第34話 石碑を遺す場所

 四月の末。風にまだ冬の名残を感じながらも、日差しは確かに春の色を帯びていた。


 木村家の敷地は、雪が解けて湿り気を帯びた土が見えていた。庭先の石碑も、半ば苔むし、陽を浴びて静かに佇んでいる。


 とし江は、その石碑の前で立ち止まっていた。


 道具小屋の鍵を開けに出てきた金子が、遠慮がちに声をかける。


「……おはようございます」


 とし江はゆっくり振り返る。


「ええ、おはよう。あの石碑……あの人が、ずっと手を合わせてたの。なんでもない石だけどね。……なんでもない、わけないか」


 金子は何も言わなかった。ただ、彼女の視線の先を、同じように見つめた。


 そこに、山田と村瀬が足音を立てて現れる。


「今日は話し合いがあると聞きましたが……」


 金子の言葉に、山田が頷く。


「そうだ。ちょっと、確かめたいことがあってな」


 公民館の一室に集まったのは、とし江、修司、金子、山田、佐川、そして神主の藤崎の六人だった。藤崎は、古参の神主で、とし江とは旧知の仲だった。


「お久しぶりです、とし江さん。正男さんのこと、今もよく思い出します」


 とし江は静かに頭を下げる。


「……あの人が大事にしてた石碑ね。動かすのは、少し心が重くて。でも、ここにずっと置いておくわけにもいかないことは、わかってるの」


 藤崎が優しく頷く。


「大丈夫。形だけの移動じゃない。気持ちのうえでも、ちゃんと“移す”。……そういう神事があります。わたしが責任をもって執り行います」


 とし江の視線がゆっくりと修司へ向いた。


「……あんた、ほんとは石碑なんて要らないって思ってるんじゃないの?」


 修司は一瞬言葉を失ったが、やがて小さく首を振った。


「そんなことは……ない。要らないんじゃなくて、何をどう守ればいいのか、わからなかったんだ」


 その答えに、とし江は目を細めるように微笑んだ。


「じゃあ、せめて、石碑を残して。土地は手放しても、あの場所は“家”の一部だったってこと、形にしておきたいの」


 村瀬が、手元の配置図をそっと差し出す。


「石碑の位置だけ分筆して、修司さんの名義で相続できるように手続きを進めます。残りは金子さんが……」


 金子が口を挟んだ。


「……ありがたく、引き継がせていただきます。石碑は、ここを生きてきた証。そこにあることが、林業を始める自分への戒めにもなると思っています」


 山田が、誰にともなく言う。


「モノは残せる。気持ちは……誰かが受け取らなきゃ、風に消える。今日の話で、ちゃんと、受け取ったと思うよ」


 その場に、誰の言葉も必要なくなった。


 春の風が、そっと窓を鳴らした。


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