ソングポスト

跡部佐知

ソングポスト

 暗がりの密室で、彼女の頬をデンモクが淡く照らしている。

 盛り上がっていますかあ、とテレビでは見たことのないアイドルかタレントの声がスピーカーから響く。僕はどうしてこの場所にいるのだろうかと、腕時計に目を落とした。薄暗闇のなかで、長針と短針がぼんやりと蛍光色に光っている。時刻はとうに日付を越えていた。今少しでも気を抜けば、彼女と二人きりでいるこの重圧に押し潰されそうだった。

「ね、大丈夫?」

 彼女がそう問いかける。

「平気ですよ」

「ちょっと」

 彼女の履いている黒いスラックスと、合成皮革のシートとが擦れ合う音がした。僕は微睡んでいた。


 大学二年生の前期のこと。

 僕が所属している教育学部では、卒業までに芸術に関する講義を履修しなければならなかった。なかでも、書道は楽に単位を取れるということで有名で、音楽は面倒くさく、美術はまあまあ楽だという噂が学生の間で広まっていた。

 僕は、何となく興味があった音楽を取った。

 四月初めの音楽の授業で、先生は言った。

「みなさん、本日はご出席ありがとうございます。この講義では出席をとりません。成績はテストとレポートでつけさせていただきます。評価の割合は、混声合唱のテスト八割、レポート二割です。

 そして今日、みなさんには二人組のペアを組んでもらいます。誰と組んでも構いませんが、このペアは、混声合唱のテストで一緒に歌うことになりますので、それを踏まえて選んでください」

 ダメ押しするかのように、よろしいでしょうか、と先生が付け加えた。

 男女でパーテーションがあるのかというくらい綺麗に二分されている大教室で、僕は困り果てていた。音楽を履修している受講生のなかに友達はいなく、かといって、適当な同級生に声をかけるわけにもいかない。テストで一緒に歌う相手なのだから、相方の歌が下手だったりしたらたまったもんじゃないし、練習に付き合ってくれるような人柄かどうかも大事だ。ただ、考えている間に、周りは目配せをして雰囲気ができあがっていた。

「それでは、今から十分間のうちにペアを組んでください」

 後ろの席から俯瞰するように教室を眺める。

 まず、前方にいる女の子のグループはそれぞれでペアを作り始めている。同様に、髪色も性格も明るい男の子たちもペアを作っている。問題は、後ろでじっとしている僕のような日陰の生き物たち。

 誰と組もうかと考え込んでいるうちに、控えめだと決めつけていた人たちも、すっかりグループを作り打ち解け始めていた。男の子でペアがまだ決まっていないのは僕一人だった。

 右側の女の子のグループに視線を移すと、もうペアが決まっている様子だった。真ん中の前の方に座っている女の子が一人だけ、まだ残っていた。僕は彼女しかいないと思い、後方の席から重い腰を上げて、濃紺のパーカーのフードを長い髪が覆っている、話しかけたこともない後ろ姿に歩み寄った。

 それが、僕と彼女の出会いだった。

「こんにちは」

 後方から声をかけると、驚いているのか、少し目を丸くした。

「こんにちは」

「もしよかったらペア組んでくれない?」

「いいよ。私、城田(しろた)紬(つむぎ)です。よろしくね」

 丁寧に先に名乗った彼女からは、気品や、余裕めいたものを感じられた。

 慌てて僕も名乗り出した。

「長島(ながしま)智(さとし)です。よろしく」

 僕は荷物を全部持ってきて、彼女の左側から一席空けたところに腰掛けた。

「実はさあ、私四年生で、必修取り忘れちゃっててさ。ちょうどペアに困ってたところなの。だから、智くんが話しかけてきてくれて良かった」

「あ、年上だったんですね」

 急に下の名前で呼ばれたことに驚きつつも平静を装うようにして僕は言った。

「全然ため口でいいからね。それより、連絡先交換しようよ」

 業務連絡のためだとわかっていても、二個上の女性からスマホを差し出されるのは多少どきまぎした。歌が上手いか上手くないかなど気にするまでもなく、僕はひとまずペアにあぶれなかったことに安堵していた。

 十分が経ったころ、教室に先生の声が響く。

「それでは、全員ペアも決まったようなので、こちらに報告をお願いします」

 四十人くらいいる教室から、ペアのうち片方だけがぞろぞろと前に並んでいく。彼女の代わりに僕が報告に行った。

「先生、城田さんと長島でペアを組むことになりました。よろしくお願いします」

 軽い返事をしたあと、先生はパソコンに何かを打ち込んだ。僕は少しの緊張を飲み込む。

 すべての受講生の報告が終わったあと先生が言った。

「こちらが、今回のペアの名簿になります。ファイルを載せましたので、確認するようにお願いします」

 パソコンからファイルを見ると名簿を確認できた。ざっと目を通したところ、男女で組まれたペアはなく、同性同士で組んでいるのがほとんどだった。

「私たちだけかもね」

 パソコンを覗き込むせいで、彼女のことが急に近くに感じられる。

 地毛とも染髪とも判別のつかないチョコレートブラウンの胸元まで伸びた長髪を見ていた。ほのかに甘い、花のような心穏やかな香りがした。

「そうですね。頑張りましょう」

「ため口でいいのに。強制はしないけど」

 いたずらっぽく彼女が笑う。

 そして、課題曲と講義に関する説明が先生からあった。

 まず、課題曲は、ファイルに載っているものから選ぶようにとのことだった。ほとんどの課題曲に見覚えがある。中学校の合唱で歌った曲ばかりが並んでいた。二人で歌う分量に大きな差がないことと、パートを振り分けること、歌うのは一番のみでいいとのことなど、色々な条件が課されていた。

