第3話

 闇に沈んだ東京の地下通路を、俺――藤堂陸(とうどう・りく)は静かに歩いていた。足元に散らばる瓦礫を踏むたび、じゃり、と小さな音が響く。この音さえ不気味な反響を生み、人気のない迷宮に溶けていく。かつては新宿駅の地下街だった場所も、今や見慣れぬ石造りの壁や天井に侵食され、まるでファンタジーのダンジョンのように変わり果てている。壊れた蛍光灯が天井にぶら下がり、微かな火花を散らしては薄暗い光を放っていた。かろうじて視界は確保できるが、暗闇に怯える心臓の鼓動は抑えられない。


 それでも、俺は脳内の地図を頼りに、一歩ずつ足を進める。《地図化(マッピング)》――それが俺の持つスキルだ。一度訪れた場所なら正確な地図として脳内に記憶され、未知の場所でも周囲数十メートル程度なら現在地と地形を感知できる。不気味な迷宮と化した東京で生き延びるための、唯一にして最強の武器だった。


 東京が迷宮と化して何日経ったのだろう。混乱の日々の中、これまで俺は一人きりで探索を続け、モンスター以外の生存者には出会っていない。人の声どころか、聞こえるのは自分の足音と時折響く遠吠えのような怪物の咆哮だけだ。生き延びるため、地図スキルで危険を察知し、小型のモンスター相手ならなんとか戦って倒してきたが……常に死と隣り合わせの緊張が続いている。右腕には先ほど倒した化け物につけられた切り傷がずきずきと痛んでいた。布切れで応急処置はしたものの、放っておけばじわじわと命を削られるだろう。休みたい気持ちは山々だが、立ち止まるのは恐ろしい。


 ふと、遠くで何かが砕けるような音が聞こえた。はっと足を止め、耳を澄ます。静寂に混じって、かすかに叫び声のようなものが反響してきた気がした。「人の声……?」胸が高鳴る。慌てて脳内の地図に意識を集中させ、周囲の反応を探る。地図には少し先の通路でいくつかの反応が確認できる。複数の動く点……その動きからして、まるで何かが戦っているようだった。モンスター同士の争いかもしれないが、もし人間が絡んでいるなら——。


 危険を避けるなら関わらない方がいい。そう頭では理解していても、足は引き返さなかった。この地獄のような迷宮で、もしかしたら誰か人間が生きているのかもしれない——そう思うと、見捨てることなどできはしなかった。


 俺は地図を頼りに声のした方角へ駆け出した。曲がりくねった通路を全力で走る。次第に耳元で響く血流の音に混じって、金属がぶつかる高い音や獣のうなり声が鮮明に聞こえてきた。「くそっ……間に合ってくれ!」胸の鼓動が早鐘を打つ。


 そして辿り着いた小広いホールで、俺は信じられない光景を目にした。制服姿の少女が一人、鉄パイプのようなものを武器に、小柄な化け物たちと必死に渡り合っていたのだ。薄汚い緑色の肌に凶悪な牙——あれは……ゴブリン? 二体のゴブリンが少女の前で牙を剥き、じりじりと間合いを詰めている。その背後、少女の死角にはさらにもう一体のゴブリンが回り込もうとしていた。


 少女は目前の二体に気を取られ、背後の脅威に気づいていない。このままではまずい!


 俺は迷う間もなく、懐からナイフを引き抜くと一直線に駆け出していた。「後ろだ!」怒鳴りつけながら、背後のゴブリンに飛びかかる。鋭い悲鳴。俺のナイフがゴブリンの肩口に深々と突き立ち、どす黒い血がほとばしった。


 「きゃっ!」少女がこちらを振り返り、驚いたように目を見開く。だが俺は立ち止まらない。肩にナイフを食らったゴブリンが振り向きざまに腕を振るってきたのを紙一重でかわし、さらに渾身の力でナイフをえぐり込む。軋む骨の感触とともに、ゴブリンは痙攣してその場に崩れ落ちた。


 残る二体のゴブリンがギャアギャアと怒りの声を上げ、こちらに襲いかかってくる。一体は俺に、もう一体は少女に向かって牙を剥いて突進してきた。


 「くっ…!」


 目の前に迫る醜悪な面。俺はとっさに腰を落とし、突き出されたゴブリンの短剣を避けた。ヒュン、と耳元で風切り音がする。冷や汗が頬を伝う。それでも怯んではいられない。すれ違いざま、逆手に持ち替えたナイフでゴブリンの脇腹を斬りつける。


