Don't Look at Me

胡夢卜

第1話

冬が来た。ツンクーフトにも、どうやら等しく。


町田駅前の人混みを抜け、雑然とした路地を曲がるたびに、空気がひんやりと変わっていくのがわかる。古びた事務所のドアを開けると、ひと息に冬の風から解放された気がした。


中では、森永さんがソファに身を沈めていた。


「ちゅうちゅうたこかいな……ちゅうちゅうたこかいな……」


彼女は指先を器用に操りながら、社長から受け取った茶封筒の中身――札束を数えていた。制服のブレザーを脱ぎ、白シャツ姿。ローテーブルに乗せられた資料をよそに目の前の金に夢中だ。

本来、非常に整っているはずの顔には一切の感情がない。


年相応の女子高生らしさなんて、そこにはない。むしろ、妙に板についた守銭奴のその姿は、大人びてすら見えた。


「今回は少し多めに入れてあるけど、必要経費も込みだからね。自分の「武器」は自分で買ってよ。高いの欲しくなっても、予算内でやりくりしてね?」


ディスプレイ越しに言う社長は、どこか楽しげだった。年末の寒さを感じさせない穏やかな笑みで、すっかり冬仕様の作業着に身を包んでいる。


185センチを超えるがっしりした体格。作業服にネクタイ、安全靴という、どんな現場にも対応可能な「便利屋社長スタイル」。

わずかに白髪まじりの髪を無造作に撫でつけ、黒縁眼鏡の奥の瞳は底知れないほど明るい。


頭髪とは対照的に、顔立ちは30代の雰囲気、無邪気さと軽さをまとっていて、なんだか「逆に」近寄りたくない雰囲気がある。


――この人は、いつだって「少しだけ」楽しんでいる。何をしていても、どこかに遊び心を残している。


いわゆる「少年のような中年」だな、と思う。


僕に向き直った社長は、声を弾ませた。


「やぁやぁ、北村君。今回も来てくれてありがとう。実はね、ちょっとやばそうな話があってさ。君にも協力してほしいんだよ。森永さんと組んで動いてくれたら助かる」


この、軽くて楽しげな雰囲気が逆に怖い。


どうせ、またろくでもない話なのだ。顔を合わせた瞬間から、なんとなく予想はついていた。いや、呼び出された時点で覚悟はしていた。


それでも僕は、来てしまった。


十二月。クリスマス用イラストも年賀用の絵も一月前には納品済みで、年末進行の谷間に差しかかっている今は、たしかに時間が空いていた。企業側の仕事も、春以降の企画打ち合わせに移っていて、フリーランスの僕には少しだけ余裕がある。


そんな時に限って、槐門社長からの呼び出しは、まるで見計らったようにやってくる。


「北村さん、今回の依頼はこの会社には報酬なしなんだって」


 森永さんが、札束を封筒に押し戻しながら呟いた。視線は宙を泳いだまま、どこか諦めたような口調だった。


「利益なしで仕事受けるなんて、社長も人が良すぎますよね?」


 言いながら、彼女はソファの背にもたれかかり、ふう、と息を吐いた。おさげの毛先が肩を揺れる。


森永さんが、封筒の口を折り返しながらつぶやいた。トーンは落ち着いているが、その目元には明らかな不満の色が滲んでいる。


「利益なしで仕事受けるなんて、社長も人が良すぎますよね?」


そう言って、彼女はソファの上で姿勢を少し崩し、無言で再び札束を取り出した。指先に力を込めるようにして、札の端をはじきながら、静かに数え直しを始める。


(彼女の趣味が“貯金”だっていうのは聞いていたけど……これはまたすごいな)


「パチ、パチ、パチ……」


乾いた音が規則正しく鳴る。札が指の間を抜けるたびに、彼女の表情は微動だにしない。最後に一枚――最後の札を弾いた時だけ、少しだけ強く、快い「パチン」という音が響いた。


彼女は満足げに封筒を閉じると、それを自分の鞄の内側、最も安全そうなポケットにそっとしまった。


僕は軽く咳払いをして、社長に視線を向けた。


「社長、その報酬なしの依頼って、何ですか?」


気を取り直して尋ねると、社長は肩をすくめて、首をかしげながらおどけたように答えた。


「警察からのお願いなんだ。ほら、うちは警察と仲良くしてるでしょ?」


「……警察には甘いんだから」


森永さんが、投げやり気味に言葉をかぶせてくる。不満の矛先は、はっきりと社長に向いていた。


「いや、そう言うけどね? 警察と上手に付き合っていくのって、うちの商売では超重要なんだよ。学生バイトも多いしね、信頼関係ってのは何よりも大事」


(本気で言ってるのか、それとも、冗談の皮を被せた本音なのか。たぶん、どっちでもあるんだろうな)

僕はそう思うと肩を落とした。


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