「智くん、歌に自信はある?」

「ないです」

 彼女はことことと、綿毛のように微笑んだ。

「じゃあ練習必須だね」

 講義では、歌の練習はしないらしい。全八回の授業のうち、最後の一回を歌のテストに当てて、他の回では音楽の歴史を扱うようだった。

 発声の仕方や、声楽に関することは取り扱わないそうだ。この講義の前任の先生は声楽を専門にしていたため、引き継ぎの関係で歌のテストだけが残っているらしい。大学に通っていると、講義の形式がぶれていくことは多々ある。

「今日はオリエンテーションなので、これくらいで終わらせます。最後に、履修取り消しは、ペアの方がいるため原則認められません。どうしてもという場合は、直接私にメールしてくださいね。

 選択式の必修講義なので、みなさんが単位をとれるよう応援しています」

 こうして、記念すべき第一回目の講義は終わった。

 この手のタイプの先生は、おそらくどんなに歌が下手であっても、レポートで情状酌量の余地を与えてくれたり、多分、なんらかの要因で単位それ自体は甘く寄越してくれたりすると見た。問題なのは、最高評価をとること。単位取得という最低限度のハードルを悠々に超えさせてはくれるが、甘い単位に限って最高評価をとるのは難しい。

「城田さん、どうします?」

「どうするって何が?あと、下の名前で呼んでいいから」

「練習です」

「ああ、練習ね。ああいう先生に限ってさ、授業外の時間で主体的な勉強を求めてくるんだよね」

 授業外の時間にこそ価値があるみたいな、アクティブラーニング的な価値観を持った先生は少なくない。

「急だけどお腹も空いてるし、智くんがよければ学食行って段取り決めよう」

 そうして、僕たちは学食に向かった。

 僕はお米と肉じゃがに牛乳を注文し、適当な席を見つけて座った。彼女は僕の分まで水を持ってきてくれた。

 お礼を言ってそれを受け取る。彼女のお盆の上には、ほうれん草のお浸しと、お味噌汁とご飯があった。精進料理みたいだと思った。

「練習はやっぱりカラオケがいいと思う」

「そうですね、僕もそんな気がします」

「課題曲は、この曲でいい?」

「僕は何でもいいですよ」

「じゃあ私の好きなやつで決まりね」

 提案された一曲は、僕も好きな曲だった。

 にかっと笑って、彼女は水を飲んだ。

 コップに入った水を飲むとき、コップの角度が尻上がりだった。尻上がりになったコップと同時に上を向きつつ、目をきゅっとつむる癖があるらしい。

「紬さんは、就活とか大丈夫なんですか?」

「平気だよ、と言いたいところだけど、全然大丈夫じゃないです」

 彼女の深刻そうな言葉とは裏腹に、どこかひょうひょうとした、オオサンショウウオのようにゆったりとにこやかな表情を見せた。

「なら練習とかそんなにしなくてもいいんじゃないですか?あの講義、多分適当にやっても単位取れますよ」

「単位取るだけなら簡単だけど、私、一緒に頑張ってくれるペアの人に迷惑かけたくないから。それに、やるからには全力で頑張りたい」

 内心、同じようなことを考えていたから嬉しくなる。

 大学では、見かけだけのグループワークをすることは簡単だけれど、同じ志をもった仲間同士でないと、本当の協調は生まれないということなぞ優に知っていた。

「なら、授業もちゃんと出るんですか?」

「当たり前じゃない。出席の有無にかかわらず、出るのが普通でしょう」

「解釈一致です」

「なにそれ、いい言葉だね。私も使おっかな」

 コップの水をぐいっと飲み干し、僕も釣られて水と牛乳を飲み干した。彼女はやっぱり、上向きに目をきゅっとつむり、チョコレートブラウンの髪がほのかに揺れる。ぱっちりとした目が三日月に近い形になる。ローソクの火が揺らめくように、僕は動揺する。

