月ノ木〜境界を彫るもの〜
あまるん
第1話 八角堂の冬(二〇二〇年一月)
山奥の観音像には、なんともいえない品があった。まず、三メートルを超える大きさに圧倒され、よくよく細部を見ると、丁寧に彫られた表情は柔和だ。
足元には、立て札がおいてある。県指定文化財、十一面観音立像一号、像高360センチ、年代平安時代、材質ハリギリ、一本造り、と簡素な文字が並ぶ。
茂は堂に入ってすぐの賽銭箱に硬貨を投げ入れ、厚みのある座布団に座った。手を合わせ、家族の健康と、仕事の無事を祈る。それから、顔を上げた。
煙で燻された黒い面の静かな瞳が、己を覗き込んでいた。
—―なぜ、彼は俺を見るのか。
左腕を失い、右手の先もなく、十一面観音の名の由来である額を取り囲む十一面の顔も朧になっている。それなのに、彼は確かに仏像だった。冬の冷気も忘れる程の驚きを感じて、茂は彼を見つめ返した。そして、ついに、かの存在が千年も前から自分を待っていたのだ、と感じるに至った。
朽ちかけた彼の顔は、この地元に住む知人によく似ていた。彫刻は彫ったものに似るという。この辺りに住むものが、彼を作ったのだろう。自分なら、観音という存在にもっとふさわしい形を彫れるに違いない。茂はわけもなく確信した。
その出会いは、茂の人生を、均された平坦な里の道から外れさせ、先の見えない山道に誘い込んだのだった。
二〇二〇年の一月三日、正月休みだった。太平洋側の冬は晴れ渡り、空は湯気か雲か分からない白い蒸気が掛かっている。
雪が落ちて積り、潜ろうにも潜れない山門の奥には斜めに生えた松とT寺の本堂が見える。山門の脇を歩けば、寺の敷地の片隅に、八角の形をしたお堂があった。
竜の形の手水を見つけて、それで手と口を清める。堂の正面には立て看板があった。
――十一面観音は、みちのく岩手を平安時代に平定した『坂の上田村麻呂』が、姫神山を霊山と定め、その後、十一面観音の聖地となった。
お堂の中には、ガラス越しに、五体の十一面観音が見えた。
堂の前でのぼりが揺れている。誘われるように、段を上がり、靴を脱いで、手動の戸を開いた。
来館者に反応したセンサーライトが、堂内を照らす。そうすると、五体の十一面観音、二体の仁王像、そして一体の神像が見えた。
仏像は一段高いところにある。そして、一番の正面には姫神大権現と書かれた小さな立像があった。木魚や鐘、賽銭箱や札が整然と並べられている。
茂は、後で何度もこの光景を思い出すこととなった。もし、あの時にあの堂に行かなかったら?
堂の中で、どれほど時間が経ったかは、分からない。外に出ても相変わらず晴れていたし、誰も通りがからなかった。どこにいるか分からない鳥の声だけが青い空に響いている。
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