第三話『夢界の魔術師』
第二の怪異が終息してから、三日が過ぎた。
学園は一時的な平穏を取り戻し、生徒たちも通常の授業に戻っていた。しかし、その静けさは嵐の前の静寂のようで、僕たち幽棲館の住人は皆、次の怪異の兆しを注意深く見守っていた。
僕の霊視能力について、冥華からは特別な教導を受けることになった。といっても、冥華のやり方は実に簡潔だった。
「霊視とは、物事の本質を見抜く
夕刻、一階の共用スペースで冥華は湯呑みを前に説明した。
「古神道では『
「感情的な共鳴?」
「式神との戦いの際、私の緊張が貴様に伝わったであろう」
冥華が鋭く指摘した。
「それが
冥華は懐から小さな水晶を取り出した。
「物の気を感じ取ること——それが霊視の第一歩だ。この水晶に宿る波動を、貴様の感応で捉えてみせろ」
僕は水晶を手に取った。最初は何も感じなかったが、集中していると、微かに温かい感覚が指先に伝わってきた。
「……何か、温かい」
「それが霊的
冥華が頷いた。
「だが、まだ表層しか捉えていない。もっと深く——」
その時、幽棲館の外から、
冥華の表情が一変した。
「眠りの
時計を見ると、午後十一時を過ぎたところだった。
冥華は鈴の音に耳を澄ませたまま、わずかに目を細める。
「前回より早い時間帯……『呼鈴』の霊的波動そのものが進化しているようだな」
その時、館内から規則正しい足音が聞こえてきた。風離夜姫が人形を抱いたまま、静かに階段を降りてくる。
「病雲冥華、葉山陰」
夜姫が落ち着いた声で呼びかけた。しかし、その表情には深刻な影が差している。
「『眠りの呼鈴』の影響が……従来の規模を超えている」
冥華は視線を鋭く夜姫に向けた。
「詳しく話せ」
「夢の世界に、巨大な
夜姫の表情は青ざめていた。
「術者が夢界への直接干渉を開始した。このままでは——」
夜姫の言葉が終わらないうちに、再び鈴の音が響いた。今度は先ほどより明らかに大きく、深く、そして長く続いた。
「まずい」
冥華が立ち上がった。
「夢封の術式が発動している。夢から覚めることができなくなる者が出るぞ」
「夢封?」
「夢と現実の境界を
冥華が説明した。
「古神道では『
夜姫が人形を抱き直した。
「すでに学園内で十二名の生徒が深い眠りに落ちている。そして……」
夜姫の瞳が虚ろになった。まるで別の世界を見ているような表情だった。
「夢の中で、彼らは同じ場所にいる。古い講堂のような場所で……誰かの声が聞こえている」
「講堂?」
冥華が眉をひそめた。
「学園に古い講堂など——」
「いえ、現実の講堂ではない」
夜姫が首を振った。
「夢の中にのみ存在する、
僕は不安になった。
「その生徒たちは大丈夫なのか?」
「今のところは」
夜姫が答えた。
「でも、夢の世界に長時間拘束されれば、現実の肉体にも影響が出始める。最悪の場合——」
「魂が現実に戻れなくなる」
冥華が続けた。
「
冥華は決意を固めたように立ち上がった。
「夜姫、貴様の
「私一人では危険」
夜姫が首を振った。
「術者が直接夢界を支配している今、私の力だけでは対抗できない」
「ならば」
冥華が僕を見た。
「葉山、貴様も夢の世界に入れ」
「え? 僕が?」
「貴様の霊視は感情的共鳴を通じて発現する」
冥華が説明した。
「夢の世界は意識と感情の
夜姫も頷いた。
「……病雲冥華の見立ては一理ある。葉山陰の霊視が夢界に通じるか、今の段階では判断できない。でも、今はそれに賭けるしかない」
僕は躊躇した。夢の世界での戦い——それは現実とは異なる法則に支配された、未知の領域への侵入を意味する。きっとそこには、僕が今まで経験したことのないような危険が待っているだろう。
「でも、僕に夢渡りなんてできるのか?」
「私が誘導する」
夜姫が人形を見つめた。
「この人形は夢界への媒介となる。葉山陰の意識を、私と共に夢の世界へ送り込める」
冥華が僕を見つめた。その眼差しには、厳しさと同時に信頼の色が宿っているように見えた。