 それから、とんとん拍子で話は進み、毎週月曜日の放課後は、カラオケで歌の練習をすることが決まった。

「今日の放課後は空いてる?」

「空いてますけど、もしかして」

「そう。早速今日から練習しよう」

「就活は?」

「月曜日は授業もあるから、予定入れてないんだ。それに、月曜日に説明会する会社って実はそんなに多くないから」

「なら、いいのかな」

「いいのいいの」

 学食を出ると彼女が手を振った。

「じゃあ、十九時過ぎに駅の改札前でね。ばいばい」

 控えめに手を振られて、頬が紅くなる。

 まだ春にしては肌寒いせいか、彼女の頬も薄桃色に染まっていたような気がした。

 それから、浮ついた気持ちで授業を受けて、一度帰宅したあと適当に夕食を済ませてから歯を磨いて家を出た。

 まだ四月とはいえ、アウターがないと夜は厳しい寒さがあった。

 約束の時間の十分前、彼女は先に着いていた。

「お疲れさまです。待ってましたか?」

「全然、さっきバイト終わったところで」

 彼女の足取りは軽く、目星はついているようだった。

 てくてくと迷いなく歩いていく。

 ここにする、と立ち止まったカラオケ店は、どこにでもあるチェーンのお店だった。店員に機種や利用時間を聞かれたが、彼女は慣れた様子で受け答えしていた。歌うことは好きだけれど、カラオケに来るのは高校生以来だなんて彼女の横で考えていた。

 彼女は平日夜のフリータイムを利用するらしかった。カラオケオールという、いかにも大学生らしい単語が脳裏をよぎると同時に、今日会ったばかりの人間と、オールするなんてありえないだろうという理性が残っていた。

「カラオケ、好きなんですか?」

「ぼちぼち好きかなあ。智くんは?」

「嫌いじゃないですけど、来るのは高校生以来かな」

「そしたら久しぶりに楽しめるといいな」

「練習するんじゃないんですか?」

「そうだけど、楽しく練習したいから」

 案内された部屋に入る。空調を設定する彼女は、きらきらと楽しそうだった。

「電気は付けないんですね」

 上着をハンガーにかけ終えた僕が言う。

「私は付けない派かな」

 それもまたいいかと思い、僕も彼女に従った。薄暗い部屋に、出会ったばかりの女の子が、しかも二個も年上の女性がいる。同じ空気を吸ったり吐いたりしている。やっぱり、花みたいに甘い、パティスリーみたいなにおいがする。

「私から歌うね」

 デンモクを慣れた手つきで操作する彼女は、いつの間にか濃紺のパーカーを脱いでいた。ハンガーにかけずに、彼女の横のシートにそれを畳んで置いていた。僕は、対角に座っている彼女の指先を見ていた。顔の左側を、チョコレート色の髪が覆って、触角が左右非対称になったとき、するするとそれに指を通したくなった。

 デンモクとモニターが照らす彼女の右耳にかかった後れ毛のその先をぼーっと見ていた。

「どうしたの?」

 髪を耳にかけながら、ちらりと僕を見る。

「何歌えばいいか、わからなくて」

「ああ、迷うよね。まずは好きな曲歌ってから、課題曲を練習しよう」

「わかりました」

 モニターの画面が切り替わり、明朝体のタイトルが浮かぶ。

 アシッド・ジャズの系統のイントロが聴こえ、彼女が立ち上がる。マイクを両手で柔く握っている華奢なさまを見ていた。時間の流れが緩やかで、僕は恍惚としていた。

 儚げな彼女の地声とは打って変わって、しっかりとお腹に力を込めて発せられる芯のある歌声には、たおやかな揺らぎがあった。その歌声を聴くためになら、仮にあの授業を落としたとしてもお釣りがくると思った。

 その歌は、端的に言えばドライブに似合いそうなシティポップ風の曲調をしていて、歌詞の内容は、冴えない男の子が街中の美女を目で追いかけるものの、その恋というか劣情が叶わず、結局冴えないままでいるという、性的に不能な状態を揶揄ったものだ。彼女はこの歌詞の意味を知っていて歌っているのだろうかと僕は訝しんだ。

 彼女の歌声は水のように透き通っていて、ずっと聴いていたいと心から思えた。

 僕はこの曲が好きだった。次に歌う曲は同じバンドの曲にしようと考えつつ、僕は歌声に耳をすませた。

「私、お歌が得意だったんです!」

 彼女は自慢げに言った。お歌という言葉から推し量るに、おそらく、小中の音楽の授業で歌声を褒められた経験があるのだろう。

「たしかに上手でした。僕も紬さんがペアなら安心です」

「えへへ。ねえ、智くんも歌ってみて」

 僕は胸の中の奥の方で、うるさいくらいに血液が走り回っているのを感じながら、デンモクに曲名を打ち込んだ。まだ、彼女が入れた曲のアウトロが終わり切る前だった。

 モニターに表示される楽曲名を見て、彼女がおお、と声を上げる。

 恥ずかしさを覆い隠すように、俯きがちに右手でマイクを握った。

 ドラムがバチを叩き合わせる音と共に、イントロが走る。僕の入れた曲は、彼女が歌った曲と同じアルバムに収録されている一曲。流行に逆行することで、どこか優越感に酔っている人と、流行をネズミのように追いかける人を同時に揶揄って刺した歌詞が特徴だ。ファンの間でも解釈が割れる曲の一つだった。

