第3話『禁欲スキルと、ハーレム契約書』

──朝が来た。


 まるで絵画のような朝だった。


 空は淡金色に染まり、東の丘から斜陽が山並みに落ちる。

 鳥の声は囁くように優しく、風は清々しく葉を揺らす。

 水晶のように澄んだ川には銀色の小魚が跳ね、道の両脇には空色の苔花が群生している。


 目に映るすべてが、この異世界煩界ニルヴァ=ルの光景だった。


 ──まるで極楽浄土のような……いや、地獄の手前である。


「……むぅ……なんじゃ、この穢れなき空気は……心まで洗われる……」


 大阿闍梨・賢山道真は、石畳のテラスに座し、ゆるやかな呼吸を繰り返していた。

 その姿はまさに、賢者。絵に描いたような修行僧──のはず、なのだが。


 彼の斜め後ろ、木陰に隠れて──


「……きゃっ♡ すごい、静寂オーラ出てる……!」


「すげー修行してる! マジ修行僧! でも……なんか……その姿勢、セクシー……」


「ちょっと発汗してる……すごく、ありがたい匂いですぅ……♡」


 ──ヒロインたちが息を殺して覗いていた。


 エルフ娘・エルミナ、けも耳少女・タマキ、スライム体質のルゥ。

 三人は“修行のための接近”を命じられ、道真にぴったりくっつく生活を送っていた。


 結果として、道真は──


 毎朝、3回は般若心経を唱え、2回は池に飛び込み、1回は全力で逃げ出す


 というルーティンを確立した。


「わしは……一体、何のために転生など……」


 神に問う声は、今日も空に吸い込まれる。


 



 


 その日の午後、道真は女神リリスに呼び出され、神殿へと向かっていた。


 ──煩界ニルヴァ=ルの中心にそびえる、白銀の神殿ミルクル=セレスティア

 塔のように高く、柱は螺旋模様、石の光沢は乳白色に輝く。

 大地の“母性”を象ったというこの神殿の内部は、温泉のような湯気に包まれ、常にどこかがぬるい。


「修行にならぬ……これはもう、感触がぬるま湯すぎる……」


 神殿の奥に進むと、玉座にまたがるように──螺旋ツインテールの煩悩神官・リリスがいた。


「おまたせっ♡ 賢者様、今日は大事な発表があるんですよ~!」


「……仏の名を騙るならば、せめて服を増やせ。肩紐すら足りぬではないか」


「服が少ないほど、信仰度が高いんです♡ じゃーん!」


 彼女が取り出したのは、一枚の羊皮紙──契約書だった。


「これは、《ハーレム契約書》! 賢者様がヒロイン3人と“精神修行”を進めるための正式な誓約書です!」


「……断る」


「はやっ」


「そもそも、わしは出家しておる。女と誓約など、罰当たりも甚だしい」


「でもこれ、もう神託に登録されちゃってます♡ ほらっ」


 ぱぱぱっ、と彼女が指を鳴らすと、宙に光のスクロールが現れる。

 それには確かに記されていた。


【天界異世界運営記録】

転生者番号:#115999

名前:賢山道真

属性:極限禁欲童貞型

転生条件:ハーレム候補との精神修行(全3名)


🔸修行対象ヒロイン:

・聖乳巫女エルミナ(爆乳)

・戦乙女タマキ(けも耳)

・濡体霊種ルゥ(スライム)


🔸進行任務:

①各ヒロインと心の交流

②欲望との対話

③煩悩に耐えながら魔力同調(物理あり)

※拒否権なし

※逃亡不可(天界ポイント無効化)

※脱童貞時点で終了エンド確定(悟りバッドエンド)


「……ば、ばっど……えんど……?」


「そっ♡ この世界では、童貞が賢者の資格なんです! 奪われた瞬間、全スキルがゼロに戻っちゃう♡」


「阿鼻叫喚じゃあああああああ!!」


 道真は神殿中に響き渡る叫び声を上げた。

 スキルがゼロ!? 108年の修行が、ワンミスで無に帰す!?


 これはもはや修行ではなく──地雷ゲームである。


 



 


 リリスは、そんな賢者に小さく微笑む。


「でもね。あなたのスキル、ほんとうにすごいんです。はい、これ」


 差し出されたのは、透明なクリスタル盤──ステータス表示装置だ。


■【賢者ステータス:賢山道真】


・《禁欲の悟り》:煩悩誘惑全無効。視覚的な性的刺激を無化する

・《無念無想》:精神集中時、全魔力行動が倍速処理化。時間感覚切断

・《童貞最終奥義:賢者モード・カウンター》:最初に接触してきた女体に、賢者モードによる精神崩壊カウンターを返す(使用1回)


■現在の精神耐久度:9,900 / 10,000

■煩悩耐性ボーナス:+1,800%

■魔力総量:Eランク(だが上限が∞)


「──すさまじい……」


 だがその下に、赤文字で一行。


《童貞を失うとすべて失う。》


 ──地獄だった。


 その瞬間、道真の脳裏に浮かんだのは、山中での修行の数々。


 雪の日に裸足で歩いたあの夜。

 鹿と飯を奪い合い、枯れた草を噛み締めたあの朝。

 そして──弟子が持ってきた“隠しエロ本”に、鼻血を出しそうになって池にダイブしたあの日。


 あれすらも、この異世界に比べれば──天国だった。


 



 


 ──日が暮れる頃。


 道真は神殿の中庭に戻り、膝を折って座していた。


 目を閉じ、合掌し、心を鎮める。


 背後では、エルミナが食事の準備をし、タマキが布団を整え、ルゥが濡れた石畳を拭いていた。


「……なるほど。これは、逃げられぬ。逃げるほどに、煩悩が追ってくる」


 道真は静かに息を吐く。


「──ならば、これは修行なのだ。

 わしがかつて千日を山で越えたように、

 今度は、女難を千日、心で越えてみせようではないか」


 その瞬間、彼のスキルが静かに光を放った。


《禁欲の悟り》がランクアップ──

《煩悩無想・初段》へ進化。


 かくして、賢者・道真は異世界の“修行”を受け入れた。


 ──だがそれは、煩悩との戦いの始まりにすぎなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る