第3章 部屋とヴァンパイアとあたし
不健康は、嫌
「はっ、はっ、はっ、ふーっ……はっ、はっ、はっ、ふーっ……」
3回吸って、1回で吐く。……中学時代、下校途中にすれ違った陸上部がやってた呼吸法だ。習った訳じゃない見様見真似だけど、すっかり習慣になっていたそれは、たったか走るあたしの全身に滞りなく酸素を行き渡らせていく。
そう、習慣。いつも通りの、変わらないルーティン。
……色々、あり過ぎた1日だった。あの後、真っ当な授業もちゃんと……ちゃんと? うん、まぁ、うん、受けた。受けはした。内容全然分かんなかったけど、出席はした。
そりゃあ、普段から授業なんてまるで理解できていないけれど。
今日は輪をかけてそうだった。……無理もないじゃんか。こんな一気に情報をぶち込まれたら、どんなスーパーコンピューターだってショートする。
「はっ、はっ、はっ、ふーっ……はっ、はっ、はぁ、ふ、ぅっ……」
――――まだ、いつもの半分も走っていないのに、身体が重い。胸が苦しい。
河沿いの、一段高い土手を舗装して造られた、石畳のジョギングコース。柔らかく街灯が照らすそこを、普段よりずっと遅いペースで進んでいく。昨日より少し丸みを帯びてきた月の下に、人影はいない。あたしひとりが走路を独占できて……だけど全然、その恩恵を活かせてはいない。
「はっ、はっ、はっ、はっ……っ、は、ぁーっ……ふーっ、ふーっ、はぁ、はぁ……」
ガタガタのペース。崩れっ放しのフォーム。鉛を詰まらせたみたいに澱む胸。
……不健康だ。『いつも通り』から外れた今は、酷く不安定で、頼りない。
――――いつしか、自然と脚は走るのを諦めてしまって……じくじくと、疲労を滲ませたまま、惰性で歩を進めるばかりの竹馬と化した。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……――――は、ぁぁぁ……どう、しよう……」
中学で買わされた、毛玉だらけの紫ジャージ。拭けども拭けども溢れる汗を、何度も何度も袖でこすりながら、あたしは、まだ嘲笑の形を崩さない月を見上げて呟いた。
……この世界には、吸血鬼がいて。
ほんのちょっぴり、人間に助けてもらわないと生きていけない彼ら彼女らのために、私立藍堂学園は造られた。『結び』って制度で人間と吸血鬼はペアになり、吸血鬼はその相手からしか生きるのに必要な栄養を貰わない。人間は、爪とか髪とか、吸血鬼に必要なものを差し出す代わりに、学費を減らしてもらえたりする。
……大丈夫。ここまでは理解している。納得もした。……勘違いを、反省もした。
和ちゃんに言ったら「いや、あれは京古の言い方が10割悪いから」って言ってくれたけど……はぁ、結局謝れなかったなぁ、睨んじゃったこと……。
――『っ……許さなくてもいい、謝んなきゃ気が済まないだけなのだ』
「はぁ、はぁ、はぁ、は、ぁ…………そう、だよね……静海、くん……」
腰に下げた水筒から、薄い塩水を呷って、味わうことなくごくりと飲み込む。
……あの人の気持ち、あたしは、よく分かる。『申し訳ない』っていう気持ちが、重荷が、ずっと胸の中に居座る不健康が、泣きたくなるくらいに
「けど、でも……………………うぅぅぅぅぅぅぅぅ、あぁぁぁぁぁぁ~……」
胸に続いて頭まで痛くなってきて、土手と、河原へ続く斜面とを仕切る柵へと身を投げ出した。……整備されたばかりだからか、思い切り身体を預けてもビクともしない。
静海くん――――鬼久手静海くん。
和ちゃん曰く、『例外中の例外』。『問題児』。『吸血鬼殺しの吸血鬼』。
……吸血鬼の血しか、栄養として受けつけない、吸血鬼。
彼は……何故か、あたしの血を吸おうとしてきた。あたしと、『結び』を交わそうとしてきた。……和ちゃんは、静海くんの本能がそう察してるんだから間違いない、なんて言うけれど……正直、自分が吸血鬼の要素を持っているだなんて、未だに信じられない。
信じられない、けど。