 お洒落な湾岸のドライブを彷彿とさせるさざ波のようなサウンドが僕は好きだった。

 英語交じりの曲を、曲調に気圧されないよう大胆に歌った。時折、モニターに表示される歌詞から目を彼女の方に向けると、そよそよと揺れているのがわかった。

 かわいいと思った。

「智くんも歌うまいじゃん」

 耳まで紅く熟れているのは、きっと暗がりで気づいていないだろう。

「ありがとうございます」

 緊張していない、と言えば嘘になった。

「私さ、この曲の甘い円盤を探してっていう歌詞、すごく好き。パンケーキのことをよくそういう風に表現できるよね」

「わかる。お洒落なリリック多いですよね、このバンド」

 ファン層は男性が多いから、女性でこのバンドを知っている人に出会えたことに、色恋関係なく高揚していた。

「紬さんって、こういう曲聴くんですね。てっきりアイドル曲なんかが好きなのかと思ってました」

「全然、むしろこういうシティポップとか、ジャズ系のしっとりした曲が好き」

「気が合いそうです」

「私も同じこと思った」

 僕たちは、二人で笑い合っていた。いつの間にか緊張もどこかに消えていた。

「歌えそうだったら、次は課題曲にしない?」

 僕も賛同し、彼女がデンモクを操作する。

 テーブルの上に置かれたマイクを一つ、彼女が僕に差し出した。指先がほんのわずかに触れ合ったとき、指先の冷たさを感じた。

「僕が中学生のときに別のクラスがこの曲を歌ってて、評価は高くなかったんですけど、歌詞が好きで、一番心に残ってます」

「私もこの曲好き。歌詞が刺さるよね。就活生にはエッジ効きすぎだけど」

 自嘲交じりにそういった彼女の瞳が映したわずかな曇りを僕は見逃さなかった。

 僕たちが選んだ課題曲は、アドレセンスの葛藤や悩み、不安を表した曲で、歌詞にはその迷う様子をありのままに表現しながらも、少しずつ、自分の進む道を選んでいく心理が描写されている。

 歌詞に宿った力強さが好きだった。初めて自分で進路を決めなければなかった中学生のころを思い出した。

「まさか大学四年にもなって歌うなんてね」

 何になればいいのかわからない、自分がどうやって進むべきかがわからない。そういった状態でもがいている曲は、たしかに就活生にも当てはまる側面があるのかもしれない。

「私はソプラノか、アルトかな。智くんは男声でいいよね?」

「うん、僕が男声歌います」

 彼女と二人で、初めて歌った曲。それどころか、女の子と二人で歌を歌うだなんて、僕にとっては初めてのことだった。

 男の子の声とは違う、艶っぽくて、でもどこか気怠くて、薄紫みたいな声が脳を揺らす。彼女の足を引っ張らないように、声が上擦らないように歌うことで精いっぱいだった。

「うん、ソプラノで大丈夫そう」

 間奏で彼女が言った。

 彼女は、歌うときにほんの少しだけ揺れる癖があった。マイクの握り方も華奢で、アイドルのようにはつらつとしてはいないが、おしとやかな魅力があった。例えるならそれは、そよ風に揺れる欅のような、そよそよとした雰囲気。

 花みたいにいつかは枯れてしまう若々とした華やかさとは違う、人格や感性から生まれる気品に近い艶やかさ。

 彼女の声と、僕のオクターブの違う声が、ヴィオラとコントラバスの二重奏のように絡み合って、似通った旋律をなぞりあげる。習字の名前を小筆で書くときみたいに慎重な面持ちだった。