 手応えはあったが、深さが足りない。ゴブリンは痛みにさらに怒り狂ったように叫び、爪を振りかざして再び襲いかかってきた。まずい、この距離ではもう避けきれない——そう覚悟した瞬間。


 「はあぁぁっ!」


 裂帛の気合とともに横合いから少女が鉄パイプを振り抜いた。ゴブリンの側頭部にめり込む一撃。鈍い音とともに化け物は吹き飛び、壁に叩きつけられる。ずるずると壁面を滑り落ちるそれは、もはや動かなかった。


 「大丈夫!?」「あ、ああ…助かった」短いやり取りを交わす間にも、最後の一体が少女に跳びかかろうとしていた。俺は少女の横に並ぶと、二人同時に構えを取る。「はぁっ!」「せいっ!」気迫の声が重なり、ナイフと鉄パイプがほぼ同時に振るわれる。寸前で動きを止めたゴブリンに、俺たちの渾身の一撃が叩き込まれた。


 ぐしゃり、と嫌な感触が手に伝わり、ゴブリンの体が地に伏す。肩で荒い息をつきながら互いに目配せすると、やがて静寂が戻ってきた。


 辺りに危険がないか確認し、俺たちは改めて向き合った。少女は肩で息をしながらも、精一杯平静を装っているようだった。


「助かったよ。君が来てくれなかったら、今頃どうなっていたか……本当にありがとう」


 少女が鉄パイプを杖代わりに立ち上がり、俺に深く頭を下げた。その声は強がってはいるものの、わずかに震えている。


「俺のほうこそ。君がとどめを刺してくれなければ危なかった。助けてもらったのは俺の方さ」


 そう返すと、少女はかすかに微笑んだ。薄暗い非常灯の下で見る彼女は、歳は俺と同じか少し下だろうか。制服のリボンがその胸元で千切れかけている。所々に汚れと傷が見え、相当過酷な戦いを潜ってきたことが窺えた。


「あの……」少女が口を開きかけたそのとき、俺は彼女の右腕から一筋の血が滴り落ちるのに気づいた。


「怪我をしてる」


「え……あ、本当だ……」


 見ると、少女の右腕の袖が裂け、中の細い腕に浅い切り傷が走っていた。戦闘中は気づかなかったのだろう。彼女は少し驚いた様子で自分の傷を見つめている。


「動けるうちに手当てしよう。まだ大丈夫だ、このくらい」


 俺は自分の腕に巻いていた布の端を裂き、彼女の腕に巻き付けた。「じきにちゃんと治療しないとな」そう言って軽く結び目を作る。


「ありがとう……助かる」少女——香坂明里(こうさか あかり)は恥ずかしそうに礼を言った。


「藤堂陸、だ。俺は一人で探索していて、偶然君の声を聞いた」


「藤堂さん……私は香坂明里。私も一人きりで、ずっと出口を探してたの」


 明里と名乗った少女——香坂さんは、どこか寂しげに目を伏せた。


「そうか……君も俺が初めて会った人間だ。まさか東京中が迷宮になるなんて、正直今でも信じられないけど……生きてる人に出会えて良かった」


「……うん、私も。誰かに会えたの、藤堂さんが初めて」


 小さく明里が頷く。張り詰めていた緊張が少し解けたのか、その瞳にわずかに涙が浮かんでいるのが見えた。


「香坂さん、一緒に行動しないか? 一人より二人の方が生き残れる確率も上がると思う」


 俺が提案すると、明里はぱちくりと瞬きをした。


「……いいの? 私、足手まといにならないかな」


「さっきので十分わかったよ。香坂さんは強い。だから、その……こちらこそよろしく頼みたい」


 少し照れくさくなってそう付け加えると、明里は吹っ切れたように笑みを浮かべた。


「……うん。こちらこそ、よろしくね!」


 こうして俺は、迷宮化した東京で初めて“仲間”と呼べる存在を得たのだった。


 俺たちはその場に長居せず、早速行動を開始した。地図スキルを活かすため、俺が先導し、香坂さんが背後を警戒する形で進む。互いに声を潜め、足音も抑えて慎重に歩を進めた。


