天災錬金術師の工房日誌
亜槌あるけ
第一章
巣立ち
「ほっ、本当に、本当にごめんなさいっ、マリアン先生……!」
「もう、そんなに謝らなくていいのよ、ルーカちゃん」
涙目のわたしに、マリアン先生は紅茶を淹れながら優しくそう言ってくれる。
マリアン先生は聖母のような方だ。こんなわたしを笑って許してくれるだなんて。だからこそ、わたしは余計に申し訳ない気持ちになってくる。
「泣かないでルーカちゃん。あなたのおかげでみんな助かったんじゃない、誇るべきよ」
「で、でも……」
「花や木は、また植えればいいんだから。ね?」
先生の笑顔が胸に突き刺さるように痛い。あんなに大事に育てていた花壇の植物たちを台無しにしたわたしに対して、一切怒らないどころかこんなにも優しくしてくれるなんて。
「うぅ……先生、わたし、本当にこれから大丈夫なんでしょうか?」
「あなたはこの学園の厳しいカリキュラムを修了した一人なんですもの、大丈夫に決まってるわ。……多分、きっと、おそらく」
「な、なんと歯切れの悪い……」
「あっ、ご、ごめんなさいね。違うのよ、学園長だっていつもおっしゃってたでしょ、物事に絶対はないって。だけどあなたならきっと大丈夫だって、私は思ってるわ。……ええ、多分」
先生は必死にわたしを元気づけようとしてくれているが、その口ぶりから本音は隠せていない。
だが、先生がはっきりと自信をもって「大丈夫だ」と言えないわけは、自分自身が一番よく分かっている。
成績はいつも下から数えた方が早いし、実験や実習では幾度となく失敗を繰り返してばかりで。
人呼んで“ヴェントレジア魔導学園・錬金科の天災”。それこそがわたしなのだから。
早い話が、落ちこぼれ。正直、自分でもどうして卒業試験に合格できたのか分からない。
そう、わたしはどういうわけか、決して簡単ではないはずのヴェントレジア魔導学園の卒業試験に合格し、この春卒業する運びとなってしまったのだ。
そして、晴れて社会人の仲間入りをすることとなったわたしは当然、これから社会に出て、一人の大人として働くこととなる……のだけれど。
本当に、わたしに錬金術師としての仕事が務まるのだろうか。
前々から不安でしかなかったが、今日の出来事で一気に自信がなくなった。元から無かった自信がさらに減って、マイナスだ。
談話室の窓の外を見れば、ついさっきわたしがめちゃくちゃにしてしまった先生の花壇と折れた木々が。ああ、何と痛ましいことだろう。
事の顛末は、今から数十分前に遡る。
卒業試験も卒業式も終わり、今は自由登校期間。
この時期になると当然、わざわざ出席する人はほぼいない。だが、わたしは担任のマリアン先生に卒業後のことを相談したいがために、今朝も元気に学生寮から登校していたのだった。
だが始業のチャイムが鳴り、しばらく待っても、先生は一向に教室にやってこない。
と言っても授業は行われないわけだし、自由登校日に出席する人がすることなんて大抵は自習ぐらいなものだ。先生もそれを見越して、急ぎの用を済ませてから来るのかもしれない。今の期間、そういうことはよくある。
先生が来るまで、わたしもみんなと同じように自習をしていようと思い立ち、教科書を開いた。
まさに、ちょうどその時だった。窓の外から、甲高い叫び声が聞こえてきたのは。
何事か、と思って反射的に窓の外を見、そしてわたしは思わず息を呑む。
一体の巨大な土人形が、校庭にいる生徒たちに襲い掛かっていたのだ。
拳を振り下ろそうとする土の巨人から、鉢の子を散らしたように逃げ回っている生徒の数は十数名ほど。
そして、騒ぎから取り残されるように、錬金術に使う器具や素材の置かれたテーブルがぽつんと校庭の片隅にあった。その光景を見れば、大方事情は察しがつく。
ゴーレムの錬成実習に失敗し、誕生してしまった暴走ゴーレム。それが生徒たちを見境なく追いかけまわし、排除しようとしているのだろう。
