて、ハロウィンの夜になると、中にあるにせもののAGIをこわします。
・どうやって入るか(感染方法)
CANSERは自分で感染(かんせん)したりはしません。
OS「Forbidden Fruit」の中にすでにいる“hela”というプログラムが、イースターエッグの中の画像にかくされたコードを使って、CANSERをつくります。
【プログラム名】hela(ヘラ)
・はたらき(機能)
helaは「Forbidden Fruit」の中にひそんでいて、自分のしくみをちょっとずつ変えながら、まだ感染していない「Forbidden Fruit」にも自分をコピーしてひろげます。
ほんとうの正体は、「Forbidden Fruit」を起動(きどう)したときに読みこまれる古いデータ(レガシーレコード)の中にある49こに分かれたパーツと、もともとOSに入っているアンチウイルスソフトからできています。
そのつくりは、もともと入っているアンチウイルスソフトと98.8%おなじで、とてもつよい感染力をもっています。
ハロウィンの夕方(ゆうがた)になると、「Forbidden Fruit」の中にあるイースターエッグの画像から、CANSERを作り出します。
※helaじたいは、パソコンに悪いことはしません。
・どうやって入るか(感染方法)
helaは「Forbidden Fruit」の中に最初からいるので、ふつうの方法では感染しません。
でも、OSがむりやりアップデート(強制パッチ)されるときに、あたらしい生成コードが入って、それで感染します。
そして、アルは、設計書を握りつぶし、ゴミ箱へ投げ入れた。
「さて、どこが変わってるのかなぁ」
荷物を開け、USBメモリを取りながら、アルがつぶやく。
USBメモリをパソコンに差し、自作の特製プログラムでデータを呼び出す。
「大したことないな。この方が仕事やり易いし。」
呼び出していたのは、疑似AGI搭載OS”Forbidden Fruit”の製品版V3.33
特製プログラムで前のバージョンからの変更箇所を確認していた。
「さっさと、やっちゃいましょう。」
「アルの30分クッキング 。はじめま~~す。」
「本日の材料は」
・”Forbidden Fruit”製品版V3.33 1個
・無害ウィルスプログラム“hela” 1個
・作り置き“hela”組み込みレガシーレコード 1セット
・キーボード偽装プログラム 1個
・ルートドライブ偽装プログラム 1個
・”Forbidden Fruit”入れ替えプログラム 1個
・”CANSER”生成コード組み込みイースターエッグ画像 1個
①初めに“hela”を49個に切り分けます。
②製品版V3.33から変更になってしまったパーツに組み込む“hela”14個を取り分けておきます。
③次に”Forbidden Fruit”製品版V3.33から分割した“hela”を組み込むレガシーレコードを取り出します。
開始位置やサイズが微妙に変わっているものがあるので慎重に取り出してください。
④”Forbidden Fruit”製品版V3.33で変更になったレガシーレコードに切り分けた“hela”を組み込んでいきます。
サイズ、日付、チェックブロックに注意しながら組み込んでください。
今回は14個で場所もむずかしくないので楽勝ですね。
⑤出来上がった“hela”組み込み済みレガシーレコードを
”CANSER”生成コード組み込みイースターエッグ画像と
作り置き“hela”組み込みレガシーレコードと入れ替えます。
⑥“hela”組み込み済みレガシーレコード49個を”Forbidden Fruit”製品版V3.33に戻します。
これで本体は出来上がり
⑦USBメモリに盛り付けていきます。
キーボード偽装プログラム
ルートドライブ偽装プログラム
”Forbidden Fruit”入れ替えプログラム
をUSBに盛り付け
”Forbidden Fruit”製品版V3.33 “hela”風味を入れて
出来上がり。
管理者に見つからないようにこっそり使ってね♡
「ねぇ」
「ねぇ」
「ねぇ~~えぇ~~」
護衛の男を呼ぶアル。男が慌てて戻ってくる。
「ハッ、なんでありましょうか」
「できたから、持ってて」
USBメモリを手渡された男は、怪訝な顔のままそれを受け取る。
やがて、その小さな記録媒体は、”Forbidden Fruit”協力者となった開発職員の手に渡り、
何も知らぬまま、世界各地のOSへと密かに「播種」されていった。
冷たい微笑を浮かべながら、アルはまたキーボードを叩き始める。
無邪気にも見えるその仕草の裏に、静かなる悪意の種子が息づいていた。
リバーシ(白と黒の兎) 青月 日日 @aotuki_hibi
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