 周囲には相変わらずコンクリートと石材が混じったような異様な通路が続いている。天井の配管や配線も所々剥き出しになって垂れ下がり、SF映画の地下施設のようにも見えた。時折、水滴が落ちる音が響き、二人の緊張を余計に高める。


「出口を探しているって言ってたけど、ここがどのあたりかわかる?」


 前を歩きながら小声で尋ねる。香坂さんはしばらく考え込むように沈黙した。


「たぶん……新宿駅の地下だと思う。あの辺で突然ダンジョン化が起きて……それからずっと出口を目指してさまよっていたから」


「やっぱり新宿か」俺は小さく息を吐いた。先ほど見た地下街の残骸や構造から、ここが新宿駅付近だろうとは予想していたが、本人の口から聞けて確信が持てた。


「藤堂さんは? 迷宮化したとき、どこに——」


「俺も新宿にいた。職場がこの近くで……巻き込まれたんだ」


 そのときの光景が脳裏に蘇る。平凡な日常が終わりを告げた、悪夢の瞬間——


 ビル全体が軋み、床が突然割れ、空が暗転した。悲鳴、轟音、そして……現れた無数の化け物たち。あの混乱の中、俺は必死で逃げ延び……そして気づけば、一人ぼっちになっていた。


 ——家族は、妹は無事だろうか?


 一抹の不安が胸をよぎる。迷宮化の直後から、外部との通信は途絶えている。スマートフォンも電波が入らず、誰とも連絡が取れないままだ。


「……私も、学校で授業中に突然周りの景色が変わって……」


 香坂さんもぽつりと語り始めた。動揺を抑えきれないのか、その声には苦い記憶がにじんでいる。


「教室が……いつの間にか見知らぬ石造りの部屋になっていて、みんなパニックになったわ。モンスターも出てきて……私、運良く逃げられたけど……」


 そこで言葉を詰まらせた明里の表情には、痛みが浮かんでいた。おそらく、その“みんな”の中には逃げられなかった者もいたのだろう。


「辛いことを思い出させて悪かった」


「ううん……藤堂さんこそ、ごめんなさい。職場にいたってことは……一緒にいた人たちが——」


「ああ……何人かは怪我をして動けなくなったり、目の前で……やられた」


 胸が苦しくなるのを必死に堪え、俺は答えた。今は前を向かなくてはならない。足を止めれば襲い来るのは絶望だけだ。


 互いの境遇を簡単に共有した俺たちは、無言のままそれ以上詮索しなかった。今はただ、一歩でも先へ進むことに意識を集中させる。幸い、しばらくはモンスターの気配もなく、荒廃した迷路のような通路が続くだけだった。


 十分ほど進んだだろうか。ふと、周囲の景色に違和感を覚えた。


「あれ……」


 香坂さんも小さく首を傾げている。無理もない。目の前の十字路は、先ほど通った場所と酷似していた。いいや、見覚えがあるどころではない。床に転がる破損した非常灯の残骸——まったく同じものを数分前に見た記憶がある。


「まさか……同じ所を回ってる?」


 俺は念のため地図を確認した。すると脳内のマップ上でも、自分たちがぐるりと円を描くように歩いてきた軌跡が表示されているではないか。


「どうやらこの迷宮、同じところを循環させる仕掛けがあるみたいだ」


「ループしてるってこと?」


「ああ。何も知らずに歩いていたら永久にここから出られないかもしれない」


 香坂さんが青ざめるのがわかった。無理もない、意図的に迷わせる罠——それも広範囲にわたる幻惑の類だ。普通の人間には対処のしようがない。


「でも、なんで藤堂さんには分かったの? 勘がいいとかそういうレベルじゃ……」


「実は——俺、地図を見るスキルを持ってるんだ。周囲の地形が頭の中で把握できる」


 俺は少し逡巡したが、隠す必要もないと思い、正直に打ち明けた。


「地図のスキル……? そんなのが……」


「正直、自分でもまさかこんな力が役に立つなんて思ってなかったよ。でもおかげで罠にも気づけた」


 俺は苦笑すると、腰につけていたチョークを取り出した。地図スキルだけではループを突破する策が思いつかないが、手はある。


 足元の床に白い線で印をつける。そして一度引き返し、再度同じ十字路に差し掛かった。


「……やっぱりな」


 先ほど自分で引いた白線が、行く手の床にくっきりと残っている。間違いない、空間が歪められているんだ。


「どうしよう……このままじゃ出られない……?」


 香坂さんが不安げに周囲を見回す。


「いや、抜け道はあるはずだ」


 俺は地図を凝視した。マップにはこの十字路を中心に複雑に入り組んだ通路が描かれている。しかし、よく目を凝らすと奇妙なことに気が付いた。四方向に伸びる通路のうち、一方向だけ線が途中で途切れている。