 泣きたくなって、曲が終わるころには僕の胸中には何かの結晶がきらきらしていた。

「智くん、大丈夫?」

 歌唱後に座り込んだ僕に、彼女が近寄ってきて、そのまま隣に座った。

 自然と安らいでしまうにおいがする。

「大丈夫です。それより、採点機能とかつけなかったんですか?」

 せっかく歌を練習するというのに、表示されていない採点機能について僕は言及した。

「音楽も歌も、人によって好みが分かれているだけで、数学的な正解はないと思う」

 それに、と彼女が付け加える。

「私たちの合唱なんだから、点数は私たちが決める。それで単位もかっさらう!」

 なんでこの人は誇らしげな表情をしているんだろうと思った。

「とはいえ、音楽の講義だから、歌い方とか、音程、リズム感なんかは大事だと思うけど」

「たしかにそうですね。ほかの合唱も参考にしてみませんか」

 僕たちはそのまま、課題曲を歌っている合唱団の動画を観たり、息抜きに違う曲を歌ったりした。

 ああでもない、こうでもないと二人で言い合っているうちに、すっかり日を跨いでいた。

「今日はそろそろ帰らない?」

 僕がそう提案すると、一緒に会計に向かった。

 彼女の表情に疲れた色は見えず、若干肌寒い夜道を二人で歩いた。僕は送って行こうかと彼女に尋ねたが、駅から近いからという理由で、そのまま別れることになった。

 まだ話し足りない、という言葉が喉元まで出かかったが、ぐっと飲み込んだ。

 それから、僕は月曜日が楽しみになった。彼女の歌を聴くのもそうだが、彼女に僕の歌声を褒められると嬉しかった。シャワーを浴びる時間が長くなった。

 週に一度のたった数時間のためだけに、僕は七日間のすべてを捧げていた。翅を伸ばし始めたカゲロウのように懸命だった。

 二回目の講義に出席した人の割合は、先週と比べてだいぶ減っていた。三分の一程度の学生しか出席していなかった。小学校だったら学級閉鎖になってしまうだろう。

 授業一分前に、スーツ姿の彼女が教室に入り込んできて、僕の隣に座った。

「おはよう」

 彼女は颯爽と筆記用具とノートを取り出した。

 その日の講義は西洋音楽史についてだった。メリハリのない授業に退屈を感じたが、隣に彼女がいるから真面目に取り組んだ。

 授業が終わり、僕は彼女に問いかけた。

「今日はどうしてスーツなんですか?」

「就職課で面接練習があるの」

 面接の練習は午後三時から始まるらしい。リクルートスーツも彼女に似合ってはいたが、チョコレートブラウンの束髪が少し浮いて見えた。地毛なのか染めたのかわからなかった。どちらが誘うでもなく、二人の足先がそのまま学食に向かっていた。

「あと五回もこの授業続くんですよね」

 僕がそうぼやきながら、スプーンを動かしカレーを掬った。

「そう?面白かったじゃん。クラシック音楽のルーツに宗教が関わってるってところとか、他の学問との結びつきがあってさ」

「ああ、そういうことも言ってましたっけ」

「言ってたよ。ちゃんと話聞かなきゃ学費がもったいないよ」

「そう言われると損してる気持ちになりますね」

 冗談交じりに僕が笑う。彼女も微笑んでいる。

「日本だと盆踊りもさ、もとは踏歌っていう、男女の歌の掛け合いが起源なんだって」

「ええ、全然知らなかったです」

「足踏みしながら歌い合ったとか、なんか不思議だよね」

「そういう知識ってどこで覚えるんですか?」

「私四年もここにいるんだよ」

 教育学部は地域との結びつきが強く、人文社会科学系の学問のなかでも、とりわけ人文系に特化したコースもある。彼女はもしかしたら、教員を目指すのではなくて、人文系のコースに所属しているのかもしれない。

「そろそろ行きましょうか」

 次の授業もあった僕は彼女にそう提案した。

「だね」

 彼女はそう言って、目をきゅっとつむりながら水を飲んだ。

 その表情を写真に撮りたいと思ったが、間に合うはずもなく、再び瞬きをしたとき、彼女はもう、ごちそうさまでしたと言っていた。

 二回目の歌の練習も、午後七時から始まった。

 彼女はスーツ姿のままカラオケに来ていた。こう見ると、百七十センチメートルの僕よりも数センチだけ背の低い彼女は、その背の高さも相まって、だいぶ大人びて見えた。

 初めは、二人の声の大きさのバランスや、歌う速さの違い、楽譜通りに歌えていないことなどの課題を見つけ、それを直すように練習していたが、夜が深くなればもう、課題曲はデンモクの履歴のずっと下のほうにあった。

 三回目の授業と、四回目の授業に彼女は来なかった。就職活動の面接準備や、説明会が本格化して、時間が取れないとのメッセージがあった。

 そわそわと出席した五回目の授業にも彼女はいなかった。

 三週間も経つと、どんな声だったのかさえもうろ覚えだった。

 淡い夢から醒めたあとの、充実感を裏付ける出来事だけがすっぽり抜けているような空虚さに似ていた。

 授業が進むにつれて、出席者の数は少なくなっていった。教室の窓の外には葉桜が見えるのに、桜が散っているときを連想した。

 先生は、出席している人に向けて、ときどき面白い話をしてくれた。

 なかでも、三千四百年前の曲が、世界で一番古い曲として記録されているという話はとても興味深かった。

 その世界で一番古い曲は、讃美歌として使われていた曲らしかった。先生は、僕に疑問をくれた。

 もしその曲を古代の材料を基に、古代の製法で作られた楽器で演奏したらどうなるか。

 この時代に楽譜は解読されて演奏することはできるが、果たしてそれは本当に当時と同じ曲なのか。

 その楽曲は人々の暮らしにとってどのような存在だったのか。

 一口に音楽と言っても、切り口は無数にあった。

 正円のホールケーキのどこから最初の一刀を入れようとも、等分することができるように、学問に対しての向き合い方も千差万別なのかもしれないと思った。

 授業で面白かったことを誰かに話したいと思ったときに浮かぶのは、彼女の甘いにおいや、目をつむりながら水を飲む愛くるしい仕草だった。

 彼女と練習ができない間も、僕は密かにカラオケに通っていた。例え高い成績が貰えなくてもいい。彼女と歌えさえすればそれでいい。

 そして何より、彼女にすごいねと言ってもらえれば僕はそれで良かった。いや、そうじゃなきゃ駄目だった。言葉を、彼女の唇から紡がれる言葉を渇望していた。

「今日は第六回ですね。講義を始めたいと思います」

 出席者はもう五人くらいになっていた。

 僕は一回目の授業で彼女が座っていた席に腰掛けていた。

「遅れてすみません」

 入ってきたのはスーツ姿の彼女だった。スーツなのに髪を下ろしていたし、急いでいたのかところどころ毛先が跳ねていた。

 チョコレートブラウンだったはずの髪が、黒く染まっていた。

 僕は大切にしていたレストランが潰れたときのような喪失感を抱いた。

 彼女と目が合った。僕の心臓が高鳴った。会うのは実に四週間ぶりだった。

「久しぶり。元気してた?」

「元気でしたけど、紬さんは?」

「まあ、それなりに」

 誰かと一緒に授業を受けることは滅多にない。もし僕が日記を書いていたならば、今日の嬉しさを書きすぎて、眠る時間が普段より一時間は遅れることだろう。それくらいに嬉しかったのと、ときめきのせいで授業も上の空だった。