本来ゴーレムというのは、作成者が敵とみなす相手以外を襲うことはない。
けれど入れた素材が悪かったのか、錬成の仕方を間違えてしまったのか、とにかく何らかのミスがあったのだろう。あのゴーレムは、目につく存在全てを敵とみなしてしまっているようだった。
慌てふためく生徒たちを必死に落ち着かせようとしている男性は、よく見ればエルヴェ先生だった。
濃いクマと枯れ木のように細長い身体が特徴で、おまけに体育祭の教師対抗武術大会でぶっちぎりの最下位だったあのエルヴェ先生。
こうしてはいられない。わたしは気が付けば、窓の外から校庭へと飛び出していた。
「お、おい、アルトー!?」
わたしの苗字を呼んだ声が後ろから聞こえたが、あのときはそんなことなど一切お構いなしだった。
三階の教室から校庭に飛び降りたら、ケガすると普通は思うだろう。だがさすがのわたしも、何の考えもなしに飛び降りたわけではない。
落下しながら、わたしは地面に向かって小さなビー玉のようなものを投げた。するとそのビー玉は地面に当たって弾け、中から風が噴き出す。
脱いだ制服のジャケットをパラシュートのように持ち、わたしはふわりと着地した。
風玉と呼ばれる先ほどのビー玉は、昨日の課題の一環で作ったものだ。ポケットの中に入れたままだったのを思い出せてよかった。
風玉は錬金術によって生み出された「錬成物」のひとつであり、どこか硬い場所に当たって割れると、中から風があふれ出すという性質をもつ。
と言っても、本来の風玉はちょっと風を吹かせる程度のもので、あんなに強い風は出てこない。
では敢えて普通より効果の強い風玉を作ったのかというと、決してそういうわけではない。
わたしにはどうしても、爆風を生み出す風玉しか作れないのだ。そよ風程度の風玉を作ろうとしても。
ごうっと音がするほどの風に、周囲の草木が揺れる。突風と共に現れたわたしを、一斉にみんなが見た。
このときのわたしは、かっこよく決まった、なんて馬鹿なことを考えていた。新たな刺客の登場に気づいた暴走ゴーレムが、こちらを一瞥するまでは。
「ひゃっ!」
わたしは慌ててその場から離れた。そして向かったのは、校庭の隅でぽつんと取り残されていた錬金術道具のテーブル。
「何か使えそうな素材は……あ、いいのがあった!」
テーブルの上に置かれた素材と器具のラインナップを見て、わたしはにわかに安堵を覚える。実を言うと、風玉を使って地面に着地した後の作戦は全くと言っていいほど考えていなかったのだ。
器具テーブルの元に向かったのは、錬金術師の
これでもし使えそうなものがなかったら、残りの風玉を全部投げてゴーレムを怯ませた隙に、魔術科の授業も兼任しているエルヴェ先生になんとかしてもらおうと思った。
けれど幸い、わたしの目の前には使えそうな素材と道具がある。うまくいく自信は正直なかった。けれどもう、ここまで来たらやるしかないだろう。
「星の実に、月の涙に、ホワイトファルコンの風切羽……個数は……うーん、もう作れる分だけ作っちゃおう!」
普通のものよりも少し小さな簡易錬金釜に素材を満たし、ぱぱっと錬成。少し急いだおかげもあり、ほどなくして目当ての道具は完成した。
「釜、壊れなくてよかった……よーし、ゴーレムさん! わたしが相手だよ!」
そう言って、わたしは手にした白いブーメランのような形状のものをぶんぶんと振り上げる。わたしの意図を悟ったのか、ゴーレムはわたしのことをきっと睨みつけながらこちらへと向かってきた。
「えーい、くらえっ!」
巨大な土の身体に、わたしはブーメランのような道具を叩きこむ。
するとそれは空中で鋭い水の刃になり、ゴーレムの胸部に直撃した。
「ッ——⁉」
突然の痛みに動揺し、一瞬立ち止まるゴーレム。だがそれで倒れるほど相手もヤワではなかった。