「ここ、おかしいな……」


 俺たちが来た方向でも、戻っていった方向でもない残りのひとつの通路。その途中で、地図上の線がぷっつり切れているのだ。


「何か……ありそうですね」


 俺の様子に気付いたのか、香坂さんがかすかに問いかける。


「ああ。地図が途中で途切れてる場所がある。もしかしたら隠し通路か、あるいは擬態した壁があるのかもしれない」


 二人で慎重に問題の通路へ進み、周囲を調べ始める。壁も床も、一見したところ他と違いはなさそうだ。しかし……。


「……空気の流れがある」


 鼻をくすぐる微かな埃と湿気の風。それが壁の一角から漏れている気がした。


「ここか!」


 俺は直感に従い、壁のその部分を強く押した。すると、ゴゴゴ…と低い音とともに、石造りの壁面が奥に沈み、脇にスライドしていった。


「開いた……!」


 香坂さんが息を呑む。


 現れた隠し扉の先には、これまでの通路より自然の洞窟に近い岩肌の抜け道が続いていた。ひんやりと冷たい空気が流れ出てくる。


「藤堂さん、すごい……本当に抜けられたんだ」


「地図のおかげさ。でも喜ぶのはまだ早い。行こう」


 俺たちは気を引き締め直し、隠し通路の中へと足を踏み入れた。


 隠し通路の内部は真の洞窟さながらで、人工的な照明は一切ない。俺は懐中電灯を取り出し、慎重に岩壁を照らしながら先へと進んだ。香坂さんもぴったりと後に続く。


 耳鳴りがしそうなほどの静寂。聞こえるのは自分たちの息遣いと足音だけだ。先ほどまでのコンクリート通路より狭く、天井も低い。二人並んで歩くのがやっとの空間が曲がりくねって続いている。


 どれくらい進んだだろうか。不意に、


「……お兄ちゃん……」


 微かな少女の声が聞こえた気がした。


 足が止まる。今のは……幻聴か?


「どうしました?」


 怪訝そうに香坂さんが問いかけてくる。俺は首を振った。


「いや……今、誰かの声が……聞こえなかったか?」


「声……ですか? いいえ、何も……」


 香坂さんには聞こえていない? そんな馬鹿な、確かに——


「お兄ちゃん……助けて……」


 はっきりと聞こえた。今度は間違いない。妹の舞の声だ!


「舞っ! どこだ!」


 俺は叫んでいた。声のした方へ一目散に駆け出してしまっていた。


「藤堂さん!?」


 背後で香坂さんの驚いた声がする。しかし今の俺には耳に入らない。狭い岩穴をかき分けるように走り、必死で辺りを見回す。


 暗闇の中、ちらつく懐中電灯の光が岩壁を踊る。——どこだ、どこにいる? 舞……! 


