第4話 髑髏坂仁一の美術展

いくつか作品を見ていくことで気づいたことがある。

ここの作品はすべて、人体と「なにか」が掛け合わされている。

例えば一番最初のものは胴体と花。次に俺を迎えたのは、色とりどりの宝石の中にひとつだけ混じる目玉を模した石。それはまるでキャンディポッドのようで、きらきらと輝く瓶の中に目玉がひとつだけ落ちているというのはなんともシュールで、妙な可愛げを感じた。……これは、目玉と宝石の組み合わせだ。

次に俺の眼に飛び込んできたのは、すらりと伸びた美しい足だった。これも、マネキンにしては肌色が生々しい。しかしリアルな肌色の上にいくつものアンクレットが巻かれ、それらはひとつひとつがきらきらと光り輝いている。

多分、これらが単体で店にあっても目を引かれないだろう。むしろ、眩しくて目を逸らしてしまうかもしれない。この肌色の上にあるからこそ、そこまで眩しくない―――――というより、小難しく言うなら「調和している」。

どれもこれも悪趣味でグロテスクだ。けれどなんでか、俺の足は止まらない。瞳は作品の端々を余すところなく見つめているし、作品を見るたびに「これはどういうコンセプトなのだろう」と考える。

正直、楽しい。もしかしたらこれが「芸術を見る」というたのしさだったのかもしれない。

――――――――けれど、なんでだろうか。

楽しいのに、この作品たちを見ていると――――――なんでか、胸が嫌なざわめきを起こす。

キャンディポッドに入った目玉は、イラストで描かれるような可愛らしい色をした眼球ではなく俺たちと同じような黒いひとみだし、アンクレットが巻かれた足は今にも活発に動き出しそうだ。これも花瓶と同じく、「走るのが好きなひとだったのかな」なんてふと考えてしまい、そんなわけないだろうと瞬時に自分を否定する。その、繰り返し。

なんだか、不安になる。けれど足は止められない。なんとなく冥界下りという言葉についてもう一度思いを馳せる―――――――あれは、どうやって帰ったのだろうか。

帰る理由があったから帰ったのだろう。けれど、今来た道をもう一度戻る勇気や理由が確かにあったはずなんだ。なんだっけ…………?


「なんと。お客さんですか?」


地下に自分以外の人物の声が響く。静寂を切り裂くというよりは、ぬるりと侵入してきた。

「え、」

「おや、男のお客様……しかも『花瓶』に気圧されず、その奥まで入ってきてくださるとは。いやはや、なんて嬉しいのでしょう」

目の前にいたのは、帽子を被った紳士――――――だった。真っ黒い帽子にフォーマルスーツを纏い、目も髪も真っ黒な男だ。俺のよれよれのスーツと違い、彼の纏っているものはぱりっとしていて綺麗なものだ。ちゃんと手入れをしているのだろう。

それにしても――――――でかい。その地下ギャラリーの天井がそもそも低いというのもあるが、目の前の紳士には少々狭く、小さい空間に見える。そのくらい、でかい。二メートルくらいあるんじゃないだろうか。いや、まさか。

「あの、あなたは――――――こちらのオーナーさん、ですか?」

「いえ。私はあれらの作者です」

「さ、」

作者さんでしたか。そう言った俺の声はなんとも情けない色をしていた。

「はい。――――――おっと、自己紹介がまだでしたね。私の名前は髑髏坂仁一と申します」

「ど、どくろざかさん…………?」

「いわゆるニックネームという奴ですよ。本名はもっと凡庸です」

凡庸、らしい。一体どんな名前なのだろう。俺もまた自分の名前が凡庸だという自覚があったので、名刺を渡し自己紹介をした。

「田島……田島、陸と申します」

「おや、サラリーマンの方。なんとも素晴らしい」

「そんな偉いもんでもないですよ。普通です、普通」

「太陽が見ている時に堂々と働ける方は総じて素晴らしいのですよ。……そんな方がどうして我が個展に?」

聞かれたので、答えた。疲労の末午後休を取ったこと、地下へ繋がる階段へ吸い込まれるように入って行った事、足が止まらないこと。

べつに、「たまたま通りかかった」「気になった」だけでも良かったんだが。俺はなんでか、事細やかに説明してしまった。なんとなく、人と話したい気分だったのかもしれない。