 彼女の横顔を見たり、先生の話を聴いたりしていたが、授業中に彼女を一瞥しているのではなく、彼女と一緒に過ごしている時間に授業が展開されているという感覚だった。

 授業が終わり、話しかけてきたのは彼女のほうだった。

「ここ最近、授業すっぽかしててごめん」

「別にいいですよ」

「寂しくなかった?」

 急に爆弾のような発言を投げられて、僕は狼狽える。こういうときにはなんと答えるのが正解なのだろうか。寂しいと言っても気持ち悪いし、寂しくないと言ったらそれは大噓つきになる。かといって、会いたかった、なんて言うのも虫の居所が悪くなる。

 必死に言葉を紡いでいる途中の僕を見て、彼女が言う。

「変なこと言ってごめんね。話したいことあるのは私のほうかもな」

 すっかり彼女のペースに持っていかれた僕は、二人で学食に行った。二回目の授業のあとに学食に行ったときのことが昔のことのようだった。

 彼女はその日、お味噌汁と麻婆豆腐にご飯を頼んでいた。彼女の注文を真似して、普段は飲まないお味噌汁と、麻婆豆腐にご飯大盛りを注文した。

 テーブルに座ったとき、彼女は僕とお盆の上の料理が全く同じことに気づいたらしい。

「私の真似したでしょ」

 彼女はにやにやしている。

「たまたまです。冷めちゃいますよ」

 照れ隠しの嘘が一つ咲いた。

「髪、どうしたんですか」

「やっぱり就活だからね。落ちちゃう原因も髪色のせいかもって思ってさ」

 こういうとき、モテる男の子なら髪色似合ってるとか言うんだろうなあと思った。でも、僕は彼女のあのチョコレートブラウンの縛られない長い髪が好きだった。

「もともと私地毛で、染めたこととかなかったんだけどなあ」

 彼女がため息をつく。

「久しぶりに話したいことはあるんだけど、大学じゃ話しづらいかも。今日ってカラオケ行ける?」

「行けますよ」

 僕は嬉しくなった。

「よし、じゃあまた改札前集合で」

 頬が紅潮した。きっと麻婆豆腐が辛すぎたせいだ。

 食後、彼女と別れたあと、キャンパスを見渡すと、スーツの人がいつもより多いのがわかって、複雑な気持ちになった。

 約束の時間まで残り四時間。僕は授業を受け、テスト期間も近かったから図書館で勉強したあと、彼女のところへ向かうことにした。

 四時間後には、四週間前と同じように彼女の隣で歌を聴いたり、おしゃべりしたりできるのだということを想像できずにどきどきしていた。

 改札でやはりスーツ姿の彼女と落ち合った。初めて会ったときの彼女の服装は、髪型は、肌は、どんな風だっただろうか。

「カラオケ行く前に、コンビニ寄っていい?」

 そう言って、青色のコンビニに吸い込まれるように入り、彼女はお酒やお菓子を買った。僕もコーヒー牛乳とお菓子を買った。

「智くんは真面目だね」

 会計を終えコンビニを出ると、彼女は僕を見て笑った。

「別に普通です」

 これまで、彼女がお酒を買っているところも、飲んでいるところも見たことがなかった。いつも行っていたカラオケはお菓子や飲み物を持ち込んでも良い店舗だった。彼女にお酒を飲むという印象がなかった分、少し面食らったものの、もう二十二歳になる歳なのだから、飲んでいても普通だよな、と思った。

 二人で部屋に入るや否や、彼女は曲を打ち込む前にお酒の缶をぷしゅっと開けた。

「はあ、酔ってないとやっぱり無理だあ」

 ぐびぐびとリキュールを飲んでいる彼女は、いつにも増してふわふわしていた。

 ふっ、と彼女が吐息を一つつく。

「ごめんね。年下の子の前ではお酒飲まないって決めてるんだけど、今日はもうやってけなくて」

「そういう日もありますよね」

 僕はどうすることもできず、彼女を見守ることに徹した。盛り上がっているわけがないのに、モニターから女の子が空気の読めない声掛けをしている。僕はそれに痺れを切らし、適当な曲を入れた。

