吸血鬼は実在します
「――――で、その……まぁ、なんとか追い払ったっていうか、退散してもらった訳なんだけど……けどやっぱ、怖さが残ってたみたいでさ……布団入っても、全然寝つけなかったの。……多分、ほんの30分くらいだと思うけど……」
程よく醒めてきた眠気は丁度いい潤滑油になって、あたしの口をすらすら回した。
あたしの机に座る和ちゃん。自席に着く硝くん。ふたつの机の狭間に突っ立った褒ちゃん。……普段とは真逆、不気味なくらい静かな3人に、あたしは昨日あったことをつらつらと披露した。……自分の口で、言葉にして語るとやっぱり、現実味に乏しい出来事だ。
いきなり、すぐ目の前の街灯めがけて人型のなにかが飛んできて、激突して。
ひしゃげて折れた街灯を背に、明らかに吸血鬼な男が立ち上がってきて。
ぼたぼた血と涎を流しながら、あたしの血を狙って近づいてきて。
…………まぁ、なんだかんだあった末に去っていった。――――トピックだけ纏めると余計に酷い。とてもAIが幅を利かせる現代の事件じゃない。
……ただ確かに、いざ口にしてみると。
バカバカしさとか、滑稽さとか、荒唐無稽さとかが透けて見えるような気がして、正直、すっきりした感はある。……一点、どうしても話せないしこりは残るけれども、それでも、澱のようにこびりついていた胸の不快感は、ぽろぽろと剥がれていったように思えた。
「…………リル、あなたそれ――」
「あははは……もうっ、みんななんでそんな真剣に聴いてんのさ。笑わないでくれたのは、ありがたかったけど……でもさ、どうせ夢だよ、ゆーめ。高校進学でドタバタしてたから、疲れて白昼夢でも見たんだよ。夜中だったけど」
だーってさぁ。
――――まるで名探偵みたいに、顎へ指を絡ませてあたしを見下ろす和ちゃんを、ひらひら手を振って制する。
だって、あり得ないんだ。こんなの、現実なはずがない。証拠だってあるんだもの。
「吸血鬼が激突して折れちゃってた街灯、今朝学校来る時に見てみたら、折れてるどころか傷ひとつなかったんだもん」
そう、それが凄く凄く、憂鬱だった。
……朝、怖々と見てみたら、通学路も兼ねたジョギングコースは極めていつも通りで。
街灯も石畳も河のせせらぎも、教室の様子すらなにひとつ変わっていなくて。
ずっとそれが、もやもやして気持ち悪くて、噛み合わなくって不愉快だった。
――――けど。
「あははは……だからさ、やっぱり単なる夢だったんだよ。寝つきが悪くなるくらいに、リアルなだけの夢。ふわ、ぁぁ……ごめんねぇ、みんな。心配してくれたのに――――まぁ、吸血鬼なんて非現実的なオカルトを、笑わずに聴いてくれただけでも感謝す――」
「は?」「ふぇっ?」「あぁ?」
――――サラウンドな疑問符の和音に、あたしは思わず、固まってしまった。
3人の視線が、じっとあたしの眼へと注がれてるのが分かる。ただ……意味合いは、それぞれ違っていそうだった。
和ちゃんは驚愕。褒ちゃんは困惑。硝くんは……呆れ。
…………え? なに? ……あたし、なんか変なこと言っちゃった?
「……リル、あなたニュースとか見ないの? 新聞は? スマホでも見れるでしょう?」
「え、だ、だって、うち、テレビないし新聞も取ってないし、スマホも持ってない……」
「リル、さん……学校の、授業……受けてた、です……?」
「……………………ノーコメントで」
「入試問題にバッチリ出てたやんけ。もう忘れたんかいなこんの鳥頭が」
「あ、あたし、入試受けてないもん! 特別枠の特待生だもんっ!」
――――自虐みたいで嫌だけど、夜霧家は貧乏だ。死んだお父さんの遺した借金を返すべく、馬車馬の如く働くお母さんは、年に数回しか家には帰ってこない。そんなレベルで働き詰めなくらいに貧乏だ。だからテレビも新聞も、スマホにすら縁がない。
……スマホはまぁ、あたしの方が断ってるだけだけど。
そんなあたしが、私立でしかも新設校であるこの藍堂学園に通えているのは、夏の学校見学会の時に、学費免除の特待生として招いてもらえたからだ。無料で開催していた身体測定に参加したら、なんだかめちゃくちゃ褒められて、是非来てくれとまで言われてしまった。学費は要らないって言うから、あたしとしては渡りに船だったのだ。
逆にそれがなかったら、絶対にこの学校には入れていない。
そもそも私立に入る選択肢自体なかったけど――――あたしに、このあたしに、夜霧リルに受験の問題なんて解ける訳がないんだから!
