第3話 「華美な花瓶」
「…………………」
一歩、二歩と階段を降りていく。ちかちかと揺れる切れかけの電灯に、周囲に纏わりつくような薄暗い闇。真っ暗な帰路を歩くことくらいなんでもないのに、なんとなくこの状況の方が怖い。ごくり、と唾を飲んで下っていく。
どんなギャラリーなんだろう。
俺は昔読んだ本の「冥界下り」というフレーズだけが頭に浮かんでいた。ああ、どこで見たんだっけこの言葉。あれって、ちゃんと帰れるんだっけ?
ざわざわと心臓に靄が掛かる。階段は、まだ続いている。けれどどうも、帰ろうという気にはなれなかった。それは好奇心もあったが―――――なんというか、この空間を背にすることが怖かったのだ。薄暗闇から、なにか怖いものが出てきて俺の肩を掴んだらと思うと――――――戻るのも、また恐ろしい。
「(……いやいや、俺。何ビビってんだよ。たかが地下のギャラリーに!)」
そうだよ、ビルの地下にあるテナントなんてなれっこじゃないか。お客さんの所にもあるし、居酒屋だって地下にある。ライブハウスだって地下にある。別に怖い物では無い。
怖いものでは。
ない。
…………はず、なのだ。なのにどうもずっと、この先には行ってはいけないという第六感のようなものが警鐘を鳴らしている。けれど好奇心がずっとずっと、俺の足を進ませる。
「―――――――――――あ」
ふいに、ぼんやりとした灯を捉えた。速足になる。革靴の音が響く。
「…………あ、った………豹の眼」
一階に貼られていたのと同じような「ギャラリー豹の眼」という看板がそこにあった。擦りガラスの引戸はなんだか古めかしい。
もう一度、唾を飲む。深く、息を吸い込む。
「……………よし、…………っ」
俺は引戸に手を掛け、思い切りスライドする。ひかりが、俺の眼を刺した。
「う」
多分そこまで明るいわけでもないのに、長く薄暗闇にいたからかひどく眩しい。
そんなに長かったか?あの階段。いや長かったよ。降りても降りても暗闇だったじゃないか。本当にそうか?地下一階だったろ?………そもそも、「地下」としか書かれてなかったじゃないか。ここって本当に一階か?三階くらい下らなかったか?
眩しさは俺の感覚をぐるぐると掻き回す。つい、壁に手を突いてしまった。
「――――――――――っは………はあ、………」
呼吸を整える。瞬きを数回、目を慣らす。そうして、前を向いて――――――――俺は、息を呑んだ。
「…………えっ…………?」
女の体がそこにあった。
首は無い。四肢も無い。言うなれば、服屋に置かれたトルソーのような姿をしている。しかしトルソーと圧倒的に違うのは―――――その肌の色が無機質な白などではなく、ひとの肌の色をしていたからだ。
乳首もある。臍もある。
そして首の位置には――――――大輪の花が生けられていた。
「………ほ、本物………?な、わけ……ないか……」
やたらリアリティのある悪趣味な作品は、ライトの下行儀よく鎮座している。なんとなく、しげしげと細部を見てしまう。さすがに触ってはいけないとは理解しているが、その肌は見ているだけで滑らかそうな印象を俺に与えた。
少し後ずさり、全身を見る。
「あ、これ―――――――人体を花瓶に見立ててるのかな」
口にしてしまえばそれはもう「花瓶」だった。花を生けるための器。それひとつでも存在感を放つが、花と共に在ると更に美しさを放つ瓶。女体に挿された花は少々派手なくらいで、なんとなくこの女体の持ち主は赤い口紅の似合う華美なひとだったのだろうと思う。
「(………いや、持ち主って。これ作り物だろ?)」
そうだ、これは作り物。そうじゃなきゃ困る。例えどれだけリアルでも、「ほんもの」であっていいはずが無いのである。
「………他の作品も見てみるか………」
奥に、歩を進める。数歩歩いた所でぴたりと止まり、振り向く。
なんだか花がこちらを見ているような気がした。
俺は速足で、次の作品の元へ急いだ。
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