髑髏坂さんはひとつひとつに相槌を打ち、そうして満面の笑みになった。

「それは嬉しい事です。――――――時に、田島様。貴方様は、ここまでの作品を見てどんな感情を抱きましたか?」

「―――――――え、それは………」

気持ち悪い。

生々しい。

けれど、「調和」を美しく思う。

芸術に触れて感想を言うなんて俺にしては珍しい。というよりめったにないことだ。けれど俺の口からはするすると作品への素直な言葉が出た。髑髏坂さんはどんどん口角が上がっていく。なんだかこの人、ずっと笑ってる気がする。そんなにお客さんが来てくれたことが嬉しいのだろうか。それとも、元々人が好きなのだろうか?

「忌憚の無い意見を頂けて大変光栄です。というより、とても嬉しい。中々感想を頂ける機会というのはありませんので」

「え――――――そうなんですか?こんなに個性的なのに?」

「はい。まあ、コメントに困るという気持ちもわかりますが。―――――――しかし、創作物にはやはり言葉を掛けて貰いたい。一言だけでも、それは作者にとって励みになるものですから」

「………俺は、作品を生む……みたいなのとは無縁なのでなんとも言えないんですけど。そういうのって、的外れなコメントが来たらどうするんですか?」

「ふふ、作品に的外れも何もありませんよ。確かに己が打ち立てたコンセプトこそありますが、見たひとの心の中にどんな感情が―――――言葉が浮かぶか、なんてのは自由ですから」

それと、と髑髏坂さんは続ける。

「私は、作りたいから作っている。溢れ出すアイディアは止まることを知らない。だからこそ、作り続けているのです」

「…………立派ですね」

「ありがとうございます。お互い、隣の芝は青く見えますね」

俺は生まれてこの方芸術家といういきものとここまで言葉を交わしたことがない。だからだろうか、なんとも―――――新鮮味があって、楽しい。

「あの……髑髏坂さんがお手隙であれば……その、作品の解説、なんかもお願いしたいな……と思うんですけど、可能でしょうか?」

「!」

髑髏坂さんはその大きな体を震わせて、そうしてまた嬉しそうに「是非!」と言った。

なんだか人懐っこいひとだ。こういう人は好ましい。

「では、私の左手にあるこちらから。……ふふ、解説なんてする機会が無いから緊張してしまいますね。先程も言ったように、湧き出る感想は人それぞれなので、断定するようなことは言いたくないのですが……なにから話そうかな」

言葉尻に年相応さが滲む。微笑ましさを感じた俺は、彼の左手に注目した。


そして血の気が引いた。


「――――――――――――――っわ………」

「タイトルは『恋人の聖地』。イルミネーションというものがあるでしょう?あれをイメージして制作しました」

「恋人の聖地」は、ハート型を模したものの上からイルミネーション用の小さなライトを取り付け、色とりどりの輝きを放つ作品だった。だが、そのハートを模したもの、は―――――――

「………男の手と、女の手……?」

手首が白鳥の首のように曲げられ、ふたつの腕がハートのかたちを作っている。今まで見てきた花瓶や足は女のものだった。ここで初めて、男のがっしりとした手が作品に使用されている。

「このふたりは、カップルですか」

そんな言葉がするりと口から出てきた。俺は一体何を言って、と思うと同時に「そうなのです」と髑髏坂さんの声が聞こえた。合っていた。なんだか俺自身も悪趣味だと言われているようで、少しだけ嫌な気持ちになった。誰に?少なくとも、髑髏坂さんではない。

「このふたりは、愛し合う一対のつがい。死して尚、ふたりは離れない。何故なら愛し合っているから。そして電飾で縛られているから」

なんとなく、作品のコンセプトは伝わる。死して尚離れぬ愛、離れさせてくれぬ電飾。けれど俺は同性を模した腕を見てしまったからか、なんとなく胸の中にあった疑念がふわりと浮上する。そんなことはない、はずだ。

「それではこちら、右手をご覧ください。こちらにありますものは『真実の隣人』という作品タイトルになっております」

「―――――――――――…………」

目玉を使った作品だ。さっきのキャンディポッドと同じく。けれど今回はひとつじゃなく、ちゃんと一対の目玉が使用されている。少し鳶色がかった瞳はまるで宝石のようにつやつやに磨かれ、まるでピアスのように加工されている。その下には白く品のあるリボンが揺れている。そうしてピアスは、………耳に、付けられていた。