「え、え? なに? なんなの? なっ、なんで3人とも、深々と溜息なんか吐いてるの!? や、やめてよそういうの! 普通にバカにされるより心にクるよっ! ストレスは健康の大敵なんだよっ!?」
「……あぁ、ごめんなさいねおバカさん。そうよね、リル、あなたってバカだものね」
「ストレートにバカにしていいとまでは言ってないけどっ!?」
「ほんなら訊くけどな夜霧、我は現代日本で生きていて、ホッチキスを知らん言う奴がおったらどう思う? 虚仮にするより先に困ってまうやろ? それが今の儂らや。察せ」
「へ? は? な、なにそれ、どういうこと? 全然意味が分かんない――」
「あ、あのですね、リルさん……」
と。
褒ちゃんはたっぷり左右へ目を泳がせた末、凄く凄く言いにくそうに、言ってくれた。
「……吸血鬼、は……実在、するです、よ……? ……11年前、には、もう、国連、が、存在を、認めて……日本、でも、人権、が、認められて、いる、です……」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
……あの、ごめんちょっと、今、言葉がすとんと脳に入ってこないんだけど。
……聞き間違い……は、さすがにないか。じゃああれか。さっき褒ちゃんのおっぱいに埋もれた時、そのまま寝ちゃってたんだ。だからほら、これも夢――
「……………………あ、れ……? ほっぺた、痛い……?」
「……ただでさえ驚かされたっていうのに、それを即座に更新してくるとはね。本当、予想外――――まっ、だから私、あなたのことが好きなのだけどね。リル」
ふに、ふにふに、ふにっ、って。
机の上から、放心して無防備なあたしの胸を、和ちゃんがつついてくる。……別にこんな貧相なもの、触られたって特に損もないから構わないけれど。
和ちゃんの、触ってくる指の感触も、ちゃんと、ある。
っていうかそういえば、さっき褒ちゃんのおっぱい触るのを阻止された時も、叩かれて痛かったっけ…………。
……………………え……じゃ、じゃあ――
「……いる、の? 吸血鬼って……じゃあ、じゃあ昨日のって! 夢じゃなかったのっ!? 現実だったのっ!? えっ…………あたし命の危機だったのっ!?」
「まっ、端的に言えばそういうことになるわなぁ。はぁ……ほんま、最初から驚き通しだったで儂らの方は。まっさかこのご時世に、人間様を襲いはる吸血鬼がおるとはなぁ」
「っ…………」
「『ヴァンパイア人権法』によって、今や全ての吸血鬼が戸籍登録され、人間と同等の義務を負い権利を得た時代。つまり、人間を襲えば吸血鬼は罪に問われるっていうのに…………本当、呆れ果てる……」
硝くんが嘆息して、褒ちゃんがおどおどして、和ちゃんが滔々と語ってる。
……とてもじゃないけど、あたしを担ぐための演技には見えない。
じゃあ……じゃあ、本当に、本当にいるんだ。本当なんだ。
吸血鬼は――――だから昨日、あたしは本当に。
吸血鬼に、血を狙われて…………それ、で――
「そっ、それにしても……よかった、です……!」
「わ、ふっ!?」
穏やかだし、嫋やかだし、静かだったけど、でも逆らえないくらい自然で力強い抱擁。
音もなく近付いてきた褒ちゃんが、ぎゅうって、あたしの頭部を抱き締めてきたのだ。……柔らかいし甘いしあったかくて、せっかく醒めてきた眠気が再発しそうになる……。
「ほ、褒ちゃん? よかったって……あたし、一応、襲われて恐い思いしたんだけど……」
「でも……血、吸われてない、ですよね? 怪我、も、ない、ですよね? ……よかったですぅ……リルさんが、無事で、なによりです……!」
「っ……あ、ありがと……」
危ない。あたしが主人公枠の男の子だったら確実に堕ちてた。
