推しが私の心臓になった日

ソコニ

第1話「推しの命が、私の胸で生きている」



白い天井が、ぼんやりと視界に入ってくる。


瞬きをすると、消毒液の匂いが鼻をついた。ここは——病室だ。


「こよみ!」


母の声がして、私は完全に意識を取り戻した。涙でぐしゃぐしゃになった母の顔が、私を見下ろしている。


「よかった……本当によかった……」


母は私の手を握りしめた。その手の温かさが、じんわりと伝わってくる。


私は口を開こうとしたが、喉がカラカラに乾いていて声が出ない。代わりに、胸に手を当てた。


そこには、見慣れない手術痕があった。


ドクン、ドクン。


規則正しい鼓動が、手のひらに伝わってくる。でも、これは——私の心臓じゃない。


「手術は成功したのよ」母が震え声で言った。「新しい心臓が、ちゃんと動いてくれてる」


新しい心臓。


その言葉が、現実として私の中に染み込んでいく。誰かの心臓が、私の胸で鼓動している。誰かの命が、私を生かしている。


「ドナーの方は……?」


やっと絞り出した声は、かすれていた。


母は首を横に振る。「それは教えてもらえないの。規則だから」


そうか。当たり前だ。でも、知りたい。この命をくれた人のことを。


* * *


退院の日は、思ったより早くやってきた。


「無理は絶対にダメよ」


母は何度も同じ言葉を繰り返しながら、私の荷物をまとめている。


病室のテレビから、お昼のニュースが流れていた。私は車椅子に座ったまま、ぼんやりと画面を眺める。


『続いてのニュースです。人気アーティストのヒイラギさんが、今月15日に交通事故で亡くなっていたことが分かりました』


その瞬間。


ドクン!


心臓が、激しく跳ねた。


『ヒイラギさんは22歳。若者を中心に絶大な人気を誇り、今年リリースした楽曲「心臓の歌」は……』


ドクン!ドクン!ドクン!


「こよみ?」


母の声が遠くに聞こえる。私は胸を押さえた。心臓が、まるで何かを訴えているかのように激しく脈打っている。


画面にヒイラギの写真が映し出される。銀色の髪、整った顔立ち、そして——優しそうな瞳。


知ってる。この人を、私は知ってる。


いや、違う。知っているのは私じゃない。この心臓が、知っているんだ。


「ヒイラギ……」


呟いた瞬間、心臓がさらに強く反応した。まるで、その名前を呼ばれて喜んでいるみたいに。


今月15日。それは——私が手術を受けた日だ。


偶然じゃない。これは偶然なんかじゃない。


この心臓は、ヒイラギのものだ。


* * *


家に帰ってから、私はヒイラギについて調べ始めた。


スマホで検索すると、無数の情報が出てくる。楽曲、ライブ映像、インタビュー記事。私は夢中でそれらを読み漁った。


ヒイラギ。本名非公開。3年前に彗星のようにデビューし、瞬く間にトップアーティストへと上り詰めた。その歌声は「天使の声」と評され、楽曲は全て自身で作詞作曲。


でも、プライベートはほとんど明かされていない。ミステリアスな存在として、ファンの間では様々な憶測が飛び交っていた。


動画サイトで、ヒイラギのMVを再生する。


『La la la……』


歌声が流れ出した瞬間、心臓が反応した。でも今度は激しくじゃない。優しく、愛おしそうに、ゆっくりと脈打っている。


画面の中のヒイラギは、少し寂しそうな表情で歌っていた。人気絶頂のアーティスト。でもその瞳の奥には、何か影のようなものが見える。


涙が、頬を伝った。


なぜ泣いているのか分からない。ただ、胸の奥から込み上げてくる感情を止められなかった。


「あなたは、どんな人だったの?」


画面に向かって呟く。


もちろん、答えは返ってこない。でも——


ドクン。


心臓が、小さく跳ねた。


まるで「いつか分かるよ」と言っているみたいに。


* * *


夜、ベッドに横になっても眠れなかった。


胸に手を当てる。規則正しい鼓動が、手のひらに伝わってくる。


ヒイラギの心臓。


まだ信じられない。でも、この反応は嘘をつかない。音楽を聴いた時、名前を呼んだ時、写真を見た時——全て、心臓が教えてくれた。


でも、なぜ?


なぜ私なんかに、ヒイラギの心臓が?


私は、ヒイラギのファンですらなかった。名前は知っていたけど、楽曲をちゃんと聴いたこともない。そんな私に、どうして——


『君に、僕の全てを託すよ』


突然、頭の中に声が響いた。


驚いて体を起こす。部屋には私しかいない。今の声は——


また、胸に手を当てる。心臓は静かに、でも力強く脈打っている。


幻聴だ。きっと薬の副作用か何かだ。


そう自分に言い聞かせて、また横になる。


でも、さっきの声は確かにヒイラギの声だった。動画で聴いたばかりの、あの優しい声。


私は目を閉じた。


明日から、新しい生活が始まる。この心臓と一緒に。ヒイラギの心臓と一緒に。


そう思うと、なぜか安心した。もう一人じゃない。私の中に、誰かがいる。


「おやすみ」


小さく呟くと、心臓が優しく応えるように、トクン、と跳ねた。


これが、私とヒイラギの、最初の会話だった。


でも私はまだ知らない。


この心臓が抱えている秘密も、ヒイラギが最後に残したメッセージも、これから始まる不思議な日々のことも。


ただ一つ確かなのは——


推しが、私の心臓になったということ。


そして、その鼓動が、私を新しい世界へと導いていくということだけだった。

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