第2話
コンコン、とノックの音が聞こえ、振り向いた柚彦はギョッとしてスマホを落としそうになった。流れる水が模様をつくっている硝子扉の向こうに、幽霊が立っているのが見えたのだ。降りしきる雨の中に佇む白い服の女。長い髪が纏わりつく青白い顔に、恨めし気な視線。情けなくも悲鳴をあげそうになって、柚彦は後ずさった。背中が壁に触れるのを感じて固く瞼を閉じ、消えろと念じて目を開ける。けれど彼女は消えなかった。というより、幽霊ですらなかった。青白い顔に見えたのは青い傘を差していたからで、恨めし気な視線は……。
「あ、すみません。占領しちゃって」
慌てて扉を開けたとたん、雨音が激しく耳を打った。傘を閉じて入って来た彼女が扉を閉めて、ほっと息を吐く。
「こちらこそ、ごめんなさい。急いでたもので」
彼女はバッグから小さなカードを取り出した。子供の頃に病院へ見舞いに行った時に見た事がある、テレホンカードというやつだ。今どき珍しいなと思いながら、柚彦は入れ替わりに電話ボックスを出ようとして途方に暮れた。──傘が無い。
よほど急いでいるのか、彼女は柚彦を気にする様子もなく受話器を取り上げ、電話機にテレホンカードを差し込んだ。けれど何故かピーピーという電子音と共に戻って来る。錆びの浮いた古い公衆電話は、多分きちんとメンテナンスされていないのだろう。携帯電話を持たない人を探す方が大変な時代だ。彼女は何度か同じことを繰り返し、とうとう諦めたのか受話器を置いた。
途方に暮れた様子がさっきの自分と重なって見えて、柚彦は小さく咳ばらいをした。
「あの、携帯使いますか? よかったら」
驚いた表情の彼女に、スマホを差し出す。彼女は手を出さない。やはり見ず知らずの男の電話を借りるのは不安だろうか。他意はない事を示す為に笑ってみせる。少々引き攣った笑顔になっているのは許して欲しい。近くで見る彼女は、とても美しかった。年齢は柚彦より少し上だろうか。すらりと背が高く、ヒールを履くと目線の高さが柚彦を越える。ウェーブのかかった栗色の髪に包まれた小さな顔は、シンメトリーに整っていて……。
「ありがとう」
そう言って微笑んだ顔は絵画のようだった。
腕を伸ばしたまま再び固まった柚彦の手からスマホを取り、彼女はどこかに電話をかけ始めた。慌てて背を向け耳を塞ごうとした柚彦に「そこまでしなくていいから」と笑いを含んだ声が掛けられた。
「もしもし、私。迎えに来てくれる? 会社の近くなんだけど大雨で。……電話? 親切な人が貸してくれたの。……うん、じゃあ、ここで待ってる。電話ボックスの中」
そう言って通話を終えた彼女は、ありがとうと言って柚彦にスマホを返した。
「あ、履歴消しときますね」
少々勿体ない気がしたが、ここは紳士を貫くべきだ。今架けたばかりの電話番号を削除する。スマホをポケットに仕舞い、柚彦は再び途方に暮れた。雨は益々ひどくなってきている。電話ボックスから出ようにも出られない。
「傘が無いんで、あの……」
言い訳のように言葉を絞り出す柚彦に、分かってると言いたげに頷いて、彼女はまた艶やかな微笑を浮かべた。
「本当にありがとうございました。携帯を家に忘れて来ちゃって。……助かりました」
改めて礼を言われ、いえいえと頭を掻く。遠くに稲光が見え、暫くしてゴロゴロという音が聞こえた。眼を凝らすようにして外を見た後で、彼女は思い出したようにハンカチを取り出し、服に着いた雫を払った。縁にレースが付いた白いハンカチだった。
狭い電話ボックスの中で、言葉を交わすでもなく立っている時間は、心地良いような悪いような、何とも不思議な感じがした。外よりも静かではあるが、激しい雨音と雷鳴が硝子の箱を包んでいた。吹き付ける雨のせいで四方に絶え間なく水が流れ、外の景色は
