高麗の女(ひと)、ピョウ
海を渡る旅は、危険に満ちていた。
だが、人ならざるこの身と、千年を超える知識は、嵐を読み、海賊をあしらうことを可能にした。私は、壊れた元の船から、てつはうの残骸や、蒙古弓をいくつか回収し、その構造を分析した。火薬の調合、弓の素材。全てが、私の知的好奇心を刺激した。
そんな旅の途中だった。
一艘の、明らかに商船ではない、大型の船と遭遇した。高麗のものか、あるいは、もっと南の国の船か。見張りはいるものの、どこか雰囲気が緩んでいる。
私の内に眠る、橘嵐の血が騒いだ。
夜陰に紛れて、私はその船に、音もなく忍び込んだ。
船内には、異様な匂いが満ちていた。汗、汚物、そして、恐怖の匂い。
船倉を覗き、私は息を呑んだ。
そこには、十数人の女たちが、家畜のように押し込められていた。彼女たちの多くは気を失い、あるいは虚ろな目で宙を見つめている。人攫いにあい、奴隷としてどこかへ売り飛ばされる途中なのだろう。
私は、かつて物の怪を狩った時のように、静かに船員たちを始末していった。人外の身体能力の前では、彼らは赤子同然だった。誰一人、警報を鳴らすことさえできずに、海の底へと沈んでいった。
船を乗っ取った後、私は船倉の女たちを解放した。
「もう大丈夫だ。お前たちは自由だ」
だが、彼女たちのほとんどは、私の言葉を理解できず、ただ怯えるばかりだった。
その中に、一人だけ、私を真っ直ぐに見つめ返す女がいた。
年の頃は、二十歳前後か。垢と汚れにまみれているが、その美しさは隠しきれていなかった。気品のある顔立ち、誇りを失わない強い瞳。彼女は、高麗の言葉で、ゆっくりと、しかしはっきりと言った。
「あなたは……一体、何者ですか? 私たちを、助けてくださるのですか?」
その女は、ピョウと名乗った。
彼女は、高麗の貴族の娘だった。政争に敗れた父は殺され、彼女自身は、勝者への「貢物」として、人攫いに引き渡されたのだという。
他の女たちを近くの島に降ろし、食料と金を与えて解放した後、私はピョウだけを、私の舟に乗せた。
「あなたを、故郷に送り届ける。ご両親は……もういないのだろうが、あなたの帰りを待つ誰かがいるかもしれない」
「……」
ピョウは、黙って頷いた。その瞳には、感謝と、そして私という存在への、尽きない興味が浮かんでいた。
二人きりの、海の上での奇妙な旅が始まった。
私は、彼女の身の上話を聞き、彼女は、私が日本の商人である(ということにした)話に耳を傾けた。
ピyョウは、聡明な女だった。彼女は、私がただの商人ではないことに、とうに気づいていた。私の操船術、よどみない大陸の言葉、そして、時折見せる、人間離れした身体能力。
ある夜、月明かりの下、彼女は私に問うた。
「あなたは、本当は、誰なのですか? あなたのその編笠の下を、見せてはいただけませんか?」
私は、静かに編笠を取った。
この顔を人に見せるのは、あの帝以来のことかもしれなかった。
月光に照らされた私の貌(かお)を見て、ピョウは、息を呑んだ。
だが、その瞳には、恐怖も、嫌悪もなかった。あったのは、ただ、深い深い、悲しみと同情の色だった。
「……あなたは、なんて哀しい顔をするひと」
その一言が、私の心の、千年間誰も触れたことのなかった場所に、不意に突き刺さった。
誰もが私の美貌に狂い、欲望を剥き出しにするか、あるいは恐れをなして逃げていった。だが、この女は、その奥にある私の魂の「哀しみ」を、ただ真っ直ぐに見つめてきた。
その夜、私たちは、体を重ねた。
女同士の、ぎこちなく、しかし慈しむような交わり。それは、欲望のはけ口ではない。傷ついた魂と魂が、ただ互いの温もりを求め合うような、静かで、穏やかな時間だった。私のこの化け物の体は、男を狂わせることはできても、女を、その心ごと抱きしめることもできた。エリーが私の中で生きているからだろうか。
私は、約束通り、ピョウを高麗のとある港町に送り届けた。
「ここからなら、あなたのことを知る者に会えるかもしれない。達者で」
別れ際、ピョウは、私の手を強く握りしめた。
「いつか、また、会えますか」
「さあな。風の吹くまま、流れるまま」
私はそう言って、彼女に背を向けた。
舟に乗り、沖へ出る。
振り返ると、ピョウが、いつまでも、いつまでも、岸辺に立ち、私を見送っていた。
私の長い旅路の中で、ほんの束の間、交差しただけの命。
だが、彼女が言った「哀しい顔」という言葉と、あの夜の温もりは、その後も、私の心に、消えることのない小さな灯火のように、宿り続けることになる。
私の心にあるエリーの怨念が、ほんの少しだけ、その熱で和らいだような気がした。
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