第4話 闇夜の訓練

村長の田吾作が発した厳命と、かつて村を去った者たちの哀れな末路は、藤木村の大人たちの魂に深く深く刻み込まれていた。広場に集結した男衆の顔から、もはやかつての疑念は消え失せ、代わりに宿っていたのは、ひりつくような固い決意。孫兵衛の言葉に、彼らは一縷の希望を賭ける覚悟を決めたのだ。


「権太さん!その木材、もっと奥へ引き込んで!しっかり支えて!弐兵さん、そっちの縄は緩ませないで!一度緩めば全てが水泡に帰すんです!」


孫兵衛の鋭い声が、漆黒の闇に響き渡る。月明かりと、いくつも焚かれた松明の炎の下、男衆は文字通り汗水を流し、砦の建設に没頭していた。現代の知識に裏打ちされた孫兵衛の設計図は、彼らの目にはまさに魔法のように映った。これまで彼らが知っていた土木作業とは全く異なる、効率的な組み上げ方は、驚きと同時に確かな手応えを与えていた。


「まさか、こんな夜中に、これほどのものができちまうとはな……」


権太が感嘆の声を漏らしながら、組み上げられたばかりの堅牢な壁を見上げた。疲労困憊のはずなのに、その表情には、言いようのない充実感が滲み出ていた。


「ああ、孫兵衛様は本当にすげえな!これなら鹿野村の奴らも、そう簡単には破れまい!こんな作り方、俺たちゃ夢にも思わなかったぜ!」


弐兵もまた、その手応えを全身で感じていた。その横では、一平や三太といった配下の子供たちも、大人たちに交じって資材運びや軽作業を手伝っている。彼らの小さな背中は、この村を守るという大きな使命を、確かに背負っていた。


「一平、この材木、もう少しだぞ!がんばれ!」


「はい!孫兵衛様!」


子供たちは孫兵衛の期待に応えるように、大人顔負けの働きを見せ、村人たちの士気を鼓舞した。彼らのひたむきな姿は、疲弊した男衆の心に、小さな火を灯すようだった。



しかし、孫兵衛の策はそれだけではなかった。日が暮れ、男衆が砦の建設に精を出す頃、村の別の場所では、普段は家を守るおなご衆の姿があった。


「おっかさん、本当にこれでいいのかい?竹槍なんて、まともに使ったこともないのに…」


松さんが不安げに尋ねる。彼女の隣には、竹さんや梅さん、そして村のおばあさんたちまでが、真剣な顔で竹槍を手に、ぶるぶると震えていた。その手つきは覚束ないが、眼差しには確かな決意が宿っている。


「いいかい、みんな!この竹槍は、敵がもし砦を突破してきたときに、間近で突き刺すものだ!決して怯んじゃいけないよ!一瞬でも躊躇したら、やられるのはこっちだ!」


孫兵衛の指示を受けて、彼女らに訓練を施しているのは、村一番の猟師の女房、お春さんだった。その手には、孫兵衛から渡されたもう一つの武器が握られていた。それは、まるで騎馬民族が使うような、しかしどこか見慣れない形状の弓だった。


「それと、こいつだ。よく見ておくれ!」


お春さんが掲げたのは、通常の和弓よりも短く、しかし異様なまでの剛健さを秘めた弓だった。それは、竹を中心素材とし、複数の層を重ねて作る**「三枚打ち」**と呼ばれる製法で作られたものだ。外層と内層に竹、中層には木材や牛筋が膠(にかわ)で強固に接着され、さらに側面には側木が貼られた、まさに「和弓の極致」とも言える複合構造の弓。江戸時代後期には非常に高度な技術で作られたものが存在したが、この戦国時代にこれほどのものが手に入るとは、まさに奇跡だった。


「この複合構造の短弓なら、女の細腕でもひける。そして――」


お春さんの言葉に、女衆は息をのんだ。


「矢の先には毒を塗ってある。もし相手が近づいてきたら、遠くから射るんだ!」


毒矢と聞いて、どよめきが起こった。


「毒だって!?」


「そんなもの、本当に効くのかい?相手は武士だぞ!」


松さんが思わず声を上げたが、孫兵衛は昼間のうちに、その毒の作り方と効能について詳しく説明していた。それは、この土地に自生する植物から抽出した、即効性はないものの確実に相手の体力を奪う毒だった。


「安心しな。すぐに死ぬような猛毒じゃない。だが、当たれば間違いなく奴らの動きを鈍らせる。その隙に、男衆が仕留めてくれるさ」


お春さんの力強い言葉に、女衆は覚悟を決めた。ひ弱な村長の息子が持ち込んだ、見たこともない戦術、毒矢、そしてこの高性能な短弓。それは、彼女たちの心に、新たな闘志の炎を灯した。



