公転引渡航路補償証券

風見 悠馬

公転引渡航路補償証券

ハドソン・ヤードの摩天楼、82階。男の名はカイ。彼のオフィスは、人類がたどり着いた最も奇妙な産業の司令室だった。壁一面のモニターには、無数の緑と赤の光点が瞬いている。それは太陽系儀。一つ一つの光点は、実際に宇宙を航行する無人超質量船団「マス・ムーバー」の現在位置だ。そして、その船団の未来の航路そのものが、彼の目の前のスクリーンで、金融商品として激しく売買されていた。


その商品の正式名称は、公転引渡航路補償証券。英語名、Compensated Annual Trajectory Security。市場での通称は――CATS(キャッツ)。


CATSの起源は、宇宙航行における物理法則の応用だった。資源輸送のため、各企業が運用する無人の超質量船団は、地球の引力を利用して加速する「加速スイングバイ」を行う。中でも最大手であるエクリプティカ社の船団は、その圧倒的な規模と航行回数から市場に最も大きな影響を与え、CATSの主要な供給源となっていた。


逆もある。「減速スイングバイ」だ。帰還する船団は、地球の公転に逆らう形で接近し、自らの運動エネルギーを地球に「与えて」減速する。その結果、1年は「短く」なり、これは市場に存在するCATSを「消費」する行為と見なされた。


G-TEX(グローバル・テンポ取引所)は、この二つの物理現象を金融化した戦場だ。カイの仕事は、その頂点に立つことだった。彼は単なるブローカーではない。彼は、実際に太陽系を航行する無数の船団の「未来の軌道」そのものを取引していた。「3ヶ月後に木星付近を通過する船団KB-207の減速ポテンシャル」といった金融商品が、リアルタイムで売買される。彼のクリック一つが、経済原理という名の神の手となり、物理法則そのものをハッキングしていく。


「カイ、またです。IAOOの公転データに、微細なゴースト・ノイズが」アシスタントの声が響く。「原因不明ですが許容誤差内。市場は無視しています」

「……どうせエクリプティカが、未報告の小型船でも飛ばしているんだろ。連中の隠蔽工作はいつものことだ」

カイは吐き捨てるように答えた。だが彼の視線は、デスクの隅で不規則に痙攣するメトロノームに注がれていた。惑星規模のデータ異常と、この小さな機械の震え。無関係なはずの二つが、彼の精神の奥深くで不気味な和音を奏でていた。


しかし、その破滅の元凶であるエクリプティカ社のトップ、一度もメディアに姿を現さない会長については、奇妙な噂が絶えなかった。「徹底した合理主義者だが、唯一の例外が、正体不明の環境保護団体への巨額の匿名寄付だ」と。市場のトレーダーたちはそれを「地球をスイングバイで削っておきながら、笑わせる。ただの節税対策か気まぐれだ」と嘲笑していた。


カイも、その意見に同意だった。なぜなら、彼だけがシステムの真の終着点を知っていたからだ。

非公開論文「ラプラス・リミット」。公転エネルギーの過剰な搾取は、地球を太陽へと落下させる臨界点へと近づける。彼は、自らが動かすCATSのチャートが、実は破滅への秒針であることを知っていたのだ。彼は全てを終わらせることを決意した。一夜にして、この傲慢な市場そのものを、内側から破壊する準備を整えた。


最後のエンターキーを押した、まさにその瞬間。

オフィスに鳴り響いたのは、彼の不正を知らせる警報ではなく、惑星からの悲鳴だった。

モニターというモニターが赤一色に染まり、IAOO(国際公転監視機構)からの緊急警報が割り込む。

『太陽系外縁部より、未確認の大質量天体接近。進路予測…地球軌道』


ノイズ。カイの脳裏を、エクリプティカの仕業だと無視してきたデータが貫いた。そして悟る。デスクのメトロノーム。あの不規則な痙攣は、彼の妄想の産物ではなかったのだ。あれは、この巨大な天体が引き起こす、観測不能なほど微細な重力の「揺れ」そのものを、古風な振り子が忠実に拾っていたのだ。彼のオフィスには、ずっと前から宇宙規模の危機を告げる、小さな地震計が存在していたのだ。


