鬼の誕生、あるいは永遠の旅路
岩礁を離れる頃には、東の空が白み始めていた。
私の心の中に、もはや悲しみはなかった。怒りも、絶望も、全てが新しい『私』を構成する要素として溶け合い、底なしの虚無に似た、静かな感情へと昇華されていた。
私は今や、人間ではない。
かといって、人魚でもない。
両者の狭間で生まれた、孤独な化け物。
この姿で、どこへ行けばいいのか。
京へ戻ることなど、万に一つもできない。人里に下りれば、この貌が必ずや騒動を引き起こすだろう。
姿を隠し、過ごしていた。
数年か、あるいは数十年か。時間の感覚は曖昧になっていた。山奥の廃寺に住み着き、獣を狩り、沢の水を飲んで生きながらえた。人魚の肉は私を不老の化け物にしたらしく、姿はあの岩礁で変貌を遂げた時から、何一つ変わらなかった。飢えも、渇きも、ほとんど感じない。ただ、時折、どうしようもない孤独感だけが、波のように押し寄せては引いていった。
エリー。
お前の望んだ『永遠』は、これだったのか。
この、終わりのない、孤独な時間を生き続けることが。
そんな日々が続いていたある時。
運命は、またしても私を、人の世へと引き戻した。
偶然、山狩りに来ていた一行に、私は見つかってしまったのだ。
そして、その一行を率いていたのは、私の記憶にある、あの男だった。
「……帝」
私の口から、思わずその名が漏れた。
彼は、私が京を捨ててから数十年は経っているはずなのに、驚くほど変わらぬ姿をしていた。いや、以前よりもその美貌には凄みが増し、しかし瞳の奥の虚無は、さらに深く、暗くなっているようだった。彼は、私が姿を消した後、奇跡的に病から回復し、摂政藤原氏を力で押さえつけ、以前にも増して強大な権力を持つ専制君主として君臨しているのだという。
帝は、私を見るなり、その場に凍りついた。
その瞳が、驚愕に、次いで信じられないというような狂熱の色に見開かれていく。
「……そなたは」
彼は馬から転がり落ちるように下り、ふらふらと、まるで夢遊病者のように私へと歩み寄ってきた。
「そなたは、誰だ……? いや、違う……その魂の気配……まさか、嵐……なのか……?」
彼は、私のこの姿を見ても、その魂の奥にある本質を見抜いたのだ。やはり、彼もまた、同類の鬼だった。
その日から、私の運命は再び大きく狂い始める。
帝は私に恋をした。
かつて唯一の友であった男は、今や、この化け物となった私の美貌の虜となった。彼は私を都に連れ帰り、誰にも触れさせぬよう、宮殿の奥深くに囲った。
「そなたがいれば、余は何もいらぬ」
彼はそう言って、政(まつりごと)を放棄した。国よりも、民よりも、この私という存在を優先した。
命を懸けて守ろうと誓った主君が、私なんかに現(うつつ)を抜かす姿を見て、私の心は初めて、痛んだ。エリーから受け継いだ、人間への怨念と憎悪。その感情を持つ一方で、かつて橘嵐として抱いていた忠誠心や友情が、まだ私の魂の片隅に残っていたのだ。
帝の為に国を滅ぼした女。
私は、いつしかそう呼ばれるようになった。
公家も、武士も、民も、皆が私を憎んだ。だが、その憎しみすらも、私の貌の前では、歪んだ欲望へと変わる。誰もが私を求め、そして、私の前で狂っていく。
私は、自らが振りまく災厄に耐えきれなくなった。
ある夜、私は宮殿を抜け出すことを決意した。牢屋の鉄格子など、今の私にとっては紙のようなものだった。造作もなく引き裂き、私は脱走した。
かつて帝に仕える武士として手刀で鉄格子を斬ったという逸話は、いつの間にか、私が女の身でそれを成したという伝説にすり替わっていた。
それから、今日まで、実に千百三十年ほどを生きている。
どうやら人魚の肉は、私を、死ぬことさえ許されない、不老の化け物にしたらしい。
お陰で、人間どもに何度も殺されかけた。
魔女として。物の怪として。国を惑わす傾国の美女として。その度に、私は生き延び、そして、逃げ続けた。
そりゃあ、そうさ。
俺はもう、人間サイドではなくなったのだから。
人間どもは、すぐに私に盲目になり恋をする。
その、愚かで、哀れで、そしてどこか愛おしい感情に、私は幾度となく触れてきた。
その千百三十年の間に、色々な事があった。私は、何度も人を救った。愛した者もいた。憎んだ者もいた。人魚の生まれるという竜宮城へも行った。そこで、エリーと同じ、人魚の男と恋をし、共に過ごしたこともあった。世界大戦も経験し、私の住む国が敗戦し、そして復活していく情熱の時代も、この目で見てきた。
そして今、老いて、緩やかに死にゆくこの国に、私はまだ、生きている。
これは、そんな私の物語。
人でもなく、人魚でもない私が、その途方もない知恵と、化け物染みた身体能力で、人や、あるいは人ならざる誰かと関わり続ける、終わりのない旅の記録だ。
誰かの優しさや愛に触れる度に、私の中で眠るエリーの怨念が、少しずつ紐解かれていくのを感じる。
いつか、全てを許し、愛せる時は来るのだろうか。
エリー、そして、かつての友、帝よ。
お前たちが遺した、この呪いと祝福を抱いて、私は、今日もこの退屈で、しかし時折、美しくもある世界を、歩き続けていく。
その長い長い旅は、まだ、始まったばかりなのだ。
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