そう、まるで人から千切ったかのように両耳だけがそこにあり、目玉を模したピアスがぶら下げられている。

「目は真実を見つめるもの。耳は真実を聞くもの。ゆえに隣人というタイトルを付けさせていただきました」

「…………………」

普通に目玉の正位置にあった方が近くないだろうか、という野暮な感想が湧いてしまった。そんなシンプルな感想が湧いて来るほどに、多分俺はもうすっかりこの環境に毒されているのかもしれない。

「(胴体……耳……目……腕……足……)」

ふいに俺は、昨日昼休みに社員食堂の小さなテレビで見たニュースを思い出す。そういえば、そんなニュースがやっていたような。なんて名前の事件だったか、どこで起こった事件だったか。冥界下りの話といい、俺の記憶にはぼんやりとした霞が掛かっている。その霞は払っても払っても取れてくれなくて、仕事や私生活において邪魔をしてくる。そういえば、かかりつけ医が「頭がすっきりするお薬も出しますか?」なんて先月言ってたっけ。この年の男にしては情けなく、その場では断ってしまった。なんだか、頭の中が書き換えられてしまうような気がしたからだ。

「………どうしましたか?顔色があまり優れないようですが」

「――――――――あ、ごめんなさい……ちょっと考え事をしてしまって」

「そういえば……先程仰っておりましたよね。休むための休みを取られたのだ、と。……どうです、少し休憩していかれては。コーヒーでもお淹れしましょう」

「あ、ありがとうございます……」

髑髏坂さんはにこやかに笑いながら裏口へと歩む。そうして俺はまた、ぽつんと一人になった。

「(なんだか普通の人だったな……)」

そりゃ、デカいしやたら丁寧だなあとは思うけど。作品の解説をしてくれたり、一服誘ってくれたり。エキセントリックな作品を作るわりには、案外まともだな……という印象を受ける。わかりやすく狂っているわけでもなければ言葉が通じないわけでもない。

「………………なんだ………」

ほっとしたと同時に、心の奥底で軽いショックを受けている自分に気づいた。

こんな特異な状況であれば、特異な人間にお越しいただきたかった――――――そんな本音を隠し持っている自分に、軽く驚く。普通の人であることに越したことはないだろ。

ああ、なんだか妙に頭の中がうるさい。

「(髑髏坂さんが来るまで他の作品も見ようかな……)」

ようやく鞄を床に降ろし、その他の作品に目をやる。まず俺の眼の中に飛び込んできたのはブレスレットだった。ピアスといいアンクレットといい、アクセサリーを作るのも上手いらしい。

「……………ん?」

ブレスレットはガラスで出来ており、透明なその中には赤いひものような物が入っていた。刺繍糸……にしてはどうもくすんだ色をしている。ガラス造りのものを作るなら、中に入っているべきなのは先程の宝石のようなきらきらしたものだろう。ところがこの中には、くすんだ――――――というより、若干汚い色をした細い糸のようなものが入っている。

「なんだろう、これ………」

「それは血管ですよ」

「わっ!」

唐突に降って来た声にまた驚く。振り返れば髑髏坂さんが柔和な笑顔を浮かべて立っていた。手にはお盆に乗ったふたつのマグカップと砂糖入れ、それにミルクのピッチャー。立ち上る香ばしい香りと細やかな気遣いに、少しだけ肩の力が抜ける。

「椅子もご用意させていただきました。まあパイプ椅子ですが……そちらに座って一息付きましょう」

「ありがとうございます。……おお、このマグカップ、真っ白で綺麗ですね。もしかしてこれも髑髏坂さんが作られた?」

「はい、そうです。滑らかで触り心地が良いでしょう」

真っ黒なコーヒーとのコントラストが若干眩しいくらいだ。そのマグカップは、なんのけがれも知らないとでも言うように真っ白で、すべすべしていて、触っていて気持ちが良い。

