第11話 号哭

「な──ッ」


 一拍遅れて、アトラが反応する。しかしすでに、どろどろは床を滑りながらまるで狙いすましたかのように、一気に距離を詰めていた。


 黒い腕のようなものが、唸りを上げてアトラに振るわれる。瞬時に彼女はすかさず後方に飛び退き、翻って体勢を立て直した。


「……っ、どういうつもりだ」


 視線は冷ややかに、鋭くルリカへ向けられていた。


「……初めから、お前は演技をしていたな」


 ルリカが目を見開く。首を小さく振りながら、半歩後ずさる。


「ち、ちが……っ! わたし、そんな……!」

「黙れッ!!」


 アトラの声が鋭く空気を裂いた。


「やはりそのステッキで操っていたのか! 意識の外からの攻撃…! 巧妙だが、私には通用しない!」


 そう断定するアトラの顔には、怒りと裏切られた苛立ちが浮かんでいた。


 ルリカは一歩、後ずさった。でも、足が震えて思うように動かない。それでも、握りしめたステッキを落とせずに、彼女は、懸命だった。


「ちがう……ちがうの……!」


 涙は出ないが、ただ、声が潰れて掠れて、言葉にならない。


 彼女は、ステッキを再び握り直し、どろどろへ向けてかざす。ふわふわの波動が揺れる。かすかな光が、今にも泣きそうな少女の手元からふわりと生まれる。


「……ふわ、ふわ……たのむよ……届いて……っ! 消えて…!」


 その言葉に応じるように、ステッキの先端が震える。

 だが。


 “どろどろ”の動きが、それにぴたりと同期した。


 ルリカの手が左へ振れれば、それに合わせてどろどろも滑るように左へ。右へ引けば、まるで紐で繋がれているかのように、その黒い塊が遅滞なく追従する。


 けれど、“ふわふわ”は当たらない。


 どろどろはまるで、ルリカのふわふわを知り尽くしているかのように、波動のわずかな隙間だけを縫って身をかわしていく。


 その様子は、“共犯関係”――そうとしか言いようがなかった。


 希望を込めて放った光が、無力に空へ消えていくそのたびに、ルリカの顔から血の気が引いていった。


「……もういい。言い訳は終わりだ」


 鋭く息を吐き、アトラは剣を構える。

 迷いは一切なかった。

 どろどろではなく、“本体”である少女を叩くべきだと──もはや、彼女のなかでは結論が出ていた。


「その動き。お前がどろどろを操っているのは一目瞭然だ。ならば、まずはお前から斬り伏せる」


 その言葉に、ルリカの顔が蒼白になる。


「えっ……うそ、まって、ちが……っ」


 恐怖に細く開かれた唇から、壊れたような言葉がこぼれ落ちる。

 彼女の足が、ひとりでに崩れかけた。


 アトラが踏み込む。


 重力すら味方につけた鋭い一撃。剣が弧を描き、空気を斬る音が裂帛れっぱくのごとく廊下に響いた。


「っ……!」


 直撃する──かに思われた瞬間、どろどろがすっと滑り出す。まるでルリカを守るように、少女の前に割り込む形で立ちはだかり、親が子を庇うかのような忠実さで、刃を防いだ。

 

「……守った、だと?」


 アトラの声に、いよいよ怒りが滲む。

「貴様が制御している証拠だ。そこまでして、自分を守らせるかッ!」


 違う、ちがうの、とルリカは喉の奥で言うけれど、口に出す力すら、もう残っていなかった。


「もう……やだ……」


 希望は確かにあったのに。

 ステッキは光ったのに。

 ふわふわは、確かに力を返してくれた。

 それでも──結局、何ひとつ、届かなかった。


「わたし……ほんとに……わかんないの……なんで、こうなっちゃうの……っ」


 ルリカの膝が折れる。

 けれど、どろどろは再び滑って動き、彼女を囲むように防御の姿勢を取る。アトラの剣が再び唸る。左からの踏み込み──流れるような逆袈裟。


「なんで……助けて……カエデちゃん……」


 希望から絶望へ転がり落ちていくように。たった数分前、手を繋いで笑っていた時間が、まるで夢だったかのように遠い。


 彼女の目からぽたぽたと涙があふれ出した。


 こぼれた涙は、顔を流れ、あごを伝い、衣装を濡らす。それでも、ルリカは崩れ落ちながら、ステッキを離さなかった。

 彼女には、まだ何もできていない。だけど、だけど、それでも──離せなかった。


 その姿に、どろどろが再び庇うように動く。


 ギャァァン!――と、火花と黒煙が舞う。アトラの剣は深く食い込んだが、刹那の間にどろどろが刃を受け止めた。


 アトラの剣は、どろどろにとって“天敵”だ。攻撃が当たるたびに、黒い塊の一部が焼け焦げ、弾け、明らかに消滅していく。


「今のは深い!」

 アトラの目が閃く。

 確かな手応え。斬り込んだ箇所からは再生の気配すら薄れ始めている。


 だが──


「残りを始末するより、先に本体を断つ方が早い」


 その冷酷な決断が、アトラの身体に狙いを変えさせた。彼女の剣が真っ直ぐに軌道を修正し、少女の首へと一直線に向けられた。


「っ……!」


 ルリカは動けなかった。


 小さな喉がひく、と上下する。息が詰まり、心臓の音が耳の奥で反響する。何が起きているか、理解できるのに、身体が動かない。その場に膝をつき、喉に向かってくる殺意をただ見上げることしかできなかった。


