戦場の天使、あるいはリンカーンの影
私が負傷し、身を隠していた野戦病院。そこで、私は、リアと出会った。
彼女は、北軍の従軍医師として、この地獄のような戦場で、献身的に兵士たちの看護をしていた。血と膿と、死臭に満ちたテントの中で、彼女だけが、まるで場違いなほど、清廉な空気を纏っていた。
得体の知れない私を匿って看病してくれた。
彼女の父は、アメリカ・メキシコ戦争で戦死したという。その時、彼女はまだ十一歳。母もまた、彼女が十九の時に病で亡くし、天涯孤独の身となった。二十五歳でこの戦争が始まった時、彼女は、自らの知識と技術で、一人でも多くの命を救うのだと誓い、志願して、この戦場に来たのだと、淡々と語った。
彼女は、この戦争の終結と、南北の真の和解、そして、奴隷制度の完全な撤廃を、心から願っていた。
「人が、人を、肌の色や生まれで縛ることなんて、間違っている。私たちは皆、神の下で、平等なはずよ」
その真っ直ぐな瞳は、かつて私が出会った、メリーのものと、どこか似ていた。
私は、傷ついた片腕の男として、彼女の看護を受けた。そして、私たちは、自然と、恋に落ちた。それは、炎のような激しい恋ではない。地獄の片隅で、互いの存在を確かめ合うように、静かに、しかし深く、心を重ねていくような恋だった。
やがて、戦争は終わった。北軍の勝利。アメリカという国は、分裂を乗り越え、より強固な一つの国家として、再出発することになった。
私は、リアと共に、ワシントンのフォード劇場にいた。大統領であるエイブラハム・リンカーンの、「人民の、人民による、人民のための政治」という、あの有名な演説を、生で聞いた。その言葉の持つ力と、彼の誠実な人柄に、アメリカの未来は明るいだろうと、誰もが確信したはずだ。
だが、その数日後。
同じフォード劇場で、リンカーンは、凶弾に倒れた。
歓喜に沸く街の中で、私は、この国の、あまりにも多難な未来を、予感せずにはいられなかった。光が強ければ、影もまた、濃くなるのだ。
「ラン、これから、どうするの?」
リアは、私の再生した左腕を、信じられないというような目で見つめながら、尋ねた。彼女は、とうに、私がただの人間ではないことに気づいていた。
「俺は、俺の国に帰る。あそこも、もうすぐ、大きな戦が始まるだろうから」
「……そう。あなたの旅は、まだ続くのね」
私たちは、どちらからともなく、別れの言葉を口にした。これが、最後の夜になるだろうと、分かっていたから。リアは、医者として、この国の再建のために、その生涯を捧げるだろう。私とは、生きる世界が、あまりにも違いすぎた。
帰国した私の目に映ったのは、倒幕への流れが、もはや誰にも止められない濁流となっている、故郷の姿だった。
物騒な暗殺事件が、白昼堂々、行われる。坂本龍馬、中岡慎太郎といった、新しい時代を夢見た男たちが、次々と闇に消えていった。幕府は、新選組のような暴力装置を使って、志士たちを処刑するが、それは、火に油を注ぐだけだった。
薩摩や長州といった雄藩は、私がアメリカにいる間に、驚くべき速さで西洋の技術を取り入れていた。自前の反射炉で大砲を作り、オランダから蒸気船を購入し、最新式のライフル銃で、その軍備を固めている。彼らは、もはや、「攘夷」などという戯言は口にしない。狙いは、幕府を倒し、自分たちがこの国の新しい支配者となることだ。
そして、慶応三年、1867年。十五代将軍、徳川慶喜は、ついに、大政奉還を行った。二百六十年以上続いた、徳川の世の、あっけないほどの終焉。
翌年、京の朝廷から、「王政復古の大号令」が発せられる。
『――また、帝の時代に、戻ったのか』
泡沫城の天守から、新しい時代の到来を告げる動乱の煙を眺めながら、私は、感傷的になっていた。千年近く前、私が仕えた、あの孤独な帝。私がその腕で守ろうとした、あの玉座。その玉座に、今、また、新しい神輿が担ぎ上げられようとしている。
それは、過去の亡霊が蘇ったかのようでもあり、しかし、全く新しい、未知の時代の幕開けでもあった。
私の、長い長い旅の、クライマックスは、すぐそこまで来ている。私は、その激動の時代の風を、肌で感じながら、静かに、その時を待っていた。
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