「これは……いい、ですね」

「でしょう?舌を這わせたくなる程の出来です」

変なコメントが返って来たが、俺が作品を褒めたことが嬉しかったらしい。髑髏坂さんはそのままブラックで手元の液体をぐびぐび飲んでいる。

俺は―――――――もう少し待とう。俺は猫舌なのだ、もう少し冷めたら頂く事にしよう。

「そういえば――――――ここにあるものは皆、リアリティがありますね」

「ええ、そうでしょう」

「そういえば、話の途中でしたね。あのガラスの中に入ってるの、血管って言ってましたけど」

「ええ、血管ですよ」

「…………コンセプト、という話ですよね?」

「いえ、正真正銘、あれは血管です」

「は」

そういえば目の前の男は、解説役を買って出てくれたけれど。

ここまで一回も、なんの素材が使われているかの話はしなかった。

ふいにコーヒーを落としかける。俺は慌てて目の前にあった机の余白にマグカップを置く。髑髏坂さんは悠々と、それを飲み続けていた。

「…………どうしましたか?飲まないのですか?」

「あ、ああ………俺、猫舌なので……」

「おや、それはそれは……面白いですね」

「面白い?何がですか?」

「だって、面白いでしょう。ヒトなのにネコ。私は猫舌ではないのでわかりませんが、田島様の舌はやはりざらざらとしていらっしゃるのですか?」

髑髏坂さんは。全く変わらなかった。コーヒーを勧めてくれた時も、作品のコンセプトを開設している時も、そして―――――――今でさえ。髑髏坂さんは柔和な笑みを浮かべていた。

「……………………」

「どうしました?今度は面白い顔をしてらっしゃる。田島様は……感情がよく顔に出ますね。素直で良い事です」

聞いてはならない気がする。


けれど俺は、好奇心に駆られた俺は。その言葉をたやすく口にした。

「もしかして、みんな本物ですか?」

「ええ、皆ほんものですよ」

髑髏坂は、笑みを浮かべたまま容易く答えた。


「―――――――――――……………」

絶句し、そして心臓が嫌な音を立てる。よれよれのシャツに冷や汗が滲む。

髑髏坂は細長い指をブレスレットに這わせ、落ち着いた声で喋り出した。

「これは『生命線』という作品です。ほら、手首を切ると大量出血するでしょう。縦に伸びるはずの血管を横に配置しアクセサリーという形にすることで、急所さえも装飾品にする危うさを表しております。これは……大変でしたね、血管だけ綺麗に抜く、というのは」

何事も無いように言う。きっと彼は木や粘土で作品を作ったとしても、同じように語るのだろう。そんな気がしてならない。冷や汗が、止まらない。

「まァ、血管というのは幾重にも伸びているので。失敗したとて他の部分から取れば良いのですが――――――ブレスレットを作る以上、それは手首のもので無ければならなかった。首や足では駄目なのです。手首で無ければ」

同じように、と彼は続ける。

「アンクレットを飾るのならば脚で無ければならない。それも、私の作品の色合いにマッチした美しい足で無ければ。ほら、ご覧ください。暖色を使った力強い色のアンクレットが多いでしょう?あれが似合うのは、やはりエネルギッシュな脚なのですよ。足首だけでは駄目なのです、足全体を飾ることで、どちらの美しさも強化される」

彼は、続ける。話を聞いてくれて嬉しいと言わんばかりに、笑みを浮かべながら。

「手足はまだ良いのですけどね。扱いにくいのは矢張り体の内部にあるものです。先程血管のお話をさせて頂きましたが、眼球というのは保存がしにくく加工もしにくい。しかし、モチーフとしては使いたいのがアーティストの性です。こちらの『真実の隣人』、そしてあちらのキャンディポッド……『甘い夢』は、苦労の末に生み出されたものです」