 ざわ…ざわ…と、静寂だったはずの周囲に不気味な気配が満ち始めた。背後から迫る足音がある。


「藤堂さん、待って! おかしいよ、誰もいるはずない!」


 腕をぐっと掴まれ、俺はようやく我に返った。


「離せ! 妹が……舞が呼んでるんだ!」


「落ち着いて! それ、幻覚だよ!」


 香坂さんの強い声に、頭を冷やされる。幻覚……? 俺はゼェゼェと荒い息をつきながら辺りを見渡した。


 何もない。ただの岩壁と暗闇。妹の姿も声も、どこにも……。


「嘘だ……確かに聞こえたんだ……」


 愕然と呟く俺の肩を、香坂さんが支えてくれた。


「私たち、多分何かに惑わされてる。しっかりして、藤堂さん」


「香坂さん……俺……」


 状況を飲み込み、俺は激しく動揺していた。舞の声、それが幻だというなら……俺はなんて愚かなんだ。頭では危険と分かっていたのに、幻影を追いかけて飛び出すなんて。


「誰だって、大事な人の声がしたら信じちゃうよ……。藤堂さんの妹さん、きっと無事だよ」


 香坂さんの優しい言葉が胸に染みた。


「……香坂さんは、平気だったのか? 何も……聞こえなかった?」


「私は……聞こえなかった。でも……もしかしたら私にも見えていたかもしれない。きっとこれは、この迷宮の罠だよ」


 香坂さんも唇を噛んで悔しそうに言う。俺は大きく息を吐き出し、頭を振って気持ちを立て直した。


「すまない……助かった。君が止めてくれなかったら、どうなっていたか……」


「お互い様だよ。私も一人だったら、幻に惑わされてたかもしれないし」


 香坂さんが励ますように微笑んだ。その笑顔のおかげで、ようやく心臓の高鳴りが落ち着いてくる。


 俺たちは再び慎重に歩き始めた。気を引き締めねば。地図や武器でどうにかなるものばかりではないのだ、この迷宮は……。


 暗い岩穴を抜けた瞬間、目の前が急に開けた。瓦礫混じりの広間のような空間に出たのだ。かつての新宿駅構内の一部だろうか、高い天井と柱の残骸が見える。その向こうには崩れた階段があり、微かに外の光が差し込んでいた。


「出口が……!」


 明かりを目にした刹那、希望が胸に灯る。だが——次の瞬間、その光が大きな影に覆われた。


 ずしん……ずしん……と、重い足音。鼻をつく獣臭さに息が詰まる。


「な、何……?」


 恐る恐る視線を上げた俺たちの前に、巨大な人影が姿を現した。


 牛の頭に、屈強な巨人の体。両手には大木のような棍棒を構えている。目は血走り、涎を垂らした口元からは鋭い牙が覗く。


「嘘だろ……ミノタウロス、だと……?」


 神話やゲームの中でしか見たことのない怪物が、現実に存在していた。高さは優に三メートルを超えるだろう。こんな化け物、まともに戦って勝てる相手ではない。


「下がれ!」


 俺は香坂さんを庇うように前に出た。ミノタウロスが狂ったように雄叫びを上げる。


『ブモオォォォォ!!』


 次の瞬間、轟音と共に床が揺れた。やつが振り下ろした棍棒が、俺たちが直前まで立っていた床を粉砕したのだ。


「きゃっ……!」


「くっ!」


 間一髪で横に飛んで回避した俺たちだったが、その衝撃で壁際まで吹き飛ばされてしまった。瓦礫がざらざらと崩れ落ちてくる。


 全身に痺れるような痛みが走る。すぐ隣では香坂さんも倒れ込んでいたが、幸い大きな怪我はないようだ。


「香坂さん、行ける?」


「う、うん……」


 彼女は痛みに顔をしかめつつもうなずいた。ミノタウロスは粉塵の中でこちらを探すように鼻を鳴らしている。


「マッピングで見たところ、この広間には柱が三本残ってる。うまく使えばやつの動きを封じられるかも」


 俺は素早く地図から得た情報を口にした。


「私が囮になる。香坂さんは機会を見て攻撃を!」


「駄目よ、危険すぎる! 二人で分散して動いた方が……」


「心配するな、位置は常に把握できてる」


 香坂さんは逡巡したが、俺の決意を悟ったのか小さく頷いた。


 俺は身を低くして瓦礫の陰から迂回し、ミノタウロスの側面へ回り込んだ。片手で瓦礫を掴み、反対側へ投げつける。ガシャーン!


「ブゥゥ?」


 大きな音に反応し、ミノタウロスがそちらへ顔を向けた隙に、俺はさらに距離を詰める。やつの足元には折れた柱の基部が露出していた。


(ここだ——!)


 俺は柱の残骸のすぐ横に身を晒し、全力で腕を振り上げた。「おい、こっちだ化け物!」


 手にしていた拳大のコンクリート片を目一杯投げつけると、それは鈍い音を立ててミノタウロスの側頭部に当たった。


『ブモォォォ!!』


 怒り狂った咆哮。ミノタウロスは巨体を揺らしながらこちらに向き直ると、地響きを立てて突進してきた。


「——今だ!」


 迫り来る巨影をギリギリでかわし、俺はその場を転がる。そして直後に、


ドォンッ!!


