第10話 お茶と干し柿

 とし江が縁側の座卓に並べてくれたのは、湯呑みに注がれた緑茶と、小皿に盛られた干し柿だった。


「この干し柿はね、あの人が植えた柿の木の実なんですよ。秋になると、ようけ採れてねぇ」


 そう言いながら、とし江は少しだけ目を細めた。その笑みには、過ぎ去った時間への寂しさと、今を穏やかに受け入れる覚悟のようなものが混ざっていた。


 山田は干し柿をひとつ手に取り、静かに噛みしめると、懐かしそうに唇を開いた。


「正男さんは、木一本にも話しかけるような人だった。木を切るときも、必ず一礼してからノコを入れてたよ。ああいうの、今じゃなかなか見られねぇな」


「そうだったねぇ……あの人、山に入ると、しゃべらなくなるんですよ。なのに木や石には、声をかけるんだから」


 くすりと笑うとし江。だがその言葉には、夫のやり方をただ面白がっていたわけではない、どこか誇りのような響きがあった。


 村瀬は、沈黙の中でノートに手を伸ばすことすらできずにいた。交渉の核心――補償の話も、契約も、土地の将来も、何一つ話題に上らない。ただただ、過去の回想と、お茶の湯気だけが場を支配している。


 だが、山田はまったく焦った様子を見せなかった。ただ、相手の呼吸に合わせるように間を取り、ときおり相づちを打つ。


 場が穏やかに流れる一方で、村瀬の内心には焦りが募っていた。


(これで本当に話が進むのか……?)


 帰りの車中、沈黙の時間がしばらく続いたのち、村瀬は思い切って切り出した。


「……今日は、結局なにも交渉らしい話はしませんでしたけど、それでよかったんですか?」


 運転席の山田は、前を見据えたまま、ひと呼吸置いて言った。


「まぁ、今日はお茶を飲みに行ったんだな」


 村瀬は眉をひそめた。


「お茶、ですか?」


「そう。最初から話を聞いてくれる人なんて、そうはいねぇ。まずは、お茶を飲んで、向こうの時間に入れてもらう。そこからだ」


 それきり山田は黙りこみ、ラジオも流れない車内には、タイヤがアスファルトをこすれる音だけが響いた。


(お茶を飲んで、話を聞いて……それが“仕事”になるのか?)


 村瀬の疑問は、まだ言葉にならなかった。ただ、耳の奥に残るのは、縁側の障子越しに見えた、あの石碑の風景だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る