絶望が世界を覆う中、IAOO解析官が震える声で告げた言葉が、全てをひっくり返す。

「……信じられませんが、報告します。再計算の結果…もし、この数十年間のCATS取引による公転周期の累積的な『遅延』がなければ…我々の惑星は、未知の天体と完全に同一の座標を、完全に同一の時刻に…通過していたと結論付けられました」

カイは、その言葉の意味を誰よりも早く、そして正確に理解した。

「つまり…俺たちが地球から盗んできた時間が、衝突までの距離になっていたってことか…」


世界はパニックから、次のステージへと移行した。G-TEXの心臓部に、カイを司令官とした特別対策室が設置される。市場を破壊しようとした男が、今度は市場を最大効率で動かすためのリーダーとなった。

「これはもう金融取引じゃない。我々は今から、太陽系そのものを盤上とした戦争を始める」

カイの宣言と共に、G-TEX市場は人類の存亡を賭けた軌道制御システムへと変貌を遂げた。


「火星軌道上の船団フリートCに、最大減速ポテンシャルで入札!とにかく地球の時間を稼ぐんだ!CATSを買い支えろ!」

「カイ!ダメだ!売り圧力が強すぎる!『時間を売って』現金化しようとする連中が、市場を崩壊させようとしている!」

「それだけじゃない!物理的に最適な位置に、減速可能な船団がいない!最も近い船団はヴァルカン・ポイント4、到着まで3時間!それじゃ間に合わない!」


それは金融的な危機であると同時に、物理的なリソースの枯渇との戦いだった。資金が尽きるか、最適な位置にいる船団が尽きるか。モニター上で繰り広げられるのは、抽象的なチャートの動きではなく、リアルタイムの艦隊運用シミュレーションだった。


そして運命の日。天体が地球に最接近する数時間前、最悪の事態が訪れた。

「カイ!大手格付け機関が地球の『存続可能性』をトリプルCに格下げ!パニック売りだ!全てのCATS買い注文が消えた!」

モニター上のCATSチャートが、奈落へと落ちる滝のように急降下を始めた。目標座標からのズレが、刻一刻と危険水域へと近づいていく。もはや打つ手はない。誰もがキーボードから手を離し、終わりを覚悟した。


その時だった。

「…なんだ、これは…?」

暴落していたCATSチャートが、ありえない角度で垂直に跳ね上がった。単一の、圧倒的な「買い」が市場を飲み込んだのだ。

それは単なる資金の投入ではなかった。

「カイ!見てくれ、太陽系儀を!」

対策室の誰もが息を呑む。それまで商業航路に従ってばらばらに動いていた緑の光点――エクリプティカ社の全船団が、一斉に、まるで一つの生命体のように、その針路を地球へと向けたのだ。


ヘッドセットに、重厚な老人の声が割り込んでくる。彼がエクリプティカ社会長その人だった。あの噂の人物。

『――長年、我々は地球から時間を奪ってきた。ビジネスとしてな。だが、私の孫もこの星に住んでいる。我々が始めたこの仕組みだ。最後の落とし前は、我々がつける。全船団に通達!これより全ての商業航行計画を破棄し、G-TEXへの売買委託を停止!現時刻をもって、エクリプティカ社の全マス・ムーバーは、私の直接指揮下に入る!目標はただ一つ、地球軌道の絶対防御!損失は問わん!』


彼らが投入したのは、金銭的価値ではない。自社の事業そのものである物理的な艦隊全てを、地球の盾として捧げたのだ。


長い、長い沈黙の後。

IAOOから最終報告が入る。

『…天体は、予測回避ポイントを通過。地球への重大的影響は…回避されました』


歓声が、世界中のトレーディングルームから沸き上がった。人々は泣きながら抱き合い、紙屑同然となったはずの自国通貨を宙に放った。

カイは静かにヘッドセットを外し、ふとデスクの隅に目をやった。

ずっと沈黙を続けていたメトロノームが、まるで生まれたての赤ん坊のように、ゆっくりと、しかし驚くほど正確なリズムで、再び時を刻み始めていた。

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