泡の宴、あるいは黄昏の始まり
アメリカは、双子の赤字に苦しんでいた。ベトナム戦争の戦費と、偉大なる社会政策のツケが、その強大な国家の屋台骨を、静かに蝕んでいたのだ。そこで彼らが打った手は、プラザ合意。主要国が協調し、ドル高を是正するという、荒療治だった。
その結果、この日本は、急激な円高に見舞われた。円高不況を恐れた政府と日銀は、教科書通り、超金融緩和政策を行う。金利は史上最低水準まで引き下げられ、市中には、使い道のない金が、ジャブジャブと溢れかえった。
その、行き場を失った金が、どこへ向かうか。答えは、明白だった。土地と、株だ。
1980年代後半、この国は、狂乱の宴に浮かれていた。
東京の土地を全て売れば、アメリカ全土が買える。そんな、馬鹿げた冗談が、まことしやかに囁かれた。企業の時価総額ランキングの上位は、日本の銀行が独占し、誰もが、明日の株価の話に夢中になった。私もまた、伝説の投資家「R」として、この狂乱の市場で、天文学的な利益を上げていたが、その心は、ひどく冷めていた。
『――またか』
いつか来た道だ。栄華を極めた平家、天下を統一した豊臣、そして、無敵を誇ったナポレオン。全ての栄光は、泡のように生まれ、そして、泡のように消える。諸行無常、盛者必衰。私が千年前に悟った、この世の理。それを、この国は、今まさに、国を挙げて、壮大なスケールで再現しているに過ぎない。
やがて、政府も、この異常な資産価格の高騰に気づき、慌てて金融引き締めと総量規制へと舵を切った。その瞬間、宴は、終わった。
株価は、滝のように暴落し、土地の値段も、際限なく下がり続けた。一夜にして、億万長者が、莫大な借金を背負う。誰もが信じて疑わなかった、「土地神話」は、音を立てて崩れ去った。
バブルの、崩壊。
その後に残されたのは、「失われた十年」、いや、二十年、三十年と呼ばれる、長い、長い、停滞の時代だった。
そして、その黄昏は、もっと静かな、しかし、より深刻な形で、この国の根幹を蝕んでいた。
少子高齢化。
1970年代のオイルショックを境に、この国の出生率は、坂を転がり落ちるように、低下し続けていた。かつて、子供は「宝」であり、労働力であり、家の存続そのものだった。だが、豊かになり、都市化が進み、女性が高学歴化するにつれて、子供は、「コスト」のかかる、個人の選択肢の一つへと変わっていった。
1989年には、合計特殊出生率が、丙午(ひのえうま)の年を下回る、1.57という数値を記録した。世に言う、「1.57ショック」。
『――子供を作らない、か』
それは、生物としての、種の保存という、根源的な役割の放棄に他ならない。それは、緩やかに、しかし確実に、国そのものを滅ぼそうとしている、静かなる自決にも思えた。
その、1989年。
一つの、巨大な時代が、終わった。
昭和天皇の、崩御。
激動の昭和を、その身に背負い続けた帝が、世を去った。日本中が、深い悲しみに包まれた。テレビからは、追悼番組が、延々と流れ続ける。
その光景を眺めながら、私は、感慨深く、しかし、どこか突き放したような気持ちでいた。
かつて、現人神(あらひとがみ)とされ、その名の下に、何百万という命が失われた帝。その権威は、今や、国民に愛され、敬われる、象徴的な存在へと変わっていた。それが、この国にとって、良いことなのか、悪いことのか。私には、分からない。それは、この国に生きる、有限の命を持つ人間たちが、自らで決めることだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます