ああ、燃え尽きてしまった恋花は
墨色
第1話
重い鋼鉄のドアを開けると、女がいた。
1DKのアパートの二階、冷たい風が吹き込むと、腰まで伸びていた艶やかな黒髪をさらさらと靡かせた。
暖かい日差しは、あの頃と同じで、輪郭をキラキラと輝かせていた。
仕立ての良い白いワンピースを身に纏い、さっきまで見ていた──高校時代の彼女よりもずっとずっと美人になっていた。
「…お久しぶりですね」
「…っ、ああ、久しぶり…で合ってるのかわからないけど」
昼の15時。
大学卒業を控えていた男の元に、数年前に別れたはずの女が尋ねてきた。
戸惑う男に、女は気にもせずに話を続けた。
「覚えていてくれたんですね」
「君を忘れるなんて…」
「私、やっと解放されたんです」
「…っ! そうなんだね…良かった」
当時、高校生であった二人には解決できない、どうしようもない問題があった。
最終的には地元を出て行った男であったが、その笑顔に今度は女が戸惑った。
「恨んで…ないんですか?」
「恨むなんて…そんな事、考えたこともなかったよ」
恐る恐る問う女に、何故か男は笑顔を崩さなかった。
女が戸惑うにはわけがあった。
手酷く裏切ったのは女だったからだ。
「あなたにあんな酷い事をして、とても恨まれてると思ってたんです。借金は返し終わりましたし、あの家からも解放されて…でももう母も居なくなって…」
「お母さんが…?」
事業に失敗し自殺した父と、おかしくなった母は失踪して行方知れずなのだと、女は俯いた。
それは、男と同じような境遇になったのだと暗に告げていた。
その女の背に、男は自然と手を伸ばした。
ピクリと女の肩が震えて、頭を下げた。
「ならもう一度、いいえ、あなたに謝ろうと思って…」
「そうか…。でもどうやってここを…?」
「ずっと監視されていましたよ」
「え?」
「あの男にですけど…」
「……」
その女の言いように、眉を顰める男だったが、思い当たる節があったのか押し黙ってしまった。
すると、男は何かに気づいたようにして口を開いた。
「じゃあ、あのDVDは…」
「私がコピーしました。あなたにだけは知って欲しくて…」
一週間前、男の元に唐突に送られてきたのは忌まわしい過去の記録映像だった。
それは付き合っていた当時、男が知らなかった、女に起きた凄惨な過去をまざまざと映していた。
思い出した数々の記憶は、この一週間で男の精神をどん底まで削っていた。
はずだった。
「あの男」の予想ではそうだった。
なのに、そんな様子など微塵も見えず、笑顔を崩さない男に違和感を覚えながら、女は心配そうな表情を浮かべた。
「け、警察に一緒に行って欲しいわけじゃないんです…! あなたを守れるなら私はどうなってもいいんです…」
「…」
「汚くてどうしようもないクズな女ですし、都合の良い話だとも思ってます。でもまた…あなたと一緒になりたくて、ここまで来ました。嫌っているのでしたらすぐに去ります」
女は、少し焦ったようにして男の胸に手を添え離れようとした。
まるで、そうあって欲しいかのようにして。
だが、男はその手を掴んだ。
「良かった」
「え?」
「同じ思いを抱えていて」
そう言って、男は懐に女を滑らせた。
俯く女の表情は、酷く困惑を映していた。
だが、もう遅かった。
「僕の方こそ君に嫌われていたんじゃないかって思っていたよ」
「ッ…! もう一度名前を呼んで欲しいです…」
そして顔を上げて、女はなんとか微笑んだ。
それはまるで、嬉しさを堪えるかのようだったが、悲しみを見せまいと振る舞っているかのようだった。
それともあるいは別の感情だったのか。
そんなことなど気にもしない態度で、男は女を強く抱きしめた。
「ッ…!」
およそ数年ぶりの抱擁に女は身体を硬くした。
それは果たして罪悪感からだったのか。
あるいは別の感情だったのか。
耳元で男は女の名前を囁いた。
懐かしい声で呼ぶその音の響きは、高校生の頃と何ら変わらなかった。
すると、女は涙を浮かべた。
「ッ…ああ、ああ、ずっと会いたかった…こうしたかった…!」
そんな言葉とは真逆の表情を浮かべた女は、それを悟られないようにして、男の胸元に顔を押し付け震えていた。
だから気づけなかった。
その男の表情に。
「は。はは…ああ、僕もだよ」
そうして二人はキスをした。
数年ぶりに再会し通じあった…男女のその夜は、朝方まで続いた。
およそ数年ぶりとなる強烈な背徳感に襲われた女は、男の限りを搾り尽くした。
そしてそれは、その女──香澄にとって忘れられない日々の始まりとなった。
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