無自覚だろうし無意識なんだろうけど……ヒロインとして100点満点なんだよなぁ、この娘。混じりっ気なしの善意と優しさで触れさせてくれてるのが分かっちゃうから、褒ちゃんから来られると逆に手が出しにくい。
「き、気を付けなきゃ、ですよ? リルさん。吸血鬼って、恐いんです、から」
少し身体を離すと、今度はしゃがみ込んできて、上目遣いであたしのことを見てくる褒ちゃん。……なんだろう、この娘どこかの専門学校でヒロイン学でも専攻してんのかな。
「……そ、そう、なの……? でも、もう10年以上前に、人権だって認められて――」
「そ、それでもです! 吸血鬼はですね! ひ、人の生き血を狙って、と、突然襲いかかってくるんです! 変身とか魅了とか、いろんな手練手管で人間を狙ってくるんです! っ……い、一度、狙われちゃったんですから……リルさん、気を、付けないと……」
「わ、わわっ、な、泣かないでよ褒ちゃん! もう、本当に泣き虫なんだから……その、でも――――本当、なの? 和ちゃん、硝くん」
「300年前までならね」
って。
和ちゃんはいつも通り眠たそうに、欠伸交じりに即答してきた。
「現代でそんなマンガみたいな吸血鬼、そうそういないわよ。……あなたが昨夜遭遇した奴は、例外中の例外だと思ってちょうだい。まったく、世話が焼ける……」
……なにかぶつぶつ呟いて、和ちゃんは不機嫌そうにガリガリ頭を掻いていた。せっかく綺麗な紫の髪が、乱雑に揺れていく。
……あたしが知らな過ぎるだけ、だとも思うけれど。
なんか、褒ちゃんも和ちゃんも、妙に吸血鬼について詳しいような……? 10年も前に人権を認められているんだし、それが常識なの? でも……その割には、ふたりの言葉に随分と隔たりがあるような――
「でも……その、ほ、本当に、凄いこと、なんです、よ? リルさんが、助かったの……」
ぎゅっ、って、小さなお手々であたしの手を包み込みながら。
膝を胸置きに使って目線を持ち上げ、じっと見上げてくる褒ちゃん。……あのさ、もしかしてだけど性癖捻じ曲げにかかってる? 天然だとしたら矯正を大分強く勧めるよ?
「きゅ、吸血鬼の、存在すら知らないのに……独力で、追い払っちゃうなんて…………一体、どんな方法を取ったですか? わたし……気に、なっちゃいます……!」
「っ……!」
「……そうね。私もそこは、気にかかっていたの。だってリル、意図的にそこだけぼかしていたものね」
っ……バレてる。上手いこと流したつもりだったのに、しっかりと引っ掛かりを持ってくれちゃってる……!
「せやなぁ。確かに、言われてみれば不思議やんなぁ」
褒ちゃんだけなら誤魔化せた。和ちゃんが加わったら絶望だった。
その上、にやにやと頬を歪ませた硝くんまで乗っかってきたら……最悪の役満だ。
……でも、でもまだいける。
言い訳は用意している。……言い訳っていうか、普通に本音だけど。
「翼広げて尻尾生やして……そないに吸血鬼性を全開にしおった腹ペコ吸血鬼を、我は退散させたんやろう? 夜霧。よっぽど頑張ったんやろなぁ、是非とも知りたいわぁどないな手練手管使たんか。完全なる興味本位やけどな、儂は」
「っ、野次馬根性丸出しだよね硝くんは……! あーうんそうだよ、頑張ったの! 頑張って追い払ったんだよ! だって吸血鬼だよ!? 首筋に噛みついてくるんだよっ!? 牙が血管に直接入ってくるんだよっ!? そんなの――――不衛生極まりないじゃんっ!!」
……そう、あたしが吸血鬼を恐がった、一番の理由が、それ。
人体の中で、口内は最も雑菌の多い場所だ。吸血鬼に噛まれるっていうことは、吸血鬼の口の中の雑菌が、あたしの血管に入り込むのと同義。血と一緒に全身を回って、心臓にまで巡ってくる雑菌たちが、どこでどんな悪さをするか分からない。そんなの恐過ぎる。
噛まれること自体が不健康だし。
その心配をすることそのものが、酷く、不健康だ。
「だから……だからあたし、必死になって吸血鬼を説得して――」