 ものすごい衝撃音と共にミノタウロスの体が柱の残骸に激突した。ひび割れていた支柱は根元から砕け散ち、上部のコンクリート塊がごろごろと落下してミノタウロスの肩や背を直撃する。


『ブゥ、ブモォ……!』


 土埃の中、ミノタウロスが苦悶のうめき声を上げた。瓦礫に挟まれ、動きが鈍っている。チャンスだ!


「香坂さん、今だ!」


 俺が叫ぶより早く、瓦礫の向こうから閃光がほとばしった。


「そこっ!!」


 香坂さんの凛とした声が響き、眩い炎の弾丸が一直線に迸る。彼女の掌から放たれた火球は、寸分違わずミノタウロスの胸元に炸裂した。


『ブギャァァァ!』


 絶叫を上げ、のけぞる怪物。その胸部は炎に包まれ、黒煙が上がる。


「はぁぁぁっ!!」


 俺は渾身の気合と共に瓦礫を蹴り、跳躍した。燃え盛るミノタウロスの首元めがけ、ありったけの力でナイフを突き立てる。


 厚い皮膚を貫き、刃先が深く食い込んだ。


『……グゥゥゥ……』


 ミノタウロスは喉から血泡まじりの呻き声を漏らし、その巨体がゆっくりと崩れ落ちる。俺もその勢いで地面に転がり落ちた。


「や、やった……のか……?」


 尻もちをついたまま、呆然と目の前の巨体を見る。びくり、とミノタウロスの手足が痙攣し……やがて完全に静かになった。


 全身汗と埃まみれで立ち尽くす俺に、香坂さんが駆け寄ってきた。


「陸くん! すごい、倒した……!」


「……ああ……」


 そこで我に返り、俺は力が抜けたようにへたりこんだ。


「ふ、二人とも無事……?」


「私は平気。藤堂さんは……?」


「俺も、大丈夫……ああ……危なかった……」


 恐怖と緊張で酷く震えていた。だが、香坂さんの笑顔が視界に入ると、不思議と安堵が湧き上がってきた。


「倒せたんだ……二人で……」


「うん……! 本当に……」


 目尻に涙を浮かべながら、香坂さんもこくりと頷く。極限の恐怖と安堵が混ざった涙だろう。


 しばし放心したあと、俺たちはお互いに傷の具合を確かめ合った。幸い大きな怪我はないが、打ち身や擦り傷だらけだ。それでも、生きている。


「香坂さん……今の、あの火は……?」


 俺はふと、彼女の手に目をやって尋ねた。香坂さんは少しはにかむように視線を逸らす。


「うん……これも、ダンジョン化してから目覚めた力。私は……炎を、出せるみたい」


「そう、だったのか。正直驚いたけど……すごいよ。おかげで助かった」


「……怖かった。最初、自分でも信じられなくて……でも今は、この力があって良かったって思う」


 香坂さんは自分の掌を見つめ、強く握りしめた。


「私、一人で逃げていたときは、この力を使うのが怖かった。けど……今は藤堂さんが隣にいてくれるから……だからきっと私は負けない」


 潤んだ瞳でまっすぐにこちらを見る彼女に、俺は力強く頷いた。


「俺も……もう一人じゃない。君がいてくれるなら、きっと乗り越えられる」


 そう自信を持って言えた。


 互いに励まし合い、俺たちは残された崩れかけの階段へと歩み寄った。上からは淡い外光が差し込み、埃の舞う空気が輝いている。


「行こう」


「うん……!」


 階段を登りきった先で、俺は思わず言葉を失った。


 そこは新宿駅東口の地上広場——だったものの成れの果て。崩壊したビル群の瓦礫が幾重にも積み重なり、見慣れた街並みは影も形もない。代わりに、遠くには巨大な塔のような建造物が天に向かってそびえている。空は淀んだ灰色で、微かな日差しが射すだけだった。


「ここまで、酷いなんて……」香坂さんが息を呑む。


 呆然と立ち尽くす俺たち。その耳に、遠く低い咆哮が木霊した。


 それでも——俺は拳を握りしめる。隣には頼もしい仲間がいる。


「行こう、香坂さん」


「……うん」


 互いに頷き合い、俺たちは荒廃した迷宮の街へと踏み出した。希望と決意を胸に秘めて——。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

迷宮化ニッポンで地図スキル無双 ~誰も踏破できない東京ラビリンスを征く~ @blueholic

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る