 お酒を飲んでいた彼女が手を止める。

「歌うの?」

「歌いませんよ」

 初めて彼女とここに来たときに歌ってくれたあの曲のインストが流れている。誰も歌わない白い歌詞が、えんじ色に染まっていく。

 黙々とお酒を飲んでいても、少しだけ肩が揺れている。

 この曲は、伴奏だけでもお洒落なんだと再確認した瞬間だった。

 彼女は二本目のリキュールの缶を開けた。既に酔っているのだろうか、頬が紅かった。

 コーヒー牛乳をストローで吸っている自分が幼子(おさなご)のように思えた。

「話したいことって」

「ああ、うーん」

 彼女は言葉を濁している。

「ほんとは素面のときに話したかったんだけど、大目に見てくれる?」

 僕はうん、と頷いた。呂律が回っていないのか、語尾が軽かった。

「就活がさあ、しんどいな」

 一言を絞ったあと、リキュールに口をつけた。底のほうに残ったお酒を飲むために缶を傾けて、彼女がきゅっと目をつむった。甘い色香、缶を持つしなやかな手首の角度、目ざし、どれをとっても僕は離れられそうにない。

「就活って、ある種のイニシエーションなんだよね」

「イニシエーション?」

「そう。通過儀礼とも言ったりするんだけど、ほら、七五三とか、成人式みたいな。

 今までの自分と決別して、学生という身分から、社会人という身分に切り替わる節目なんだよね。就活って」

 ぷしゅっと音がして、三本目のリキュールが開いた。僕も彼女もやけに冷静だった。モニターから聴こえる声も気にならないくらいに。

 そして、彼女は右手の人差し指、中指、薬指の三本を立てて、指の腹を僕に向けた。

「イニシエーションの構造は大きく三つあって、一つは分離ね。これは、自分がもともと所属している立場から出ることを意味するの。もう一つは過渡(かと)。これは、どっちつかずの状態のこと。そして最後は統合。これは新しいところに所属することを示してる。

 分離、過渡、統合の流れは、まあ、就活生、内々定、社会人の流れで考えるとわかりやすいかな」

 しっぽりと話し終えたあと、左手に持っている缶に口をつける。

 毅然とした態度と饒舌さに引き込まれていた。

「私はさあ、今、分離の段階にいるんだよ。学生みたいな服装とか、子供のころから持っていた遊び心と決別して、パッケージ化された黒いスーツ着て、髪も黒くして、自分を売り込みに行って。その先に労働の権利を勝ち取るとかいう、この世で最も馬鹿げたイニシエーションの渦中にいるの」

 どうしてこんなことを二個下の僕に話すのか理解できなかった。

 僕が何か助言することができるわけでもないのは火を見るよりも明らかだった。

「こんな大人になるって思わなかったなあ」

 お酒の缶が揺れる。

「自分をパッケージ化してまで生きる理由ってどこにあるんだろうね」

 雪の結晶みたいに、触れれば指先でじゅっと解けてしまいそうな彼女にかける言葉を探した。口づけの味も、お酒の味も、何も知らない僕が言えることは多くなかった。

「人生に、意味なんてないんじゃないですか」

「じゃあ私の行動も意味がないってこと?」

「そういうわけじゃなくて」

 僕は若干口ごもる。彼女は怒っているのか、泣き出しそうなのか、それとも酔いが回っているだけなのかわからなかった。

「僕は人生に意味なんてないと思ってます。大学の講義の大半に意味がないのとおんなじです。別に単位を落としても死ぬわけじゃないし」

 彼女の瞳を見つめる。黒い髪とはアンバランスな、焦げ茶色が美麗だった。

「意味のない人生のなかにも、楽しさがあると思います。初めて会った日の夜、二人で一緒に歌ったとき、僕はそれだけで楽しかったです」

「それは、智くんの感想に過ぎないし、大体、人間の感情なんて電気信号なんだよ。心も本当は胸にはなくて、脳が電気で指示してるだけだし」

 目をつむりながら、色っぽくリキュールを飲んでいる。

「たとえそれが電気信号でも、今側にいて楽しいって気持ちは、嘘じゃないと思います。それに、この講義を取って、紬さんに会えたので、一つ一つの行動がこれからの未来にもつながっていると思うんです。

 だから、これまでしてきた挑戦が無駄になることなんてないと思います。さざ波みたいに少しずつ、自分の行動や選択が広がっていくと僕は思います」

 見つめ合ったまま長い時間が過ぎた。一分とも、一瞬とも感じられた。

 そっか、と彼女が言った。

「私、この単位最初は取り忘れたって言ったけど、二年生のときに書道を取っても駄目で、三年生で美術を取っても駄目だっただけなんだ。頼みの綱で、今年は音楽を取ったの。授業で歌うのは恥ずかしいけど、じゃないと卒業できないし」

