第25話 覚悟の一刺し

 パーティは、とうの昔に終わっていた。


 従者用の簡素な自室で、レノーアは机の上に広げた黒いビロードの上に、静かに視線を落としていた。

 そこに並べられているのは、無残に砕け散った『鞘』の破片。リゼロッテと、ヴェロニカと、三人で勝ち取ったはずの、ささやかな希望の残骸。

 その中央で、魂の色を失った心臓石のかけらが、月明かりを吸い込んで、ただ鈍く沈黙している。


 もう、元には戻らない。

 レノーアは、そのどうしようもない事実を、ただ静かに受け入れていた。


 脳裏に焼き付いて離れないのは、あの時の、ローゼンベルク家の三男。フェリクス・フォン・ローゼンベルクの姿。

 呪われた黒い腕を、何の躊躇もなくその手に取り、祈るように口づけを落とした、絶対的な愛情。


 その光景が、レノーアの中に残っていた最後の甘い希望を、完全に打ち砕いた。


 リゼロッテは、決して孤独にはならない。たとえ、その身にどれほどの呪いを宿そうと、彼女には、全てを受け入れて命懸けで守ろうとする家族がいる。


 それはつまり、リゼロッテはこれからも「生かされ続ける」ということ。

 彼女が生きる限り、呪いは存続する。

 ならば──屋敷で呪いに囚われ続ける妹エレアが目覚める日は、永遠に来ない。


 ――術者の死が、呪いを解く。


 ヴェロニカが何気なく口にした、冷徹な魔術のセオリー。

 地獄で見つけた福音のように聞こえたその言葉が、今や、レノーアに残された唯一の道標となっていた。


 レノーアは、音もなく立ち上がる。

 戸棚の奥、故郷を発つ時に主君から託された、一振りの短刀。その黒檀の柄を、冷たい指先で、しっかりとした力で握りしめた。

 するりと鞘から抜き放たれた刃が月光を反射して、彼女の真紅の瞳に決意の光を宿らせる。


 もう、迷いはなかった。


(お嬢様を、殺す)


 それは、妹エレアを救うための、唯一の道。

 そして。

 心の底から愛してしまった主人を、この、あまりにも過酷な運命から解放するための、唯一の「慈悲」なのだと。


 己自身に強く、強く、言い聞かせた。


 ***


 リゼロッテの寝室の扉には、鍵がかかっていなかった。

 レノーアは、息を殺し、影のように滑り込む。


 リゼロッテは、眠ってはいなかった。

 パーティで着ていたドレスのまま、窓辺の椅子に力なく座っている。

 その背中は、ひどく小さく、脆く見えた。

 月明かりが彼女の銀色の髪を、白く儚げに照らし出している。


「……レノーア」


 リゼロッテが振り返らずに、弱々しく呟いた。レノーアが来たことには気づいていたらしい。


「どうして来てくれたの。今の私は、あなたに触れることさえできないのに」

「…………」


 レノーアは答えなかった。

 ただ一歩、また一歩と、主人の背後へとその距離を詰めていく。

 手にした短刀の柄を、汗ばむ手で強く握りしめる。


「私ね、分かっているの。もう、元には戻れないって……。お兄様は何か特別な力で優しくしてくれたけど、私はまた皆を怖がらせて……あなたさえも……」


 リゼロッテの震える声。その言葉の一つ一つが、レノーアの心を鋭い刃となって切り刻んでいく。


 だが、もう止まれなかった。


 リゼロッテのすぐ背後で、レノーアは足を止める。

 そして、今にも張り裂けそうな心を最後の力で押し殺し、静かにその口を開いた。


「お嬢様。私は……私は、貴女をあやめるために、ここに参りました」

「……え?」


 リゼロッテが驚いて振り返る。

 その信じられないものを見る紫の瞳には、月光を浴びたレノーアの、涙に濡れた顔が映っていた。


「私は、お嬢様が信じてくださったような、完璧な従者などではございません。私は、お嬢様のお兄様……長兄アラリック様に雇われ、その命を狙う……ただの、刺客です」


 レノーアは、もう止まらなかった。


「……ですが、私は愚かでした。お嬢様にお仕えするうちに……その不器用な優しさに触れるうちに……心の底から、お嬢様を……お慕い申し上げるようになってしまったのです」


 それは、紛れもない、愛の告白だった。


「だから、こそ……!」


 告白の終わりは、決別の合図。

 レノーアは涙であふれる瞳のまま、リゼロッテの白い喉元めがけて、短刀を振り上げた。


「この手で、貴女を、呪いから……!」


 月光がきらりと、その刃に反射した。

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