「危険は承知している。だが、このまま放置すれば被害はさらに拡大する。貴様の力が必要だ」
僕は決意を固めた。第二の怪異の時、僕は冥華に力を貸すことができた。今度も、きっと何かの役に立てるはずだ。
「わかった。やってみる」
夜姫が微かに笑った。
「では、準備をする。夢渡りは肉体を深い眠りに落とすため、安全な場所で行う必要がある」
僕たちは夜姫の部屋に向かった。三階の彼女の部屋は、古びた家具と神秘的な道具で満ちていた。割れた鏡台は修理されており、その周りには線香や
「まず、葉山陰はここに座って」
夜姫が示したのは、鏡台の前に置かれた古い
「夢渡りの準備をする。病雲冥華は、私たちの肉体を守って」
冥華が頷き、部屋の四隅に
「
夜姫が人形に手をかざしながら、小さく呟き始めた。
「
部屋の空気が変わった。まるで水の中にいるような、ゆらゆらとした感覚に包まれる。意識がだんだんと
「力を抜いて」
夜姫の声が遠くから聞こえる。
「意識を私に
僕は目を閉じた。すると、暗闇の中にゆっくりと光が見え始めた。
「見える? 光の道が」
僕の前に、淡い光でできた道が現れていた。その道は霧の中へと続いている。
「その道を辿って。私もそばにいる」
僕は光の道を歩き始めた。歩いているのか、浮いているのかよくわからない。足音も感じられない。
***
やがて、霧が晴れ始めた。そして、僕の目の前に巨大な建物が現れた。
古い講堂——まさに夜姫が言った通りの場所だった。重厚な石造りで、ゴシック様式の窓が並んでいる。しかし、どこか現実感に乏しく、輪郭がぼやけている。
「夢の空間」
いつの間にか、夜姫が僕の隣に立っている。現実と同じ白いドレス姿だった。
「中に入る。囚われた生徒たちがいるはず」
講堂の扉は重厚な木製で、
中は薄暗く、客席には学園の生徒らしき人たちが座っている。みな、うつろな表情で舞台を見つめていた。
「あれが囚われた生徒たち……」
その時、舞台を満たしていた霧が静かに晴れ、一人の人物の姿がゆっくりと浮かび上がった。
黒いローブに身を包んだ女性だった。深く
暗闇の中で、ローブの袖から白い手が現れ、空中に複雑な魔法陣めいたものを描いている。
「夢界に足を踏み入れた者は、その名が私の意識に浮かび上がる。葉山陰」
術者——その女性が口を開いた。声は深く美しく、聞く者の魂を
背筋に冷たいものが走る。夢の世界で出会ったこの術者は、僕の名前を知っている。
この術者は一体何者なのか——僕たちのことを、どこまで知っているのか。
「驚くことはないわ。私の魔術は全てを暴き出すもの。光に照らされたものも、闇に隠されたものも、そして——失われたものさえも」
術者がゆっくりと舞台から降りてきた。優雅でありながら威圧的な歩み、無音で空間を移動する超然とした存在感——。
「奇妙に整った記憶ほど、真実からは遠ざかっているものよ。そう思ったことはないかしら?」
術者はフードの奥から冷たい視線を僕に向けた。
「夢の世界では、記憶と現実の境界は私の思うがまま。私の魔術の前では、そんな境界など何の意味もなさないのよ」
「生徒たちを解放して」
夜姫が前に出た。
「夢の拘束は禁術」
術者はゆっくりと夜姫の方に顔を向ける。フードの奥から、氷のように冷たい視線が夜姫を射抜く。
「禁術? 半端な夢渡りが、私に説教するなんて愚かしいわね。風離夜姫」
夜姫も名前を知られていた。そして、術者の口調には、高位の魔術師が格下の術者を
「私は夢と現実の境界を操る魔術師。この子たちは、私の実験のための供物として選ばれたのよ」
術者が手をかざすと、客席の生徒たちが一斉に振り返った。しかし、その動きは機械的で、意志を感じられない。まるで操り人形のようだった。
その時、僕の胸に温かい感覚が広がった。第二の怪異の時と同じような——。
そして、僕は『感じた』。座っている生徒たちの感情を。
彼らは恐れていた。戻りたがっていた。でも、声を出すことができない。まるで
