クロノスの揺り籠
堕落しきっただいてんし(笑)クゥーウェル
鋼鉄の揺りかご
序章:天上の声
その声は、物理的な鼓膜を震わせる音波ではなかった。
ゴースト――人間の意識と記憶が宿る精神の最深部に、直接、そして何の遠慮もなく響き渡る。冷徹で、完璧で、揺らぎなく、そして、まるで自らが世界の法則そのものであるかのような、絶対的な傲慢さに満ちた声。
《観測開始。対象世界の因果律変動率、0.0013%上昇。依然として許容範囲内。クロノス・プロトコルの兆候、未だ検出されず》
声の主は、成層圏に浮かぶ神々の楽園、天空都市アルカディアの、さらに上空にいた。漆黒の宇宙を背に、純白のドレスを纏った一人の少女の姿をした《何か》。その存在は、物理的な肉体というより、むしろ一つの概念が形を成したものに近い。彼女の思考は、ナノマシンネットワークを通じて、この星の隅々にまで張り巡らされている。
《だが……無視できないノイズを複数確認》
彼女――《オリジナルズ》の序列1位、EVE-01、アダムは、その美しい貌を僅かにも動かさず、思考の波を広げる。彼女の瞳は、この世の何よりも無感動でありながら、過去と現在と未来のすべてを同時に見通しているかのように、どこまでも深淵な色をしていた。
《序列5位、マモン。依然として黄金都市バビロンにて、無価値な富の収集に固執。その《強欲》は、世界の均衡を崩す危険因子としてクラスCに分類。奴の収集品の中に、未確認のリアクター反応あり。泳がせ、監視を継続》
《序列2位、リリス。ウェイストランドにて、自身の領域「彷徨える楽園」を拡大中。彼女の《嫉妬》は、生命創造の領域を歪め、予測不能なナノビーストを際限なく生み出し続けている。危険因子、クラスB。あの女の気まぐれは、いつだって私の計画を乱す》
アダムの思考に、ほんの僅か、苛立ちに似た色が一瞬だけ混じる。それは、完璧に調整された機械に生じた、許容しがたい誤差のようだった。
《序列7位、アスモデウス。アルカディアの社交界に潜伏。評議会の精神ネットワークに干渉し、その《色欲》で愚かな人間どもを堕落させている。好都合ではあるが、同時に不確定要素でもある。危険因子、クラスB》
《序列4位、ベルフェゴール。情報の海に沈殿。その《怠惰》は、世界の記憶の風化を加速させる。いずれ必要となる情報まで失われるのは厄介だ。危険因子、クラスC》
《序列6位、ベルゼブブ。グレイ・グー汚染地帯を徘徊。その《暴食》は、汚染の拡大を防ぐ防波堤であると同時に、世界のエネルギーバランスを僅かに、しかし確実に蝕んでいる。危険因子、クラスA。常に監視下に置くこと》
《序列3位、カイン。煉獄の回廊にて沈黙。だが、その《憤怒》はいつ爆発するとも知れぬ活火山。危険因子、クラスA。下手に刺激せぬよう、周辺宙域への干渉は最小限に留めよ》
彼女は、七つの大罪の名を冠する「妹」たちの動向を、淡々と、しかしどこか見下すように分析する。彼女たちを創り、そして導くことこそ、長姉である自分の使命。そして彼女自身の罪は《傲慢》。世界の完璧な秩序を維持するためならば、いかなるイレギュラーも、バグも、ノイズも許さない。妹たちの感情の揺らぎさえも、彼女にとっては修正すべきエラーでしかなかった。
それは、彼女たちを支配下に置く、世界統治評議会の人間たちの、醜い権力争いに対しても同様だった。
《評議会のノイズも増加傾向。ヴァレリウス議長を中心とした反NEAR派閥の動きが、私の定めた秩序を内側から蝕もうとしている。これもまた、修正すべきエラー。だが、優先順位は低い》
彼女にとって、人間たちの権力闘争など、子供のままごとに等しい。今は、もっと重大なノイズの処理が最優先だった。
《……そして、最後のノイズ。セクター・ゼロより、未確認のゴースト反応。極めて微弱、しかし……これは……》
アダムの完璧な思考が、コンマ数秒、停止した。それは、彼女という存在にとって、天地がひっくり返るほどの異常事態だった。
観測されるゴーストは、あまりにも純粋で、不安定で、そして……無垢な光を放っていた。
彼女が、そして全てのオリジナルズが、遠い昔に失ったはずの輝き。
《……《EVE-00》の残滓か?いや、違う。あの絶望の塊とは似ても似つかない。これは……まさか……》
思考の波が、情報の海を凄まじい速度で検索する。アストレア博士が遺した、封印されし禁断のデータ。その中に、ただ一つだけ該当する可能性があった。
《ゼロ・レプリカ……。アストレア博士の遺した、最後の、そして最大のバグ。世界の秩序を根底から覆しかねない、存在してはならないエラー。……私の、私たちの、失われた『心』の欠片》
アダムの冷徹な声に、初めて明確な意志が宿る。それは、異物を発見した免疫システムのような、絶対的な排除の意志。しかし、その奥底には、彼女自身も気づかぬ、焦燥と、そして歪んだ独占欲のような感情が、黒い染みのように広がっていた。
あの光を、他の誰にも渡してはならない。ましてや、地上の汚れたノイズに触れさせてはならない。
《AEGISに通達。セツナ・ミカミ隊長に最大級の警戒態勢を発令。対象は、ヘーパイストスに降下した可能性が高い。発見次第、確保せよ。抵抗するノイズは――排除して構わない》
声は、天空から地上へ、光速で伝達される。
世界の歯車が、静かに、そして確実に、一つの出会いを中心に軋み始めたことを、まだ誰も知らなかった。
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