第8章

その日

特に用事もなく

ただ街をふらふら歩いてた


人混みの中

どこを見てるわけでもなく

スマホもあまり開かずに


気付けば、いつもの繁華街近くまで来ていた


──行こうかな…

でも今日はやめとこうかな…


自分の中で迷いながら立ち止まったその時


「──玲那?」


突然、聞き慣れた低い声が背後から届いた


心臓が一気に跳ねた


振り返ると

少し離れた場所に飛悠が立っていた


私服姿の飛悠は、店とはまた全然違って見えた


「……っ」


驚いて言葉が出ないまま固まる私に

飛悠は少しだけ口元を緩めた


「こんなとこで何してんの」


「…別に、歩いてただけ」


「ふーん」


その短い返事の中に

どこか柔らかい空気を感じた


 


「飛悠の方こそ…今日は休み?」


「まぁ…たまにはな」


二人の間に微妙な間ができる


誰も周りにいない

仕事の顔じゃない飛悠が目の前にいるのが

なんだか変な感じだった


 


「最近、来ないね」


ふいにそう言われて

胸の奥がズクンと鳴った


「…忙しかっただけ」


「そう」


たったそれだけのやりとりなのに

今までのどの会話より

心臓が苦しかった


 


ほんの数秒沈黙して

飛悠が少しだけ目を細めた


「…まぁ、無理に来なくてもいいけど」


「……」


「でも、来なくなるとちょっと寂しいな」


 


一瞬、息が止まりそうになった


優しいわけじゃない

でも、今までにない言葉だった


顔を上げると

飛悠はまた、軽く笑ってた


「気を付けて帰りな」


そう言って歩き出していく


私はその背中を

しばらく動けずに見送っていた

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