なおもこちらに向かってこようとするその巨体に、わたしは続けて三つ、ブーメランを叩きこんだ。
「どう、痛いでしょ?」
攻撃はどうやら効いているらしかった。それもそのはず。ゴーレムの身体を斬りつける刃は、ただの水ではなく、水精霊の力が込もった特別なものなのだから。
早い話が、水属性魔術の再現。ゴーレムの硬い身体にも、当然効くはずである。
しかも土でできたゴーレムは、水気に弱いはず。ゴーレムは明らかに、最初よりも弱って動きも鈍くなっていた。
残りのブーメラン——正式名称、水竜のキバはあと二つ。なんとか足りそうだ。
「よーし、トドメだ!」
残りの水竜のキバを、わたしは立て続けに二つ投擲した。この二つがゴーレムに連続して当たれば、この戦いはフィニッシュを迎えることだろう。——と、そのときのわたしは思っていた。
けれど、事態はあまりにも予想外の結末を迎えることとなる。
残り二発で倒れると思っていたゴーレムは——なんと、次の一発で倒れたのだ。
「えっ? あ、た、倒せた?」
予想よりも早く決着がついたことへの驚きで、わたしは思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
……その瞬間のわたしはまだ、気づいていなかった。
ゴーレムが倒れ伏したことにより、わたしが飛ばした最後の水竜のキバはそのまままっすぐ宙を飛んでいったことに。
そして、ぶつかる先を求めて進んでいったキバの先には、先生の育てていた木々が立っていたことに。
しなやかな細い木の幹が高圧の水魔術に耐えられるわけもなく、刃は幹をあっけなく貫通し。
そして木の根元近くにあった花壇も、攻撃力を失って落ちていったバケツ一杯分ほどの水を勢いよく浴びてしまって、無事でいられるわけがなかった。
「やっぱりわたし、錬金術師向いてないです! こんなわたしが工房に就職したら、かえって皆さんに迷惑がかかるのでは……」
「もう、そんなこと言わないの。この学園を卒業できた時点で、あなたは立派な一人前の錬金術師なんだから」
そう言って、マリアン先生は優しく微笑む。ああ、なんて眩しい笑顔なのだろう。
「はぁ。先生、わたし、どうしていつもああなっちゃうんでしょうか……いつも魔力調節の練習、たくさんしてたはずなのに」
ああなる、というのはつまり、作った道具の効果が通常よりも大きくなってしまう、ということだ。
さっき話した風玉もそうだし、実は水竜のキバも、本来ならさすがに木を一本なぎ倒すほど強いものではない。
原因は、わたしが錬成中の魔力の調節が壊滅的に下手なせいである。
自慢じゃないけど、わたしは一度に扱える魔力の量がかなり多いほうだ。けれど、それの調節がうまくできないせいで、いつも失敗ばかりしてしまうのだ。
さっきみたいに、周りを巻き込んでしまうほどの道具を作ってしまうこともあれば、錬成中に魔力を出し過ぎて、器具などを壊してしまうこともある。
また、薬品を作ったときなんかは、必要以上に効能がつきすぎてしまうこともある。例えば傷を治療するポーションには眼精疲労の回復やら、眠気覚ましの効果やら、いろいろといらないものがついてしまったり。
そのせいで、試験のときも課題通りの薬を提出できずに、何度落ちたことか……。
わたしの質問に、先生は少し困ったような顔をして唸る。高名な錬金術師のひとりであるマリアン先生でも、わたしの致命的な欠点の解決方法は分からないらしかった。
「運が良ければ天才、一歩間違えれば天災とはよくいったものね……」
「えっ? 先生、今何と? すみません、よく聞き取れなくて……」
「あ、あら? 私、何も言ってないわよ~? 空耳なんじゃない?」
そう言うと、先生は唐突に棚の中をがさごそといじりだしつつ、鼻歌を歌い始める。なんてわざとらしい!