「ど、」

どうしかしてる、と。俺は震える声で、やっとそう言った。

髑髏坂はぴたりと解説を辞め、俺に向き合う。真っ黒い瞳が俺だけを映している、たったそれだけの事が矢鱈と恐ろしい。

「お、おまえ―――――――さっきから何言ってんだ……人間を加工して、作品に?あ、頭がおかしいんじゃないのか、」

「何故です?」

「なぜ、って。こんなことのために人を殺しておいて」

「おや、田島様。いけませんよ。私以外の芸術家にそんな事を言っては」

髑髏坂は仕方が無いとでも言うように苦笑する。なんだ、なにがおかしいんだ。

「芸術家にとって作品を生みだすことは生き甲斐にも等しい。私は、私の手で彼ら彼女らの第二の生を彩っているに過ぎない。私にとってこの作品たちは、我が子同然ですよ」

こんなこと、ではありませんよ?そう、念を押すように髑髏坂は言った。

「じゃ、じゃあ、人体でなくても」

「人体じゃなきゃ、駄目なんです。だって人間は、すべての生き物の中でも美しい造形をしているじゃあありませんか」

「だ、だったら。命を奪わなきゃいい。人間が好きなんだろう?命を奪う必要なんてない。ブレスレットだってアンクレットだって、生きている人間が付けている方がよっぽど綺麗に見えるんじゃないのか?」

「それじゃ、駄目なんですよ」

「なんでだよ」

「私は人間の造形をこそ愛しておりますが、人間そのものは醜くてしょうがない。喋らず、動かず。それが一番美しい」

「―――――――――――――――…………」


狂ってる、と思った。第二の生を彩る?そのために眼球だけや手足だけや胴体だけにされて、アクセサリーだの電飾だの花だのを添えられていたのか?

人間を愛しながら人間を憎悪している。そんなの、矛盾するだろう。

ただ目の前の男と話していると、何が正しいのかよくわからなくなってくる。どう考えてもこの場では俺の方が社会的には正しいのだが、彼の矛盾には正当性がある。ああ、俺もなんだかおかしくなってきた。

でも、でも―――――――確かなことは、ちゃんとある。


俺は、そんな恐ろしいものを見ていたのか。

「調和している」なんて思ったのか。

悪趣味であると思いながらも、好奇心だけで人の尊厳を踏みにじってきたのか――――――


「――――――――――ところで、貴方様の舌を。じっくり見せて頂けますか?」

「は」

「いえね。先程仰ったではないですか、猫舌と。ネコなのにヒト、ヒトなのにネコ。ふむ、アイディアが浮かびますね………」

「お、俺の舌も『作品』にするつもりか!?」


「――――――――――――しても、よろしいので?」



あからさまに彼の表情は、喜びを表した。

思わず後ずさる。髑髏坂は笑ったまま、俺に近づく。俺は成人男性の平均くらいしか身長が無い。営業で鍛えた足こそあるものの、この巨体に本気を出されたらきっと助からないだろう。

「おや……お帰りですか?コーヒーは飲んでいかれないので?」

「………お前みたいなわけのわからない奴が淹れた飲み物なんて飲んでたまるか」

「それは残念。貴方様にもそれの舌触りを味わってほしかったのに」

「それ、って」

「マグカップですよ。それ、骨で出来ているんです」


俺の最後の理性が鞄をひっつかんで、走った。

作品たちが俺を見る。お前はここに残らないのか、とでも言うように、責め立てるように俺を見る。堪らなくなって加速する。

引戸を乱暴にこじ開け、「豹の眼」の看板の視線を受けながら転がるように外へ出た。

階段は同じように薄暗く、ちかちかと切れかけの電灯が笑う。ああ、もう。どいつもこいつも笑いやがって!

俺はひたすら走った。走って、走って、永遠にも思えるほどの階段をひたすら駆け上がった。


そうして暗がりを抜けた先には、何も変わらない通勤に使う道だけが在った。

「―――――――――――――……………」

そうだ、あいつもこの景色もなにも変わらない。

俺だけが動揺して、自ら冥界へと足を踏み入れて、尊厳の破壊(あるいは創造)を垣間見て、コンセプトなんか考えて、芸術というのは楽しいなどと思い込み、狂気の一端に慄き、逃げ帰って来た。

外の世界は何も変わっていなかった。

思わず地下世界へ続く階段を見る。なんだかそこから無数の手が伸びて来て、俺をとらえて離さないような――――――そんな妄想をして、ぞくりと肌が泡立った。


イザナミはなにを食べたのか。

ペルセポネはなにを差し出されたのか。


多分俺にとっての「それ」は、あのコーヒーだったのだろう。

「(飲まなくて良かった………)」

きっと俺はあれを飲んでいたら、いや、あれに口を付けていたら。

人としてお天道様の下に出られることは、二度と無かっただろう。


「………………またお会いしましょうね」

そんな声がどこかで聞こえた気がした。


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