「そう。へぇ、そう。たかだか必死になった程度の説得如きで、あなたは、吸血鬼を追い払ったと言うのね? リル」
「へっ?」
奇しくも、褒ちゃんが脚を押さえてる所為で身動きが取れなかったあたしの。
顎をくい、と持ち上げて、和ちゃんが、至近距離でじぃっと、あたしを凝視してきた。
「っ、な、和、ちゃん……?」
「……さっきの褒の言を肯定する気は毛頭ないけれど、でも断言してあげる。そんなことであっさり引き下がるほど、暴走した吸血鬼に見境なんてない。……ねぇ、リル。教えて。あなた、そいつに一体なにをしたの? なにを言ったの――」
――――冷や汗が、頬まで伝っていくのが分かった。
褒ちゃんは興味本位だったかもしれない。硝くんが野次馬根性なのは確定。……けど、和ちゃんは違う。眠そうに半眼がちな眼が、鋭く尖るほどに真剣で。
なんで……なんで、そんなに問い詰めてくるのかがまず、分からなくて、そして。
一番の問題として――――あたしは、吸血鬼を追い払った説得の言葉を、絶対に、言いたくないのだ。
ただひたすらに恥ずかしい、考えなしのやらかし。咄嗟過ぎたが故の大失態。
言う訳にはいかない……だって、だって言ったら。
言ったら、絶対に――
「おらおらおらー、なーにくっちゃべってやがるでごぜーますかクソガキ共ー。ホームルーム始めやがるでごぜーますから、さっさと席に着きやがれでごぜーますよ」
「っ――――ほ、ほらほら和ちゃん! 先生!
「…………ちっ。
おおよそ教師らしくない言葉遣いで、バンバンと出席簿を叩きながら教室へ入場してきたポニテの女性――――猫屋敷京古先生が、今だけは救いの女神に見えた。
普段の授業だと、なに言ってんのかさっぱりだけど。
あたしのより何倍も濃い隈も、だらしなく着崩したスーツも、今は凄く頼もしい。
「和ちゃん、ほら、褒ちゃんも! 席、席戻んなきゃ! 怒られちゃうよ?」
「…………」
「あ、あうぅ……」
如何にも渋々といった調子で、ふたりはあたしから身体を離した。和ちゃんは床に足を付け直し、褒ちゃんは立ち眩みの兆しすらなく背筋を伸ばす。
ふぅ……よかったぁ。激詰めされてばっかりだったけど、当面の危機は乗り越えた。
……褒ちゃんと硝くんはともかく、和ちゃんはあの調子じゃ、あたしへの尋問を諦めはしないだろう。授業が終わるや否や、すぐ前の席から問い詰めてくるのは目に見えている。
けど、大丈夫。ホームルームと授業を含め、1時間のシンキングタイムがある。
その間になにか、なにか上手い言い訳を考えればいいんだ。吸血鬼を退散させた言葉を、脳味噌振り絞って捏造する。
だって、あんなこと絶対、言えやしない。
あんな、あんな本当、どうして口から飛び出してきたのか分からないような。
あんな――――恥ずかしい、言葉――
「んじゃ、ホームルーム始めやがるでごぜーますねー。えーっと、てめぇらには入学前から周知させてることだとは思いやがりますが……入学から2週間経ちやがりましたし、交友関係も固まってきた頃合いでやがりましょうよ。っつー訳で、今から『結――」
「――――っはぁっ!! はぁっ、はぁっ、はぁっ――――っ、見っつけたあぁっ!!」
「っ――――?」
ばさばさと、プリントの束を揺らしながら話す猫屋敷先生の声を、完膚なきまでに掻き消した、その声に。
教室中の誰もが、釘付けになる。勿論、あたしだって例外じゃない。唐突に響いた声への驚きに胸をさすりながら、ずっとずっと右の方へと目を向ける。
硝くんの後頭部を通過した、更にずっと右側。リノリウムみたいな薄緑の廊下。
開けっ放しになっていた扉に手をついて――――赤い髪をした男の子が、ぜーぜーと、不健康そうに肩を上下させているのが見えていた。
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