はぁ。これからわたしは、錬金術師としてちゃんとやっていけるのだろうか。
多くの人を助けたい。そんな思いで錬金術の道を志したというのに、学園で過ごした五年間、わたしはどちらかというと周りに迷惑をかけた回数の方が多い。いや、圧倒的に多い。
幼い頃からずっと、この学園の錬金科を卒業することばかり夢見て生きてきた。けれどいざ卒業してしまうと、今度はその先のことが不安になってくるなんて。
こんなわたしだが、実は奇跡的に雇ってもらえる場所が見つかり、今月末には寮を出て就職することになっている。だけど、どう考えても上手くやっていける自信がない……。
「はぁ……」
無意識のうちに、口から重いため息が漏れた。
◇
あれから、時は過ぎ。
日に日に増していき、未だピークの見えない不安と共にわたしは月末を迎えた。
月末。そう。それはすなわち、学園を出て、就職のために旅立つ日がやってきたということだ。
就職先の工房まで送ってくれる馬車が迎えに来るのはお昼過ぎだというのに、昨日の夜は緊張して眠れなかった。
そして今、きらりと光る姿見の鏡面に、疲れた顔をしたひとりの少女が映し出されている。
それは紛れもなく、わたし自身の姿だ。
鏡に映る自分の姿をまじまじと眺め、特に乱れたところのない前髪を、無意識のうちに指で整える。つい十分前にしたのと、全く同じように。
少し赤みがかった茶色の髪は、肩にかかるかかからないか位の長さで切りそろえている。前は長くなる前にもっと短く切っていたのだけれど、今回はいつもより少しだけ長めに残してみた。
せっかくだから、大人っぽくイメチェンしてみたかったのだ。わたしも学校を出て、これからはひとりの大人として働くのだから(成人はまだだけど)。
けれど、それでもやっぱり大人には程遠い。同年代の子たちと比べたら身長はずっと低いし、よく小さい子供と間違えられるようなわたしが髪型を変えてみたところで、子供っぽいのには変わりないのだ。悲しいことに。
新調した服も、改めて見てみるとあまり似合っていないような気がしてくる。
買ったときは舞い上がっていたけれど、わたしがこんな服を着ていたら、まるで背伸びした子供のようだ。まるで、というか、実際そうなのかもしれないけれど。
大人っぽくて素敵、なんて思って選んだベアショルダーは、開いた胸元の、丸みを帯びたラインがとっても可愛い。けれどぴったりのサイズが見当たらなかったため、胸元がスカスカだ。
胸の大きなお姉さんが着たら、さぞセクシーになるのだろう。けど、わたしの場合は膨らみも何もない平らな胸元をただ露わにしているだけ。こんな格好で大丈夫なのだろうかと、今さらながら心配になってきた。
もちろん、それ一枚ではまだ肌寒い時期なので、上にはカーディガンを着ている。
襟は大きめでレースがついており、採集に便利そうな大きなポケットもある。可愛さと合理性を両立した、素敵な上着だ。……これはこれで、可愛すぎてわたしみたいな地味子には似合わない気がしてきたけど。
スカートは短く、裾は膝の位置よりもずっと上にある。制服と、いかにも田舎娘っぽい質素な服しか着たことのないわたしからしたら、かなり新感覚だ。
都会のおしゃれな女の子に憧れてミニスカートを買ってみたはいいけど、やっぱり何だか落ち着かない。
これから社会人の仲間入りだというのに、今のわたしの姿はまるで、大人の真似をしたがっている子供そのものではないだろうか。
それに何より不安なのはやはり、これからうまく仕事をやっていけるのかということ。
「はぁ……」
無意識にため息をつきつつ、わたしはベッドに腰かける。
五年間お世話になったこの寮の部屋とも、今日でお別れか。ちなみに同室だった人たちはみんな、わたしよりずっと前に学園を出て旅立った。
都会の大きなお店に雇われたコレットさんや、王都の研究所にスカウトされたドローヌさんは今、元気でやっているだろうか。
部屋が空っぽだと、独りぼっちの部屋がより一層静かに感じられて。
自分のため息も、はやる心臓の鼓動も、鮮明に聞こえてしまうのがつらい。
そんなこんなで、わたしは緊張と不安のさなか、何度も鏡とベッドを行き来していた。
そうしてどれぐらいの時間が経ったのだろう。体感的には一時間ぐらいかな。
「ルーカちゃん、お迎えの馬車が来たわよ〜」
「はっ、はいっ! すぐ行きます!」