さらに、孫兵衛は砦の周囲に恐るべき罠を仕掛けていた。それは、木製のまきびしである。ピラミッドの角を一つ減らしたような形で、その先端はワラジで踏めば足の骨まで達するほどの鋭利さを持っていた。そして、その先にも、少量ながら確実に体力を奪う毒が塗られていた。


「このまきびしは、奴らの足を止め、混乱させるためのものだ。数が多いほど効果は増す」


また、砦の中では、キビ、アワ、ヒエ、ドングリを少し溶かし沸騰させて粘着性を増した薄い粘液が、大鍋で煮立てられていた。


「これは、塀を登ってきた敵に浴びせる。普通の熱湯より、粘液だからその場に留まり、熱い液体が効果を持続させて、被害を大きくする」


孫兵衛の指示を聞く村の男衆は、その残忍さに思わず顔をしかめた。しかし、これは命を懸けた戦いなのだ。彼らには、もはや躊躇している暇などなかった。


そして、沸騰させた粘液が尽きた後の最終手段として、砦の内部には肥溜めも用意されていた。


「この肥溜めは、粘液が切れた後に使用する。敵の戦意をくじき、何より矢傷や擦り傷から雑菌が入り、化膿させる。二段構えだ。奴らにとっては、まさに地獄となるだろう」


村人たちは、孫兵衛の徹底した、そして非情なまでの知略に、恐怖すら感じ始めていた。しかし、それこそが、この乱世を生き抜くために必要な覚悟だと、孫兵衛は知っていた。彼は村人たちに、生き残るための「覚悟」を強いることで、彼らを真の戦士へと変えようとしていた。


夜が更け、それぞれの場所で訓練は続いた。砦を築く槌音、スリングが石を放つヒューンという風切り音、そして、女衆が竹槍を構え、短い弓を引き絞るかすかな音が、闇夜に溶けていく。村のおじいさんは、そんな村の様子を縁側から静かに見守っていた。その目には、不安と、しかし確かに希望の光が宿っていた。


「田吾作も、孫兵衛も……ようやってくれとる。この村は、まだやれるかもしれん」



その頃、鹿野村では、藤木村の異常な動きに関する報告が、源七のもとに次々と舞い込んでいた。


「源七様!藤木村の奴ら、夜な夜な川のほとりで何か大きなものを造り続けていると!砦のようなものが、まるで一夜のうちに姿を現したかのようです!」


「しかも、村の女衆までが、妙な訓練をしていると、やまぶしが申しております!何か、奇妙な弓を使っているとも…」


報告を聞くたびに、源七の顔色は険しくなっていった。


「馬鹿な……あのひ弱な藤木村が、何を企んでおるのだ……。まさか、田吾作め、何か隠し玉でもあったか…」


最初は嘲笑していた源七だが、連日の報告は無視できないものになっていた。特に、これまで戦には全く出てこなかった藤木村の女衆までが訓練しているという情報は、彼に不気味なものを感じさせた。これまで幾度となく蹂躙してきた弱小村が、まるで牙を剥こうとしているかのような異様な気配。


「一体、どんな手を使ったのだ、田吾作め……しかし、もはや看過できぬ!」


焦燥に駆られた源七は、ついに決断を下した。その表情には、苛立ちと同時に、微かな恐怖の色が浮かんでいる。


「全兵、準備せよ!明日の未の刻には、藤木村に向けて出陣する!奴らが何を企んでいようと、その前に叩き潰す!これ以上、あのような不気味な動きを許してはならぬ!」


鹿野村の男衆は、源七の号令に地響きを立てて応じた。彼らは、これまでのように藤木村を軽く見てはいなかった。得体のしれない不安と、それに打ち勝とうとする攻撃的な衝動が、彼らの心を支配していた。彼らの脳裏には、藤木村が秘める「何か」への警戒と、それを力でねじ伏せるという本能的な欲求が渦巻いていた。


藤木村では、孫兵衛が空を見上げていた。月はすでに西の空に傾き、夜明けは近い。東の空が白み始め、新たな一日が始まろうとしている。


(いよいよか……)


彼の視線の先には、闇の中にぼんやりと浮かび上がる、二つの砦の影があった。その砦は、村人たちの血と汗の結晶であり、そして彼らの覚悟の象徴でもあった。そして、その背後には、竹槍を構え、類稀なる強靭さを秘めた和弓を持つ女衆の覚悟が、静かに息づいていた。


戦国時代の、そして現代の知識が、今まさに交錯しようとしていた。藤木村の運命をかけた戦いが、刻一刻と近づいている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る