迷宮化ニッポンで地図スキル無双 ~誰も踏破できない東京ラビリンスを征く~

@blueholic

第1話

 日常が音を立てて崩れ去る瞬間というものを、俺は生まれて初めて目の当たりにした。


 四月のよく晴れた昼下がりだった。営業先からの帰り道、JR新宿駅の東口を出て雑踏の中に身を置いた俺——藤堂 陸(とうどう りく)は、いつもと変わらぬ東京の風景をぼんやりと眺めていた。青空には白い雲がいくつか浮かび、ビル群の隙間から陽光が差し込んでいる。騒がしい車の往来、人々の笑い声や怒号、スマートフォンから漏れる音楽。道端の植え込みから漂う春の草花の香りが、排気ガスの臭いにほんの僅かに混じって鼻孔をくすぐる。全てが混ざり合い、東京特有の喧騒を形作っていた。


 取引先との打ち合わせを終え、ようやく肩の荷が下りた安堵感からか、俺の足取りは軽かった。スーツのネクタイを緩め、吹き抜ける春風に少し目を細める。頬に当たる風は心地よく、汗ばんだ額を冷ましてくれた。喧騒に包まれながらも、確かに感じる穏やかな日常。その何気ない瞬間が、ひどく愛おしいものに思えた——今夜は久々に早く帰れそうだ。コンビニでビールでも買ってゆっくりしよう……そんなささやかな計画が、この次の瞬間、全てが終わりを告げるとも知らずに。


 それは突然訪れた。まず感じたのは大地の震動だ。グラグラと地面が揺れ、街全体が唸りを上げた。最初は地震かと思った。しかし、それはあまりにも異様な揺れ方だった。上下左右、まるで方向おかまいなしに叩き付けられるような振動が続き、人々は悲鳴を上げてしゃがみ込む。ビルのガラスが激しく震え、遠くで何かが崩れる轟音が響いた。


「嘘だろ……!?」と誰かが叫ぶ声が耳に入る。俺も反射的に近くの街路樹の根元に手をつき、倒れまいと踏ん張った。背後では何台もの車がスリップし、クラクションの怒鳴りが鳴り響いている。視界の端で、人の波が蜘蛛の子を散らすように四方へ逃げていくのが見えた。巨大なスクリーンに映っていたCMがぷつりと途切れ、街の音響システムから不快なノイズが流れ出す。辺りの電光掲示板や信号機が一斉に明滅し、東京の街が悲鳴を上げているかのようだった。


 だが、本当の恐怖はその先にあった。突如、耳をつんざくような破裂音が響き渡る。咄嗟に頭を抱えしゃがみ込んだ俺の背に、ガラスの破片がぱらぱらと降り注いできた。顔を上げると、新宿駅東口駅前広場にそびえていた大型ビジョン付きのビルの一部が崩れ落ちたのが見えた。コンクリートの塊が轟音と共に地面に叩きつけられ、逃げ遅れた数名を直撃する。


 頭の中が真っ白になった。ついさっきまで笑い合っていた人々が、瓦礫の下敷きになっていく。「助けなきゃ……!」そう思って立ち上がろうとした瞬間、さらに強烈な揺れが襲い、足元がぐにゃりと波打った。バランスを崩した俺は、道路に転倒してしまう。掌にアスファルトのざらついた感触と、生温かい液体が広がった。何かが手に粘り付いている——赤黒い液体。血だ。目の前にはスーツ姿の男性が倒れていた。俺より少し年上くらいだろうか。見開かれた目は焦点を失い、その胸部には鉄筋のような棒が貫通していた。


「う、嘘だ……」


 現実感がまるでなかった。こんなことが起きるはずがない。足をばたつかせながら必死に後退る。尻もちをついた拍子にポケットからスマートフォンが滑り落ち、カラカラと音を立てて転がった。震える指先で手探りしながらそれを拾い上げ、画面を点ける。しかし圏外の表示が出るだけで、通信は完全に途絶えていた。インターネットはおろか、緊急地震速報すら何も受信できない。絶望的な現実が胸を締め付ける。


 轟音、悲鳴、砂ぼこりの臭い——五感に押し寄せる地獄絵図の中で、俺は呆然と座り込んでいた。耳鳴りがして、自分の呼吸音ばかりがやけに大きく感じられる。逃げなきゃ、このままじゃ俺も死ぬ……! 頭ではわかっていても、身体が言うことを聞かなかった。腰が抜けて立ち上がれないのだ。