暫くすると明るい光が近付いてきて、電話ボックスの前で車が止まる気配があった。彼女が扉を開けると、雨音が何倍にも激しくなる。文字通りバケツをひっくり返したような大雨だった。
「遅いじゃん」
砕けた口調でそう言って、彼女は助手席のドアと、何故か後部座席のドアを開けた。
「乗ってください」
「え?」
「電話を貸してもらったお礼に送ります。早くして。びしょ濡れになるから」
電話ボックスと車を傘で繋ぎ、彼女は柚彦を急かした。
「え? いえ、そんな……」
「傘が無いんでしょ。早く!」
腕を引っ張られ、勢いに負けて後部座席に乗り込む。ドアがしまり、彼女が助手席に座るのが見えた。
「あの……、すいません。ご迷惑かけて」
何と言っていいのか少々しどろもどろになっている柚彦を、運転席の男性が振り返る。
「構いませんよ。こちらこそお世話になりました。……駅まででいいかな」
最後のセリフは柚彦にというより彼女に尋ねたように聞こえた。恋人だろうか、旦那さんだろうか、柔らかな声の調子が品の良さを感じさせた。
「ありがとうございます」
EV車なのだろうか、エンジンの音は静かだった。車内は高級そうな設えである。
駅に着く直前で、赤信号につかまった。
「あ、ここで結構です。ありがとうございました」
「いいよ、駅まで……」
「いえ、このアパ……すぐ近くなので」
信号のある交差点の角にあるマンションの二階に、柚彦の部屋がある。鼠色の壁を切り抜いた入り口と並んだ、地下に続く階段を上がってくる人影が見えた。
「そうなの? じゃあ」
振り向いた彼女の目は「遠慮しなくていいのに」と言っていた。けれど、ここなんです。残念ながら。
「ありがとうございました」
もう一度お礼を言って、柚彦は車のドアを開けた。ダッシュで屋根の下に入る。バーの看板に灯りを点けに上がって来た守さんは柚彦には気付かない様子で、憂い顔で空を見上げていた。背筋がすっと伸びた立ち姿が雨の幕に煙る。振り向いて車に目をやると、彼女が窓を開けて顔を出しているのが見えた。手を振りかけて、何故か彼女が柚彦を見ていないように思えた。いや確かにそうだ。顔に雨粒が吹き付けるのにも気づかない様子で、驚いたように眼を見開いている彼女の視線の先には守さんがいた。
柚彦のバイト先のバーテンダーである守さんは柚彦が通う大学の卒業生で、今年で三十歳になると言っていた。見た目はというと、あまり外には出ない人だが、一緒に買い出しに行くと、年齢に関係なく女性の九割が振り向く。中には立ち止まって見惚れる人もいる。ということで説明がつくだろう。彼女も守さんに目を引かれたのかと思いかけて、微妙な違和感を覚えた。彼女の表情は見惚れると言うより驚愕という方がしっくりきた。例えるなら、幽霊でも見たような表情とでも言おうか。
全く気付いた様子もない守さんは、当然何のリアクションもなく看板に灯りを入れ、地下へと階段を降りていった。信号が青に変わり、車が走り去っていく。赤いテールランプを目で追っていると、すぐ近くで雷鳴が轟いた。強い光を感じると共に、視界が真っ赤に染まった。
「……え?」
一瞬、何を見たのか理解できなかった。いや、見た後も理解できなかった。目の前を、巨大な火の玉が転がって行った。車が走るより何倍も早く、転がると言うより跳ぶように、それは道路を走った。大型トラックのタイヤが外れて火が付いて燃えながら転がっているのだと脳を納得させようとしたが、消えそうな理性が自分自身を追い込むように冷静な判断を下す。
直径がバスの高さを越える巨大な火の玉は、完全な球形をしていた。
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