もっと信じられなくて……まったく、共感できないことまで、今日、知ってしまった。
「…………10年、とか……正気の沙汰じゃない、よ……」
人間は、水以外の食料を断たれたら、最長でも1ヶ月しか生きられない。
それどころか一食抜くのだって、不健康極まりない愚行だ。
間違っても、あたしはやりたくない。1日3食、朝昼晩。規則正しい食生活が、身体の基礎を作ってくれるんだ。健康はまず食からだ。それを疎かにするだなんてとんでもない。
そんな、とんでもないことを。
10年……人生のほとんどを、じゃあ、あの人は……。
「っ……分かってる、分かってるんだよ…………分かってよ、もう……っ!」
藍堂学園の『結び』制度は、人間と吸血鬼とのペア制度だ。
だから、吸血鬼の血しか吸えない静海くんには、意味がない。ないはずだった。……あたしっていう、例外が現れるまでは。
人間なのに、何故か吸血鬼の因子を持っているあたしなら。
静海くんと『結び』を交わせる……血を、吸わせて、あげられ――
「っ…………っ!!」
あぁ、あぁ、ダメだ。どうしてもダメだ。首に腕が巻きついて、身体が震えてしまう。
恐い。恐い。恐い。恐い。
……知っているんだ。内臓系の疾患は時に、静かに進行する。唐突に牙を剥いて、呆気なく命を奪ってくる。知ってる。だってそれを、目の前で見ているんだから。
吸血という行為に、その危険性が付き纏う以上、あたしは、この恐怖を拭えない。
「でも……でも、でも……!」
柵に沿うようにしてへたり込みながら、ぶつぶつと自分でも聞き取れない声で呟く。
流れる汗が運動の成果か、それとも脂汗なのか……それすら分からず、ぽたぽたと流れ落ちるまま放置した。……顔中を這ってくるその感覚に、構う余裕があたしにはなかった。
……仮に、静海くんの言う通り。
髪とか爪とか、そんな軽い代償で済むような吸血鬼と『結び』を交わせば……あたしは、なんの支障もなく学園にいられるだろう。3年間、学費無料で高校に通えて、内申点までオマケしてもらえて、……いいこと、尽くめだ。そうだとは思う。
――『オレ、は……っ、他人を傷つけてまで、食事にありつくくらいだったら……っ』
――『死んだ方が、ずっとマシなんだぞっ!!』
……でも、ああまで言ってしまう静海くんは、きっと。
本当に、食事をしない。あたしがのほほんと、和ちゃんや褒ちゃんや硝くんと楽しく過ごしている裏で……絶食の期間を、10年から13年へとレベルアップさせるだろう。
そんな人がいるのを、見て見ぬ振りして放置して。
あたしだけが美味しい思いをする――――飢える静海くんを。見て見ぬ振りして。
「それ、は…………不健康、だよなぁ……」
――――どうしよう、って、そんな疑問にだから、あたしはまた、堂々巡りする。
あたしは、血を吸われたくない。血管に牙を突き立てるなんて、そんな不衛生で不健康なこと、絶対にしてほしくない。
でも、静海くんを放っておくのも嫌だ。
他人を傷つけたくなくて、それで10年も絶食するような優しいあの人を、放っておいてしまうのが、嫌だ。
……こういうの、ダブルバインド、って、いうんだっけ……?
「…………ねぇ、あなたなら……なんて、応えたかな……?」
ズキズキと、頭が痛み過ぎて泣きそうになる。
自他共に認めるバカな脳味噌は、上手い折衷案のひとつも捻り出せない。ずっとずっと、『嫌だ』『恐い』の声たちが邪魔してくる。
……吸血鬼がいるなら、幽霊はいないのかな? まだ夜の早い時間だけど、出てきてくれないかな。
教えてよ……あたし、バカだから全然、思いつかないんだ……。
「ねぇ……どうすればいい……? ……おと――」
弱気に潰され、滲み出てしまった泣き言を、でも、あたしは言い切らずに済んだ。
何故なら――
河辺を舗装した、ベンチ完備の遊歩道から、調子っ外れの弦楽器みたいな、異様な重低音が聞こえてきたから。
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