「だめだ、みんな怖がってる!」
僕は思わず叫んでいた。生徒たちの恐怖と絶望が、僕の心に直接流れ込んでくる。
「助けを求めてる! あなたに彼らを苦しめる権利なんてない!」
その瞬間、客席の女子生徒の一人が、僅かに目を動かした。
「あ……」
か細い声が漏れる。
「助け……て……」
術者のフードが僅かに動いた。初めて予想外の事態に直面したような気配だった。
「この力……まさか夢界で他者の感情に直接感応するなんて」
術者が僕を見据えた。フードの奥で光る瞳——魔性に満ちた冷たい輝き。それは僕という存在を
「なるほど、興味深いわね。あなたの力、私の想定にはなかったものよ」
夜姫が前に出た。
「今! 生徒たちの意識が戻りかけている!」
しかし、術者は慌てることなく、優雅に手をかざした。その手からは黒い
「甘い考えね。私の実験を邪魔することは許さないわよ」
術式が発動すると、目を覚ましかけた女子生徒の表情が再び虚ろになった。今度はより深く、完全に意識を失ったように見えた。
「だめ!」
夜姫が叫んで前に駆け出した。
「夢縛りを深くしすぎれば、彼女の魂が——」
「そうよ。この娘は今、夢の世界で消滅の淵にいるの。あなたたちが余計な干渉をしたからよ」
術者の声に感情の波はなかった。まるで実験結果を読み上げるような冷徹さ——いや、それ以上に冷酷で、人間の命を虫けら程度にしか思っていない響きがあった。
僕は恐怖した。一人の生徒が、僕たちのせいで危険な状態に陥っている。
夜姫は人形を胸に抱きしめ、必死に力を集中させようとする。
「今の私では……力が足りない……」
夜姫の瞳に痛切な無力感が宿る。その時、彼女の周りの空気が波打つように歪み始めた。
「風離さん?」
「私が……存在を賭けてでも……」
夜姫の身体から、
「危険だ! 風離さん、それ以上は——」
しかし、夜姫は僕の制止を聞かずに力を解放し続けた。
「
夜姫の力が制御を失い始めた。夢の世界全体が激しく震動し、講堂の壁にヒビが走る。
「馬鹿な真似を」
術者が初めて動揺の色を見せた。
「夢界で力を暴走させれば、あなたの存在そのものが消滅するわよ」
僕は夜姫に駆け寄った。
「風離さん! やめるんだ!」
僕が夜姫の肩に手を置いた瞬間、僕の霊視能力が反応した。夜姫の絶望、孤独、そして生徒たちを救いたいという強い想いが、僕に流れ込んできた。
「君は一人じゃない」
僕が夜姫を抱きしめた。
「僕がいる。冥華もいる。一人で背負わなくていいんだ」
夜姫の荒れ狂う力が次第に鎮まっていく。激しく渦巻いていた光が優しい輝きに変わり、講堂を襲っていた震動も波が引くように消えていった。
「葉山陰……」
その時、現実の世界から冥華の声が響いてきた。
『葉山! 夜姫! 術者の
冥華の
『
冥華の呪術が夢の世界にも影響を与えていた。術者の術式が僅かに揺らぐ。
「現実からの直接干渉……」
術者が感心したような口調で呟いた。
「病雲冥華……日本呪術の使い手にしては、なかなか高度な術式を持っているじゃない」
その隙を逃さず、夜姫が立ち上がった。
「今! 病雲冥華の呪術が現実への帰還路を開いている!」
しかし、術者は最後の手段に出た。
「ならば、実験体の最終状態を見届けてもらいましょう」
術者が空中に複雑な魔法陣を描くと、消滅しかけていた女子生徒の魂が、さらに薄く、透明になり始めた。
「やめろ!」
僕は咄嗟に女子生徒に駆け寄り、その手を握った。
「しっかりして! 諦めちゃだめだ!」
僕の心が、彼女の薄れゆく意識と共鳴した。彼女の中で、生きたいという想いが燃えている。
「まだ……生きていたい……帰りたい……」
彼女の薄れかけていた魂に、僅かながら輝きが戻った。完全な消失は回避され、帰還の希望が見えてきた。
「興味深いわね」
術者が手を下ろした。
「霊視による
術者は新たな発見に満足したような気配を見せた。
「予定していた実験は中断されたけれど、それ以上に価値ある発見があったわね」