 どれほどの時間が経っただろう。実際には数十秒か、せいぜい一、二分だったのかもしれない。しかし、混乱に支配された俺の意識には永遠にも思える時間だった。やがて揺れが収まったのか、周囲の轟音が一瞬だけ途切れる。静寂——いや、完全な静寂ではない。遠くからはまだ破壊音や人々の悲鳴が聞こえていた。しかし、一帯を包んでいた地鳴りのような振動が止んだことで、世界が不気味な静けさを取り戻していた。


 俺は恐る恐る顔を上げた。そして、息が止まった。


 目の前の光景が、明らかにおかしい。新宿駅前の広場だったはずの場所に、見慣れない巨大な壁がそびえ立っていたのだ。つい数分前までガラス張りのビルが建ち並び、多くの人々が行き交っていたはずの光景が一変している。灰色の石造りの壁。レンガのようにも見えるが、それよりも粗く黒ずんだ巨石が幾重にも積み上げられている。高さは優に数十メートルはあるだろうか。上の方は闇に溶け込んで見えない。そう——空が、消えていた。


 いつの間にか空一面が暗闇に覆われている。昼間だというのに太陽の光は失われ、腕時計の針はまだ正午過ぎを指しているというのに、辺りはまるで真夜中だ。代わりに薄暗い赤色の光源が壁面に埋め込まれてぼんやりと周囲を照らしていた。まるで非常灯のようなその赤い輝きが、不気味に明滅している。鼻を突く血の臭いと土埃の臭い。口の中にもじゃりじゃりとした砂の味が広がっていた。喉は砂を噛んだようにいがらっぽく、息をするだけで肺が焼けるように痛む。


 立ち上がらなければ——そう思うのに、膝が震えて力が入らない。必死に地面に手をついて立ち上がろうとする。その時、不意に背後から声をかけられた。


「藤堂君!? 無事か!」


 振り向くと、社の先輩である相馬(そうま)さんがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。土埃まみれのスーツ姿は俺と同様だが、幸い外傷はないようだ。同じビルでの打ち合わせから一緒に戻ってきた先輩だ。相馬さんも奇跡的に無事だったのか——そう思った瞬間、安堵からか胸に熱いものがこみ上げた。


「相馬さん……! 良かった、生きて……」俺は掠れた声でそう言った。喉がカラカラに渇いている。


「お前も無事で何よりだ。くそっ、一体何が……」相馬さんも状況が理解できず混乱している様子だった。周囲を見回し、ただ呆然と立ち尽くしている。俺も答えようがない。ただ首を横に振ることしかできなかった。


「とにかくここを離れよう。いつまた何か起きるかわからん」相馬さんが強張った声でそう言い、俺の腕を掴んだ。

 確かに、この場に留まるのは危険だ。俺は縋るように頷いた。だが、どこへ? 周囲を見回しても、見慣れた街並みは姿を消し、出口らしい出口も見当たらない。

「くそ……道が塞がれてる。駅の方に戻れないか?」相馬さんは崩れた瓦礫の山を睨みつけた。

 新宿駅の入口は瓦礫に埋もれて影も形もない。とても人が通れる状況ではなかった。


 その時だった。嫌な音が耳に届く。ミシミシ……と何かが軋むような、コンクリートがひび割れるような音。ハッとして顔を上げると、目に飛び込んできたのは先ほど崩落したビルの残骸——ではなかった。壁だ。あの巨大な石造りの壁面に、さらに亀裂が走っているではないか。まるで生き物のように、不規則に震えながら亀裂が広がっていく。そして—


「危ないっ! 逃げろ!!」


 自分でも驚くほど張り裂けた悲鳴のような声が喉から絞り出された。次の瞬間、壁の一部が爆発するかのように吹き飛び、無数の岩塊となって周囲に降り注ぐ。俺はとっさに相馬さんの腕を引っ張り、瓦礫から逃れようと走り出した。


 しかし逃げきれない。視界の端に映ったのは、こちらに倒れ込んでくるビルの残骸か、それとも新たに現れた壁の破片か——いずれにせよ、避ける術はなかった。ドサリ、と重い衝撃が背中を襲い、俺と相馬さんは舗道へと叩きつけられた。


 頭が割れそうに痛い。額から生暖かい液体が伝い落ちてくる。どうやらどこかを切ったらしいが、痛みでそれどころではない。視界が滲み、何が起こっているのかわからない。ただ強烈な痛みと耳鳴りで意識が朦朧とする中、仰向けになった俺の目に飛び込んできたのは、見たこともない異様な光景だった。


 高層ビルの林立するはずの新宿の街並みが消えている。代わりに視界に広がっていたのは、無数の石柱や壁が入り組む迷路のような景色——いや、それはもはや迷路そのものだ。崩れたビルの残骸が至る所に散乱し、車や街路樹がねじ曲がった金属片となって地表に突き刺さっている。その全てを覆うように、天井が存在していた。信じがたいことに、東京の空が完全に失われているのだ。上空を見上げても、そこにはコンクリートや岩が混ざり合ったような不気味な天井構造が広がっているばかりだった。所々に空いた穴から赤黒い光が差し込み、まるで地獄の底にいるかのような赤暗い薄明かりが漂っている。所々、壁面や天井からはビルのコンクリート片や鉄骨が無造作に突き出しており、かつての街と異質な迷宮空間とが溶け合ったようにも見えた。


 ——東京が、迷宮になっている?