 ステッキを握る手がぴくぴくと痙攣するように動いていたが、そんなのにはもう意味はなかった。


 かつて魔法少女として“ふわふわ”を振りまいていた姿とは、あまりにも違っていた。


 ────それでも、わたしはこの魔法で――世界をやさしくしたいって、やっぱり思うの。


 それが今では──この空気の中で、こんなに浅く息をして、何も守れず、ただ涙を流すことしかできない。


 目の前の刃が、冷たく光る。それが自分に向けられていると、あまりにもはっきりわかる。指先から血の気が引いて、肩が勝手に跳ねる。


 ──こんな終わり、望んでなかった。


 アトラの剣が、突き刺さらんとする軌道で、ルリカの喉元へと走った。


「や……っ」


 か細い拒絶の声が、漏れたその瞬間――――

「やめろッ!!!」

 その声は、雷鳴のように割って響いた。


 瞬間、渡り廊下の奥から黒い閃光が奔った。地を這うように走る雷。ただ空気が爆ぜ、斬るためだけの力が一直線にアトラを襲う。


 アトラが目を見開く。


「ッ──!」


 剣を逆手に構え、反射的に身を翻した。

 だがその瞬間、黒雷は彼女を通り過ぎて――


 廊下ごと、空間を斬った。


 乾いた鈍い衝撃音とともに、廊下が切れた。

 建材が断たれ、支柱が音を立てて傾ぐ。床に走る切断線は鋭利で、まるで巨大なノコギリで真っ二つにされたようだった。


 アトラが足を止め、振り返る。

 その視線の先に──


 コヨリが立っていた。

 長い栗色の髪を靡かせ、彼女は言い放つ。


「この黒雷は、善も悪も関係なく、ただ間違った殺意を斬る!! …っルリカは……っ、ルリカは、そんなことしない……! アトラだって……本気で、殺すつもりなんて、ないでしょ!?」


 コヨリの声は震えていて、アトラの目線と剣先は、わずかにその震え声の主へ向けられていた。


「ちがうの! ちがうんだってば! 我が友は……っ! ルリカは……その、暴走した我を、わたしの気持ちを……っ、あの“ふわふわ”で、優しく包んでくれて……! だから今日も、今日だって……ルリカと一緒に、どろどろを倒そうって、決めてたのに……ッ!」


 コヨリは言葉を早口に畳みかける。いつものような余裕は、どこにもない。自分の放った攻撃が、ほんの一歩ズレていれば、アトラを傷つけていた。

 ルリカがぐらぐらになっているのを見た瞬間、気づいたら魔法が発動してしまったのだ。


「アトラ……お願い……! ルリカを疑うの、やめて……!」


 言葉の端々が、震えている。言葉を吐き出しながら、コヨリの目からは涙があふれていた。それは一滴や二滴ではない。ぽろぽろと、あとからあとから溢れ出す。


 声を出すたびに、喉が詰まりそうになる。

 感情が波のように押し寄せて、言葉を絞り出すたび、胸の奥が軋んで痛む。

 それでも叫びたかった。

 届いてほしかった。ルリカにも、アトラにも、そして――自分自身にも。


 廊下を真っ二つにしてしまった時点で、本当に一線を越えてしまったのではないかという恐怖が、コヨリの心をじわじわと蝕んでいた。



 ――――あのとき──私は渋谷の交差点で、黒雷を初めて放った。あの瞬間は、確かに建物の壁も、街灯も、いくつかの看板すらも吹き飛ばしてしまった。だけど、それはどこか現実味がなかった。初めて魔法を手に入れて、力があふれて、テンションが上がって、夢みたいだったの。


 でも今回は違う。

 目の前にいるのは、知ってる人たちなの。アトラの剣は本当にルリカを斬ろうとしていたし、私の魔法は、本当にアトラを斬りかけていた。


 “本当にやっちゃったかもしれない”という感覚が、ゆっくりと、胸の奥からじわじわ這い上がってくる。


「ごめん……でも……これ以上、見てられない……!ルリカを傷つけないで…!」


 その声を、ルリカは聞いていた。


 床に座り込んだまま、小さな身体をぎゅっと抱きかかえるように丸めていた。うずくまり、顔を伏せ、膝に額をつけたその姿は、ずっと変わらない。


 けれど――その小さな肩は、ずっと震えていた。そしてその涙もまた、コヨリの涙と同じように――もう、止まらなかった。

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