その時、冥華の荘厳な
『
講堂全体が金色の光に包まれた。冥華の術式が夢界を貫き、術者の支配が揺らぎ始める。
「そろそろお開きの時間ね」
術者が優雅に微笑んだ。
「次は夢界の外で再会しましょうか」
術者の姿が霧のように散り始める。
その最後の瞬間、僕の心に奇妙な畏怖が走る——術者の向こうに、
術者の消失と共に、生徒たちへの魔術が完全に解除された。みな
夜姫が僕の腕を掴んだ。
「生徒たちの意識が現実に戻っていく。私たちも帰還しよう」
冥華の光に導かれ、僕たちは現実世界への帰還路を辿った。
最後に、僕は振り返って女子生徒を確認した。彼女は他の生徒たちと共に、無事に目覚めの道を歩いていた。
***
気がつくと、僕は夜姫の部屋の座布団の上に座っていた。体が重く、まるで長い間眠っていたような感覚だった。
「無事帰還したな」
冥華が僕たちを見下ろしていた。その表情には安堵と厳しさが混在していた。
「夢渡りは成功したか?」
「一応は」
夜姫が疲れた様子で答えた。
「術者は一時的に退却した。そして……」
夜姫が僕を見た。
「葉山陰の霊視は、夢の世界でも有効だった。囚われた生徒たちの感情を読み取ることができた」
冥華が頷いた。
「それは重要な情報だ。夢界における感情の探知は、
感応術——冥華が口にしたその言葉は、僕を呪術という深遠な世界へと導いているようだった。
冥華が僕を見つめた。
「貴様の感応術は、単なる霊視を超えている。他者の魂に直接働きかける力……これは極めて稀有だ」
夜姫が静かに口を開いた。
「葉山陰の感応術がなければ、みんな消えていたかもしれない。私も含めて……」
その時、幽棲館の外から鈴の音が響いた。それは優しく軽やかな音色で、まるで怪異の終息を告げる合図のようだった。
夜姫が呟いた。
「夢界にいた術者……あれは私の知っている呪術ではなかった。おそらく西洋魔術の体系」
僕は術者が言っていた言葉を思い出していた。
「あの術者、記憶と現実がどうとか言ってたけど……記憶を
冥華の表情が一瞬
夜姫が人形を抱き直して言った。
「術者の正体を突き止めなければならない。あの魔術は……とても脅威」
僕は窓の外を見つめた。今回は生徒たちを救うことができたが、一歩間違えれば取り返しのつかないことになっていた。
「次回は
冥華が立ち上がった。
「夢界の術者に対抗するには、より高度な呪術が必要になる」
僕たちが部屋を出ようとした時、夜姫がそっと僕の袖をつかんだ。
小柄な彼女が、儚げに僕を見上げる。その瞳には、深い不安と恐怖が宿っていた。
「風離さん?」
「私の力……制御を失いそうになっていた。もし葉山陰がいなかったら……」
夜姫の手は震えていた。今夜の体験——術者の前での無力感、制御を失った自分への恐怖、そして独りでいることの不安。それらが彼女の精神を
「大丈夫だよ」
僕は夜姫の手を握った。
「君は一人じゃない。僕たちがいる」
その時、夜姫の小さな手から、ふと違和感のようなものを感じた。まるで深海の底に眠る何かが、一瞬だけ表面に顔を
それは一瞬のことで、すぐに消えてしまったが、妙な既視感が胸に残った。
ふと冥華の方を見ると、彼女は静かに夜姫を見つめていた。
冥華は僕の視線に気づくと、無言のまま部屋を出て行った。これ以上この場にいることを避けるかのように。
深夜の静寂の中、僕と夜姫は静かに佇んでいた。二人だけの空間に、今夜の出来事の余韻が重く漂っている。
第一の怪異『眠りの呼鈴』は、今回の事件で新たな段階へと進化し、想像以上に深い謎を秘めていた。そして、僕の霊視能力——感応術もまた、新たな局面を迎えようとしていた。
深夜の静寂が幽棲館を包む中、僕は感じていた。多くの謎がまだ闇の中に潜んでいる。それらの謎が明かされる時、僕たちの世界は大きく変わるのだろう。
第三話 了
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