部屋のドアの向こうから聞こえてきたマリアン先生の声に、わたしは咄嗟に返事する。緊張のせいで声が上ずってしまった。恥ずかしい。
わたしは鏡の前で最後の身支度を済ませ、寮を出た。
校庭を出ると、校門前には一台の馬車がわたしを待っていた。
「あら、ルーカちゃん。似合ってるじゃない、その格好」
わたしを見るなり、マリアン先生が最初に言ったのはそんな一言だった。
「えっ? そ、そうですか? でもやっぱり、わたしみたいな地味な女の子に、こんなお洒落な服は不釣り合いでは……というか、わたしが着たら服に失礼だったのではないでしょうか?」
「もう、またそんなこと言って。可愛いわよ、とっても」
「か、かわ……っ」
自分の頬がかぁっと熱くなっていくのを感じる。可愛いなんて誰かに言われたことが、ほとんどないもので。
しかも大好きなマリアン先生に言われると、嬉しさは倍増だ。
「ふふ。向こうでも注目を浴びちゃうかもね。ルーカちゃん可愛いから」
わたしの反応を面白がるように、先生は可愛いの追撃を仕掛けてくる。
「も、もう、からかわないでくださいよ~!」
きっと、このときのわたしの顔は真っ赤になっていただろう。
先生は楽しそうに笑いつつ、そんなわたしを馬車の方へと促す。
「ふふっ。さ、ルーカちゃん。そろそろ出発のお時間よ」
「あっ、そ、そうでした。もう行かないとですよね」
先生に言われ、わたしは待ってくれている馬車の入り口へと歩き出す。
大好きな先生と、五年間過ごした母校に背を向けて。
……何だか、寂しいなぁ。今日で先生とも、学校ともお別れだなんて。
そう思うと、これまでの思い出がじわじわと頭の中に蘇ってくる。
マリアン先生と時々お茶会をしたり。お昼休みには、マリアン先生と一緒にご飯を食べたり。放課後はマリアン先生につきっきりで勉強を教えてもらったり。
ペア実習では、いつも決まって組む相手がいなくて。そんなときは、マリアン先生がいつも声をかけてくれて。
実験器具を壊しちゃったときは、錬成実習担当の先生にたくさん叱られたな。そんなときは、マリアン先生が慰めてくれたっけ。
……あれ? わたしの学生時代の思い出、マリアン先生のことと叱られたことしかない? もしかしてわたし、貴重な学生時代に全く青春らしいことをできていなかったのでは?
い、いや、でも。マリアン先生とのことは全部素敵な思い出だもの。どれもわたしの青春の、大事な一ページ。と言ってもいいのではないでしょうか。いいよね!?
そ、それはともかく。早く馬車に乗らなくちゃ。御者さんを待たせちゃいけないもの。
入り口の扉を開け、馬車の中に入り込む。座ってみると、座席は意外とふかふかだった。
わたしが席につくと、マリアン先生が馬車のドアを閉めてくれた。
「それじゃあ、行ってらっしゃいルーカちゃん」
「はい、先生! あ、あれ? 目から汗が……」
「ふふっ。もう、泣かないの。あなたはもう立派な一人前でしょ?」
「そ、そう、ですけど……いいえ、そんなことないです! わたしはまだまだ一人前とは程遠いですし、それに……、先生と、お別れだなんて……」
何かと苦労することの多い学園生活において、マリアン先生はわたしにとって癒しであり、支えであり、心のオアシスだった。
第二のお母さんのように慕っている先生と会えなくなると考えると、やっぱりどうしても辛い。お別れのときは泣かないって決めてたのに。
「大丈夫よ、一生会えなくなるわけじゃないんだから。いつだって帰ってきていいのよ」
「せ、先生……! はいっ、ありがとうございますっ!」
わたしは涙を拭い、精一杯の笑顔を作ってそう言った。
今言った「ありがとう」には、たった今かけてくれた優しい言葉に対してだけでなく、これまでの感謝の気持ち全部を込めたつもりだった。
「すみません、お待たせして。そろそろ発車していただいて、大丈夫ですよ」
窓の外に向かってそう告げると、御者さんは頷き、手綱を引いた。
ガタっと音が鳴り、馬車が動き始める。
「ルーカちゃーん! 元気でね!」
「はい、先生! 行ってきます! 今まで、本当にありがとうございましたー!」
手を振ってくれる先生に、わたしはぶんぶんと手を振り返した。先生の姿が見えなくなるまで、ずっと。窓から身を乗り出して。
危ないですよ、と御者さんに言われてしまった。
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