 理解が追いつかない。胸の鼓動が早鐘のように高鳴り、呼吸がまた浅くなる。恐怖と混乱で気が狂いそうだった。


 隣を見ると、倒れ伏した相馬さんがいた。彼も先ほどの落下物に巻き込まれたのか、ピクリとも動かない。嫌な予感がして、這うように近づく。


「相馬さん…? 嘘だろ…起きてくださいよ…!」


 震える手で先輩の肩に触れ、仰向けにする。その頭部からどっと鮮血が流れ出た。頭蓋が陥没している。喉が凍りついた。慌てて首元に指を当てるが、脈は感じられなかった。


「嘘だ…嘘だろ、相馬さん…!」


 必死に呼びかけるも、返事はない。尊敬していた先輩の揺るがぬ笑顔が脳裏に浮かぶ。入社してからというもの、公私にわたり面倒を見てくれた先輩だ。仕事で大きなミスをした俺を励ましに飲みに連れて行ってくれたこともあった。厳しく叱られることもあったが、その度に最後は穏やかな笑顔で背中を押してくれた、そんな頼れる人だった。つい先ほどまで共にいた人が、こんなにも呆気なく消えてしまうなんて——。


 視界が滲んだ。熱い涙が頬を伝い落ちる。全身が震え、嗚咽が漏れた。無力だった。何もできないまま、俺はまた大切な人を失ってしまったのか。


 いや、待て——大切な人? 頭が混乱している。悲しみと恐怖で思考がうまくまとまらない。それでも何か重大なことを忘れている気がして、必死に考えようとする。そうだ…家族は? 友人は? 今この瞬間、東京中で何が起きている? 皆無事なのか? 連絡しようにも、先ほど確認したスマホは圏外だった。助けを求めたくても、繋がらないのだ。誰も状況がわからない。俺一人でここにいていいのか? 逃げなきゃ…だけど、どこへ? ここはどこなんだ——?


 次々と浮かぶ疑問に頭が追いつかず、立ち尽くすしかなかった。膝を抱え、その場にうずくまる。耳を塞いで、現実から逃げ出したかった。けれど、閉じた瞼の裏にも焼き付いて消えない光景がある。暗い迷宮の中、散乱する瓦礫と血の海。そして自分の手には、先輩の血がこびり付いていた。


 喉の奥から酸っぱいものが込み上げ、俺は耐えきれずその場で嘔吐した。空っぽの胃から苦い液体が溢れ、震える手で地面を抑える。鼻孔には自分の吐瀉物の臭いと、充満する血臭が混じり合って最悪の刺激となった。


 泣き叫びたい気持ちだった。誰か助けてくれ——そう叫びたかった。しかし声にならなかった。喉が引きつり、ただ掠れた息が漏れるだけだ。こんなの、あんまりじゃないか。なんで俺が、東京が、こんな目に——。


 その時、不意に静寂が訪れた。いや、既に周囲は充分静まり返っていたのだが、自分の嗚咽や心臓の鼓動すら聞こえなくなったかのように感じたのだ。


 ——カサ…カサ…。


 何かの物音がする。遠く、暗闇の向こうから微かに……これは、足音? ぞわりと全身の産毛が逆立つ。人のものではない。もっと硬質で乾いた、虫か爬虫類の這うような音。カサ、カサ、と複数聞こえる気がする。


 嫌な予感がした。目の前の現実が既に常軌を逸している以上、何が起こっても不思議ではない。だが、あれだけの惨状を引き起こしたのは地震ではなく、これだけの異変が生じているのだ。もしや……もしや、この異様な迷宮の中には——。


 思考がこれ以上先へ進むのを、本能が拒絶した。怖い。確証はない。だが、あの音の主を確認してしまえば、きっと俺はもう正気ではいられない——そんな気がしてならなかった。


 カサ…カサ…。


 それは徐々に近づいてきているようだった。暗闇の中、何かがこちらに向かっている。見てはいけない、だが逃げなければ……!

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