「でも、真面目なのにどうして」

「うーん、真面目だからって先生が求める基準に合うわけじゃないからかなあ。楽に取れる授業でも、やっぱり相性ってあるんだと思う」

 彼女は目をつむりながら、喉に流し込むようにして三本目をぎゅっと飲み干した。

「でも、単位を落としてなかったら、今こうして、智くんと仲良くなってなかったかも。だから私、もう少しだけ、自分らしく頑張ってみるよ」

 そう言ってぴかりと笑った。

 彼女がデンモクを手に取り、課題曲を入れた。

 僕は練習していた成果を発揮しようと頑張った。

 二回目に練習したときよりも、ずっと上手に歌えるようになっていた。どうやら、会っていない期間も彼女は密かに練習していたようだった。

「智くん、練習してたんだね」

「紬さんの足、引っ張りたくないんで」

「強弱も楽譜通りだったし、音程も合ってたし、ばっちりだね」

「紬さんこそ、就活で忙しいのに練習してたんですよね」

「さて、どうでしょう。私、この曲のさあ、暗中模索な感じから、一気に自分らしく立ち直っていく歌詞が好き」

「僕もです。進むべき道を自分の輝きで照らしていく印象があって、すごく、好きです」

「解釈一致だね」

 二人で帰り道を歩くとき、手はつないでいなかったけれど、心の奥の方で確かな結びつきがあって、それが強固なものになったのを、僕と彼女の、この世界でたった二人だけが知っていた。

 七回目の授業は、テスト前に受ける最後の授業。そのため、普段の何倍もの受講生で教室が膨れ上がっていた。テスト前に有力な情報が流れるというのは、大学の講義の常識だからだ。

 しかし、予想とは裏腹に、授業で先生がテストについて話したのは、評価基準だけだった。そのほかは、人間以外の動物の歌についてずっと話していた。

 例えば、繁殖期の鳥のさえずりは歌と言えるか、あるいは、イルカのエコーはどうなのか。そういった面白いけれど期待外れな授業を受講生にぶつけていた。

 先生もいい性格をしているなあと思った。

 その日、鳥は決まった場所でさえずることがあるというのを習った。その定位置のことをソングポストと呼ぶらしい。僕と彼女のソングポストは、いつもあのカラオケの狭くて薄暗い部屋だった。

 来週の今ごろにはきっと、この広くて明るい教室が二人の、その日限りのソングポストになる。先生が授業中に流したヒバリがソングポストでさえずる映像を見て、この鳥はきっと、歌うために生まれてきたのかもしれないと思いつつ、いや生まれることに意味なんてないんだよなと反芻する。

 でも僕が、あの日彼女と歌うために生まれてきたのかもしれないということについては、否定できなかった。

 彼女も授業を楽しそうに聴いている。先週よりもだいぶいい表情をしていたし、髪色ももとのチョコレートブラウンに戻っていた。

 授業が終わって、隣にいる彼女に髪色のことを聞くと、自分らしく道を進んでいくことを決めたから、地毛に戻したのだと、堂々と言っていた。

 彼女の凛とした眼差しが格好良かった。

 最後の練習もまた、十九時から始まった。

 僕と彼女は、もう息を吸うタイミングまでも一致していて、精巧な飴細工のように融け合った歌声に仕上がっていた。心と心が通い合うと、歌の音色が持つ重みがまるで違っているのがわかる。お互いが歌詞の解釈をすり合わせながら、二人で織った歌ができていた。

 気がつくと、僕は彼女の黒いカーディガンをかけられていた。

「起きた?」

「僕寝ちゃってたのかな」

 テストが近いから寸暇を惜しんで勉強していたことと、歌い疲れたことが覆い被さって、疲労が蓄積していた。

「いっぱい練習したし、今日は休もっか」

 そうですね、と相槌を打ちながら確認した蛍光色の針は、午前一時を過ぎていた。彼女はどうしていたのだろうと気になったが、僕にかけられた上着を見るに、きっと優しく見守っていてくれたのだろう。

「確認したいところとかない?」

「大丈夫です」

 袖が触れ合いそうな距離で僕たちは歩いていた。久々に、彼女の私服を見たような気がした。黒のカーディガンと紺色のハーフジップに、黒のスラックス。スーツ以外に印象がなかったけれど、本当の彼女はこういうシックな服を好むんだっけ。

 駅に着くと、一人になりたくないと思った。

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ。一緒に頑張ろうね!」

 星の綺麗な夜だった。もう薄手の上着もいらないぐらいに、春の夜が暖かかった。

 そうして迎えたテスト本番、僕たちの順番は最後から三番目だった。緊張する僕の耳元で、練習通りやれば大丈夫だよ、と彼女が囁いたせいで鼓動がより早くなった。

 二人で上がった壇上からは、先生の見ている背の高い景色が見えた。

 先生の合図で伴奏が流れ、僕たちは歌い始めた。

 歌っているときに思い浮かべるのは、明るい歌詞とは裏腹に、彼女と過ごした放課後の夜の思い出ばかりだった。

 彼女と出会い、僕がそれに呼応していった時の流れが、歌声の重みとなって教室に響いた。

 彼女の声はやっぱり柔らかくて、僕は隣で歌えて本当に幸せだった。

 歌っている間も、歌い終わった後も、恥じらいは微塵もなかった。

「この二人、結構練習したでしょう」

 先生の反応と受講生の拍手に、彼女が、えへへとはにかんで、初めて会ったときと同じ色の髪が靡いた。

 僕たちは壇上を降りた。

 席に着いて彼女がひっそりと囁く。

「今晩はカラオケに行こうよ」

 返事をする前に、誰かの歌が始まった。

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ソングポスト 跡部佐知 @atobesachi

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