第6章:扉の向こうへ
春の訪れとともに、村には旅の者が増え始めた。
季節の変わり目に現れるという、不思議な旅商人――“セレン”もそのひとりだった。
灰色の外套に身を包み、小さな馬車で各地を巡っては、布や道具、香草などを売り歩く。
彼女は前にもこの村に来たことがあり、村人たちとは馴染み深い。
そして、今回もまた――不思議な品をいくつか持ってきていた。
「これはね、向こうの街で仕入れたんだよ。
“願い石”っていってね、選ばれた人にだけ反応する石。触れた人が“どこに行くべきか”を指し示すって言われてる」
村の広場に簡単な露店が開かれ、神原もそこにいた。
セレンは彼を見て、何かを見抜くようににこりと笑う。
「触れてみる?」
神原は一瞬迷ったが、周囲の視線を感じて、小さく頷いた。
手を伸ばして、灰色の石に指を置いた。
すると――石の中心が、ほのかに青白く光った。
「……当たり、ね」
セレンは楽しげに目を細める。
「この石が光ったってことは、あなたは“分岐点”に立っている。
過去の重みに縛られるか、前を向くか。どちらに進んでもいい、でも選ばなくちゃいけない」
神原は目を伏せた。
「……選ぶって言っても、俺はまだ何かを背負ってるわけじゃない。ただ、居るだけだ」
「それが、意外と難しいことなのよ」
セレンはそう言ってから、ふいに声をひそめた。
「ねえ、神原さん。あなた、教えることが好きだったんじゃない?」
「……ああ。そうだった、と思う」
「だったら、村の子どもたちに“学び”をくれるのは、悪くない始まりかもしれない」
神原は驚いたように目を上げた。
「……教えるって、ここで?」
「ええ。小さなことからでいい。文字でも、数でも、何か“自分が持ってきたもの”を誰かに渡す。
それはきっと、この世界で生きる一つの形になるわ」
その言葉は、村人からの頼みでもなければ、神原への命令でもなかった。
ただ、ひとつの「提案」。
しかし、彼の胸の奥に、何か小さな種を落としたようだった。
夜。神原は納屋の裏にある椅子に腰掛けて、空を見ていた。
ユウがそっと隣に座る。
「……昼、見てました。石、光ってましたね」
「……あれ、インチキなんじゃないかって思ってたけど、意外にちゃんと反応してな」
「選んだら、何か変わると思いますか?」
「わからない。でも……」
神原はゆっくりと言葉をつないだ。
「“もう一度、前を向ける気がする”って思えただけで、少しだけ軽くなった」
焚き火の残り香がまだどこかに漂っている夜だった。
神原はそっと胸の前で指を組んだ。
この世界で、ただ呼吸しているだけの自分に――ようやくひとつ、意味が灯った気がしていた。
それは、何かを失った者にしか見えない、淡い光。
“扉”は、まだ閉じている。
けれど、もう鍵には手がかかっている。
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